Nov 08, 2005

「眠り」について―「象の消滅・村上春樹」より

05-11-5rose

 「象の消滅」は「The Elephant Vanishes」と言うタイトルで、1993年にニューヨークのクノップス社の副社長であり編集次長でもあるゲイリー・L・フィスケットジョン氏が編集し、英語版として出版した、村上春樹の1980年~1991年に書かれた短編17編の選集である。2005年に、そのもともとの日本語版を新潮社が出版したという経緯がある。このなかに収録されている一編「眠り」について考えていることを、私事を優先して(笑)書いてみようと思う。

 これはわたくしの1998年頃から始まって現在も続いている睡眠薬依存生活からくる興味に外ならない。1997年の夏に父が亡くなり、その半年後の1998年冬には独り身の姉を看取った。この二人の最期の看護と看取りの期間には、施設に託した痴呆症の母を引き取ることが、ずるずると引き伸ばされる結果となってしまった。その間にも母の病は急速に進み、わたくしの力量では母を引き取れる状態ではなくなっていた。姉の死後、苦渋の決断の結果わたくしは母をそのまま施設に託すことにした。しかしその「母を捨てたという後ろめたさ」が何度も夢となった。母が夢のなかで泣いていた。叱責していた。あるいは眠っているわたしを起こそうとしていた。これが不眠の始まりだった。2001年冬に、施設から母の異変の急報を受けて、わたくしがあわてて仕事の調整をとっている間に母は施設であっけなく亡くなり、わたくしの「悔い」は、そのまま残った。もう取り返しのつかないことだったのだ。
 こんなわたくしにも、自分の「眠り」そのものをしっかりと飼いならした時期が二回ある。はじめは赤ん坊との日々だった。二度目は老いた両親の介護と看護、姉の看護の時期である。夜間すばやく起きて異変に対処し、パタンと眠る。実にうまく「眠り」を飼いならしていたのだった。

 わたくし自身はこれを病気とは受け止めていない。薬を飲めばその分量だけの睡眠が保証されるわけで、それによって支障のない目覚めている時間も同時に保障されるのだから。むしろ睡眠薬服用によって、夜間の不眠による昼間の生活の困難さからも開放されたのだともいえる。しかし、服用を増量させると「夢の領域」は完全に取り払われてしまうことになるので、夜の白い精霊を飼いならすにはそこそこの術も必要のようだ。とはいうものの「不眠」の人間への興味というものは常にある。

 前置きが長すぎた(^^;。さてこの「眠り」の主人公は、歯科医の妻であり、小学生の男児の母であり、経済的にも精神的にも難題をかかえている女性ではないが、潔癖と思えるほどにみずからの体形の維持に熱心な女性であり、定期的な水泳も欠かさずに通っていた。彼女の一回目の「不眠」は結婚生活の前の大学生の時に訪れたが、その決定的要因はわからない。その時は昼間の生活の困難さも伴っていたので、この「不眠」は正常(?)だと言えるでしょう。

 二回目の「不眠」は「夢のなかでの金縛り」から始まったがその原因は不明である。しかし彼女は起き続ける生活に苦痛がないという不思議な症状を呈して、真夜中にはそれまであまり口にしなかったアルコールやチョコレートを食し、そして学生時代に戻ったかのように読書に熱中していた。明け方にはコーヒーとサンドイッチを食べ、起きだしてくる夫と子供にはいつも通りに朝食を作り、二人に「気をつけて。」と言って送り出している。家族は彼女の「不眠」には全く気付かないほど熟睡しているのが不思議だった。

 そうした日々のなかで彼女は夫や子供を初めて遠い目で見ることになる。目覚め続ける生活のなかで彼女は初めて「家族」の日常にひそむ「撓み」や「醜悪」に気付いたのかもしれない。そしてある深夜に、かなり古くエンジンのかかりにくい彼女専用の車で深夜のドライブにでかけてしまう。停車した途端に車の両側に見知らぬ男たちが集まり、外側から揺さぶりを掛けられて、そこから逃げようにも、車のエンジンがかからない。彼女は闇のなかで泣くだけだった。男たちは彼女の車を倒そうとしていると感じる。ここでこの物語はおわる。それは「死」の予感なのか。あるいはこの奇妙な不眠生活への少々乱暴すぎる終止符なのだろうか?「翌朝の新聞記事には・・・」などという結末も書かれていない。それともこれは長すぎる夢だったのだろうか?

 話題は急転換しますが、詩人中井英夫の詩集「眠るひとへの哀歌・1972年思潮社刊」のなかには、このような作品がある。この詩集も「眠る・・・」という言葉にに吊り上げられて開いてしまった。。。

  不在の手

  たばこが煙をあげている
  いつまでも灰皿でけぶっている
  誰かがいつか手をのばして
  そのたばこをつまむのだろうと
  見つめていてついに
  手のあらわれなかった
  夜

  手の持主は
  とうに眠ったのか
  たばこだけが
  まだ煙をあげている

 この詩は「眠り」に取り残された人のことだろう。あるいはまだ帰ってこない未決のままの死者への語りかけだろう。眠れずに待っているのだが、待つ人はなかなかここへ戻ってきてはくれない。眠りとは「死」の領域なのだろうか?それとも「夢」の領域なのだろうか?「眠るたびに死の練習・・・」という詩を書いたのは誰だったかな?「人間は眠るたびに死に、目覚めの中で生を得る」と言ったのはピタゴラスだった。ピタゴラスさんは正論すぎてつまんないけれどね。


 【付記】
 このピタゴラスさんへのわたくしの発言に対して、お叱りを受けました(^^;)。この言葉の抱えている思想の歴史の重さをもう一度再考するようにとのことです。お叱り深謝致します。
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