Nov 30, 2005
Nov 29, 2005
世界とのめぐりあい
久しぶりに数年前の仕事に呼び出されて、その再開の機会を得た。つまり補遺の仕事である。
かつては不治の病とされ、あるいは遺伝性、伝染性などの観点から世間に恐れられ過酷な運命を辿った病が、医学の進歩とともにそれらは撤回されるという病の歴史は多々ある。この仕事も、その過酷な病の永い歴史を辿った人々の書かれた文学作品の集大成である。わたくしはその作品の整理を手伝うにすぎない、微々たる戦力でしかないのだが、こうして多分世間の大方の人々よりもわたしはこの世界の方々の声を聞いたのかもしれないと思う。またこれらの文学をさらに背後から支えた宗教、思想などもおぼろげに垣間見たと思う。
数年前のわたくしはその仕事に溺れそうになりながら、やみくもに読んだという必死の記憶ばかりがあるのだが、今回は少しだけ変った。少なくとも、その空白の数年の期間に、わたしはこうした閉鎖された過酷な世界から紡ぎ出される言葉について、わたしなりの考え方、あるいは向き合い方を手に入れたのだと思う。
また、人間の本当の優しさとはなにか?あるいは目をそむけてはならないものに、視線をそそぎ続ける強い意志と愛はなにか?そのようなものを、この仕事と、それに関わる方に教えて頂いている。
『一尾の魚を網はとらえる。けれども網が存在するのは、網よりも広い世界がそこにあるからである。そして一尾の魚は、その広い世界に属している。網は、魚を捕まえることで、その広い世界と関係をもつのだ。』 加藤典洋
Nov 23, 2005
相聞(あいぎこえ)・・・ふたたび
『相聞・あいぎこえ』のページに、『睡眠詩篇---ららばい』の一対の詩篇を追加いたしました。わたくしが最近「眠り」や「夢」にこだわって詩作していましたので、桐田真輔さんが若き日の作品を思い出して下さったようです。
最近、詩作品の類似性についての論議が起きているようですが、わたくしは、自作詩と似ている詩作品に出会うことは、とても嬉しい出来事だと思っています。
Nov 22, 2005
Nov 18, 2005
うろうろうろ。。。
久方ぶりに「お仕事」を少しだけ引き受けることになった。16日の午後に、それを受け取りに行く時に、家から駅までの道すがら撮った秋の風景です。仕事先の出版社に着く頃は、もう暗くなっていましたが、美しい満月でした。
さて、自宅に持ち帰り、家事の合間をぬいながら「お仕事」をするわけですが、それに自分を集中させるためには、家事をきちんとやらなければならないのだ。なんだかヘンな現象なのですが、仕事に集中するために、気がかりなことを減らそうとすると、わたしは働き者になってしまうのだった。
さらにさらに、パソコン周辺の整理整頓までやりました。そうしないと資料を置くスペースすらないというひどいデスク状況でした。これで、パソコン入力作業がスムースに運ぶようになるでしょう。わはは。ま。今のわたしは詩作低迷の時ですから「お仕事」に向かうのは救いとなるでしょうけれど。。。
Nov 15, 2005
脱力の人 正津勉
(↑この写真、本文と関係あるのかいな???)
この著書は、天野忠、和田久太郎、尾形亀之助、淵上毛銭、鈴木しず子、辻まこと、つげ義春の七人について作品を引用しながら、その人となりを書かれたものです。大変なはにかみやさんで、あるいは著者ご本人も「脱力の人」かもしれないと思われる詩人正津勉氏が、楽しく魅力的に書いていらして、読み手を引いてゆく力が充分にあった一冊だったと思います。わたくしは総括的に物事を書く力はありませんので、それぞれ七人の方々について書いてゆきます。
【天野忠】
わたくしは京都の詩人天野忠は、本当は「怒りの詩人」なのではないかと思っています。どんなに「脱力」の振りをしても、その言葉の背後にあるものは「怒り」です。そうでなければ「米」などという作品は生まれなかったと思うからです。
また、江戸っ子気質の学匠詩人西脇順三郎を京都に迎え、南禅寺を訪れた折に、天野忠が語ったと言われる「庭は便所の窓からみるのがよろしいな。庭が油断してますさかいに。」は、どこかの本で読んで忘れずにいた言葉でした。正津勉氏にも記憶に深く残っていたのでしょう。これは天野忠の「いけず」でしょう。この言葉は実に面白い。天野ファンとしては彼を筆頭に挙げて下さっただけで嬉しい。
【和田久太郎】
大杉栄等とともに、アナキスト活動に参加。性病と不幸な恋、そして獄中生活、「死刑」を望んだにも関わらず「無期懲役」という生き地獄の日々の果てに縊死した俳人である。享年三五歳であった。和田久太郎に関しての著書はほとんど読んでいませんでしたが、気になる存在ではありました。和田久太郎を一茶と結びつけたこともとても納得のいくものでした。
最近のわたくしには、それほど深い理解をしているわけではないのですが「アナキスト」という言葉が奇妙になつかしいのは何故だろう?和田久太郎については、もう少し別の本も読んでみたい気持になりました。獄中からの書簡が禁じられ、さらに本の差し入れも禁じられた獄中生活のなかの和田をもう少し知りたいと思います。もっとこのことに早く気付くべきだったと残念に思う。これから先どのくらい読めるかどうかわからないし、わたくし自身に残された時間も少ない。
月も照らせこれも浮世の一世帯 和田久太郎
【尾形亀之助】
最初に言っておきますが、わたくしはこの詩人が嫌いです。下記の言葉に出合ったのはこの本が初めてのことではないのですが、これは「脱力」ではないでしょう。尾形亀之助の生き方をよしと思うほどに、わたくし自身は壊れることはできないのです。それでもこのわたくしに尾形亀之助を必死に理解させようとした友人もいらっしゃいましたが、やはり納得できない。作品を読んで魅力的だとも思わなかった。作品が魅力的ならどのような生き方でもいいのですよ。
『・・・・・・働かなければ食へないなどとそんなことばかり言ってゐる石頭があったら、その男の前で「それはこんなことか」と餓死をしてしまってみせることもよいではないか。』(無形国へ)
【淵上毛銭】
淵上毛銭は結核からカリエスへと苦しい病床のなかで、作品のほとんどを書いたようです。墓碑銘は表に「病床詩雷淵上毛銭の墓」とあり、裏には「生きた。臥た、書いた」とあるそうです。さらに付け加えるならば「恋した」となるのでは?この壮絶な闘病生活の最終期に生まれた作品は、まさに「脱力」のようです。
死算
じつは
大きな声では云へないが
過去の長さと
未来の長さとは
同じなんだ
死んでごらん
よくわかる。
しかし、俳句はこうなります。「賃借りの片道さえも十万億土」。また、病気の初期にはこのような詩も書かれていました。彼は病床にいながらも、いや病床だからこそ常に恋をしていたようですね。
抱擁
愛してゐるのだと
その胸にとびこんで
だからそのあたりを
むしって食べながら
こんなに 愛してゐると
言ってゐるぢゃないか
椿の花がむかふに
見えてゐた
【鈴木しず子】
この俳人については、わたくしは、アンソロジー「愛の詩を読む」を始める頃に、あるフリーの編集者の方から初めて教えていただきました。その後でネットで正津勉さんのお書きになった一文に出会いました。女優のように美しい彼女は、少女期には太宰治を愛し、専門学校卒業後には製図工として働き、恋愛、婚約、婚約者の戦死を経ながらも、俳句を手放すことはなかった。また新しい恋のあとで、職場の上司との結婚もしたが、離婚。そこから彼女は全く違う人生を生きることになった。ダンサー、そして米兵のオンリー、その米兵の死、そうした日々のなかでさえ彼女の絶えることのない句作を見守りつづけた師がいました。彼女の二冊の句集はその師の尽力によって出版されていますが、爆発的に売れたそうです。しかし彼女は二冊目の句集出版祝賀会の後で、消息を絶ちました。
美しく、謎めいた鈴木しず子と、その大胆な作品は、世間の好奇の目にさらされながらも、彼女は真剣にその運命を生き抜いたのだと、わたくしは思います。
好きなものは玻璃薔薇雨指春雷
実石榴のかっと割れたる情痴かな
雪はげし妻たりし頃みごもりしこと
薔薇白く国際愛を得て棲めり
遊び女としてのたつきや黄水仙
【辻まこと】
一人づつ書いてゆくのが面倒になってきましたので、「この人は知らないよー。」と書いて逃げようと思っていましたが、なんとも面白い方だった。彼の父親は辻潤、母親は伊藤野枝、父親は放浪の果てに、誰にも看取られることなく虱に食われて死んでいた。つまり餓死である。母親は家族を捨てて大杉栄のもとに走り、挙句共に虐殺されている。つまり辻まことにはほとんど家庭生活というものはなかったようだ。
『存在はいずれ両親の横っつらを張り倒さなければならない。100%信ずべきことなど信じない勇気を持つべきだ。』
この辻まことの言葉はすごい。いい言葉だ。わたくしも人の子の親だ。奥歯噛み締めて子供から張り倒されてもいいなぁなどと思う。張り倒せる子であって欲しいよ。
しかも、もっと驚いたことは、辻まことは前記したわたくしの嫌いな「尾形亀之助」の超愛読者だったのです。戦地に赴く際にも彼の本を持参していました。尾形亀之助、辻の父親が「餓死」という最期をとげたことの共通性、さらに辻の父親も尾形亀之助の愛読者だったのですね。その父親の所蔵していた本を、息子の辻まことが読んだようです。わたくしはもう泣き出したくなる。
【つげ義春】
わたしは漫画家というものは皆目わからない。「つげ義春」は名前しか知らなかったのです。一冊も読んでいないので、正津勉氏の書かれたことの半分も理解できませんでした。ただ「無能の人」には興味を持ちました。これこそ「脱力の人」ではないかと。。。
さて、七人について書いてみましたが、この七人を「脱力の人」として括るのは、なんだか無理があるように思えます。どうしてもこの「脱力」という共通性を見出すことはわたしにはできなかったのです。正津さん、ごめんなさい。この七人は正津勉氏の青春時代に、少なからず影響を及ぼした人々であり、そこに正津氏の内面の共通性などがあったのでしょうか?また正津氏の大学時代から深い親交のあった詩人清水昶氏の存在も案外に大きかったようですね。共に「赤面症」という点においても。。。清水昶氏は「脱力の人」ではなかったのかなぁ?
(2005年8月・河出書房新社)
Nov 10, 2005
一の酉
昨日は大久保の俳句文学館にて定例の勉強会でした。なんの勉強やら・・・雑談ばかりに流れていまいますが、そのメンバーたちの雑談は結構面白い。たとえば「雪」が出れば、それぞれの雪のイメージを語り合うと、そのイメージは大きな差異がある。「神」が出れば、同じことがおこる。また作品の推敲に苦心した部分を見事にいつも見抜く人がいらっしゃるが、わたしはその方の長い詩歴と経験に対してあらためて頭を垂れる思いである。
その会の後で、新宿花園神社の「一の酉」をのぞいてみました。すごい人込みで疲れましたので、早々に逃げ出しました。
これは俳句文学館のロビーに飾ってあったものですが、烏瓜かいな???
Nov 08, 2005
「眠り」について―「象の消滅・村上春樹」より
「象の消滅」は「The Elephant Vanishes」と言うタイトルで、1993年にニューヨークのクノップス社の副社長であり編集次長でもあるゲイリー・L・フィスケットジョン氏が編集し、英語版として出版した、村上春樹の1980年~1991年に書かれた短編17編の選集である。2005年に、そのもともとの日本語版を新潮社が出版したという経緯がある。このなかに収録されている一編「眠り」について考えていることを、私事を優先して(笑)書いてみようと思う。
これはわたくしの1998年頃から始まって現在も続いている睡眠薬依存生活からくる興味に外ならない。1997年の夏に父が亡くなり、その半年後の1998年冬には独り身の姉を看取った。この二人の最期の看護と看取りの期間には、施設に託した痴呆症の母を引き取ることが、ずるずると引き伸ばされる結果となってしまった。その間にも母の病は急速に進み、わたくしの力量では母を引き取れる状態ではなくなっていた。姉の死後、苦渋の決断の結果わたくしは母をそのまま施設に託すことにした。しかしその「母を捨てたという後ろめたさ」が何度も夢となった。母が夢のなかで泣いていた。叱責していた。あるいは眠っているわたしを起こそうとしていた。これが不眠の始まりだった。2001年冬に、施設から母の異変の急報を受けて、わたくしがあわてて仕事の調整をとっている間に母は施設であっけなく亡くなり、わたくしの「悔い」は、そのまま残った。もう取り返しのつかないことだったのだ。
こんなわたくしにも、自分の「眠り」そのものをしっかりと飼いならした時期が二回ある。はじめは赤ん坊との日々だった。二度目は老いた両親の介護と看護、姉の看護の時期である。夜間すばやく起きて異変に対処し、パタンと眠る。実にうまく「眠り」を飼いならしていたのだった。
わたくし自身はこれを病気とは受け止めていない。薬を飲めばその分量だけの睡眠が保証されるわけで、それによって支障のない目覚めている時間も同時に保障されるのだから。むしろ睡眠薬服用によって、夜間の不眠による昼間の生活の困難さからも開放されたのだともいえる。しかし、服用を増量させると「夢の領域」は完全に取り払われてしまうことになるので、夜の白い精霊を飼いならすにはそこそこの術も必要のようだ。とはいうものの「不眠」の人間への興味というものは常にある。
前置きが長すぎた(^^;。さてこの「眠り」の主人公は、歯科医の妻であり、小学生の男児の母であり、経済的にも精神的にも難題をかかえている女性ではないが、潔癖と思えるほどにみずからの体形の維持に熱心な女性であり、定期的な水泳も欠かさずに通っていた。彼女の一回目の「不眠」は結婚生活の前の大学生の時に訪れたが、その決定的要因はわからない。その時は昼間の生活の困難さも伴っていたので、この「不眠」は正常(?)だと言えるでしょう。
二回目の「不眠」は「夢のなかでの金縛り」から始まったがその原因は不明である。しかし彼女は起き続ける生活に苦痛がないという不思議な症状を呈して、真夜中にはそれまであまり口にしなかったアルコールやチョコレートを食し、そして学生時代に戻ったかのように読書に熱中していた。明け方にはコーヒーとサンドイッチを食べ、起きだしてくる夫と子供にはいつも通りに朝食を作り、二人に「気をつけて。」と言って送り出している。家族は彼女の「不眠」には全く気付かないほど熟睡しているのが不思議だった。
そうした日々のなかで彼女は夫や子供を初めて遠い目で見ることになる。目覚め続ける生活のなかで彼女は初めて「家族」の日常にひそむ「撓み」や「醜悪」に気付いたのかもしれない。そしてある深夜に、かなり古くエンジンのかかりにくい彼女専用の車で深夜のドライブにでかけてしまう。停車した途端に車の両側に見知らぬ男たちが集まり、外側から揺さぶりを掛けられて、そこから逃げようにも、車のエンジンがかからない。彼女は闇のなかで泣くだけだった。男たちは彼女の車を倒そうとしていると感じる。ここでこの物語はおわる。それは「死」の予感なのか。あるいはこの奇妙な不眠生活への少々乱暴すぎる終止符なのだろうか?「翌朝の新聞記事には・・・」などという結末も書かれていない。それともこれは長すぎる夢だったのだろうか?
話題は急転換しますが、詩人中井英夫の詩集「眠るひとへの哀歌・1972年思潮社刊」のなかには、このような作品がある。この詩集も「眠る・・・」という言葉にに吊り上げられて開いてしまった。。。
不在の手
たばこが煙をあげている
いつまでも灰皿でけぶっている
誰かがいつか手をのばして
そのたばこをつまむのだろうと
見つめていてついに
手のあらわれなかった
夜
手の持主は
とうに眠ったのか
たばこだけが
まだ煙をあげている
この詩は「眠り」に取り残された人のことだろう。あるいはまだ帰ってこない未決のままの死者への語りかけだろう。眠れずに待っているのだが、待つ人はなかなかここへ戻ってきてはくれない。眠りとは「死」の領域なのだろうか?それとも「夢」の領域なのだろうか?「眠るたびに死の練習・・・」という詩を書いたのは誰だったかな?「人間は眠るたびに死に、目覚めの中で生を得る」と言ったのはピタゴラスだった。ピタゴラスさんは正論すぎてつまんないけれどね。
【付記】
このピタゴラスさんへのわたくしの発言に対して、お叱りを受けました(^^;)。この言葉の抱えている思想の歴史の重さをもう一度再考するようにとのことです。お叱り深謝致します。