Dec 19, 2005
いまさらながら「詩作」について。
もう大分過去のことですが、ある方から「本など読むな。詩は知識を積んだから書けるものではない。それらは詩作のたった5%ほどの助けにしかならない。詩作は自らの感性だけが力だ。」と言われたことがあります。その言葉は強烈な記憶としてわたくしに残り続けました。
数年前に詩人吉原幸子さんが逝去されて、その後に「偲ぶ会」が開かれました。その折に献杯の役を引き受けられた詩人那珂太郎さんのお言葉が大変印象に残りました。那珂太郎さんは吉原幸子さんの高校時代の恩師でもいらっしゃいます。
『詩人吉原幸子は、あふれる程の教養と知識がありながら、それを全部背後に押しやって、その澄んだ感性だけで詩を書いた人でした。』
つまり、わたくしは全く同じ言葉を、全く関係のないお二人から聞いたことになったので、大変に驚きました。すぐにその那珂太郎さんのお言葉を、前記の方に伝えましたが「そうだろう?」と微笑んで答えられました。ううむ。これはわたくしには都合がよい「教え」なのですが、反面では厳しい感性の持続を迫られることでもあるのです。
これを反転させて、わたくしが詩の読者にまわった時に、その知識を強要してくる作品に出会うことがあります。つまりその知識がなければ読み取れないという作品、あるいはさまざまな書物からの「引用」を入れて書かれた作品です。おそらくそれらは書き手にはとても好きな世界で、どうしてもそれを詩作の上で生かしていきたいという思いがあるのでしょう。しかし、それが読み手にうまく伝わらないものであったとしたら、それは生かしたことにはならないでしょうし、それらの知識を自らの詩作の栄養として吸収しきれていないか、あるいはその知識を超えることができない状況なのではないかと思います。もっときつい言い方をするならば、その知識に拠りかかった詩作だとも言えるかもしれません。
乞う。反論(^^)。。
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