Sep 29, 2005
ぞうのうんこ 穂村弘&東君平
二十八日午後、久しぶりに近所の図書館に行って、久しぶりにあちことと見てまわった。立ったり、座り込んだりの姿勢を繰り返していたら、立ち上がる時に脳貧血状態になってしまったので、フラフラしながら取りあえず借りてきた本がこの本と「尾崎翠」である。帰ってきてから少し眠って、こちらを先に開いた。これは穂村弘の過去の短歌作品と、東君平の過去の絵とで構成された、薄い本である。
サバンナの象のうんこよ聞いてくれ だるいせつないこわいさみしい
穂村弘の短歌のなかで、これが一番気に入っているのですが、表紙のイラストを見て、びっくりした。あたしは、サバンナの草原に落ちている、風に少し乾きかかっているような巨大な「うんこ」を想像していたのだが・・・。東君平氏の意図がわかりませぬ。まぁ。どうでもいいですけど。。。
「みえるものが真実なのよ 黄緑の鳩を時計が吐きだす夜も」
「時間」を語る言葉はなんでも好きである。「時間」は代用品がないから。「真実」「事実」はどちらが「より真実」であるか?「事実」にほんの少しの「嘘」を化合させると「より真実結晶体」ができるのであるとあたしは思ふ。それが一番うつくしいと思ふ。
尻にあるネジさえ巻けばシンバルを失くした猿も掌を打ち鳴らす
ううむ。「オペラ座の怪人」を思い出す。
ついでに退屈きわまりない顔をして、溜息まじりでこの映画に付き合ってくれた奴のことも思い出す。
ほんとうにおれのもんかよ 冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は
そ奴、こんな夜はないか?
なきながら跳んだ海豚は まっ青な空に頭突きをくらわすつもり
鳩を追いかけ回したり声あげて泣いていいのは五才までだぞ
そうだ。
「酔ってるの?あたしが誰かわかっている?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
「猫投げるくらいがなによ 本気だして怒りゃ ハミガキしぼりきるわよ」
この二首はあたしが意図的に並べたわけではありませぬ。念の為。
本のなかでそういう順番になっていました。
鳥の雛とべないほどの風の朝 泣くのは馬鹿だからにちがいない
あたしの脳貧血はまだ治っていないらしい。。。。。
Sep 27, 2005
退廃姉妹 島田雅彦
「そんな日本へようこそ。いつの時代も退廃姉妹がお相手します。」これがこの小説の結びの一行です。この小説は東京の目黒の一家族の辿った戦中から戦後六十年までの歴史が書かれています。主人公は敗戦を女学生の時にむかえた美しい二人の姉妹(有希子・久美子)です。母親は戦争勃発直前に恋人と心中。父親は映画制作会社をやっていましたが、戦時下では戦争高揚の映画制作を余儀なくされ、また戦後には、「国策」としての「売春組織」へも協力をしていました。一家三人の貧しい生活の最中、父親は納得のいかない罪(米兵の人肉を食した。)により検挙され、父の借財を背負いながら、姉妹は生計の道を考えなければならなかった。
やがて目黒の自宅は、二人の女性も加わって「スプリング・ハウス」となりました。姉は体を売らず(生きて帰れたら、必ず逢いに来る、と約束した後藤青年のため。)妹を含めた三人の女性は体を米兵に売りました。父親が釈放されるまで、その生活は続き、姉は後藤と再会、父の帰宅とともに「スプリング・ハウス」は閉じられた。
姉の有希子は特攻帰りの後藤とむすばれる。有希子はその時、それは原初から引き継がれた人間の営みのその末端にいることを思いめぐらして、亡き祖母や母の視線にさらされている自分の肉体を思うのだった。(稲葉真弓の詩集「母音の川」などをふと思い出す。)
(前略)
祖祖祖祖母から祖祖祖母 祖祖母から祖母に 母にと
白い種子は流れてきた
うめき 叫び ゼリーのようにふるえ
芽吹き 噴火し 落下してゆく カラダのなかの
なづけようもない種の反復
蛇行する川 次々と生まれる川を
きょうも少女たちが渡ってゆく
白い素足を濡らし 生温かい声を上げ
ここは木曽川
(カラダなんてウ~ザッタイじゃん)(足から魚になりたいよ)
(後略)
「22・それでも川は流れていく」より抜粋。
また、二人の姉妹はそれぞれに生き迷いながら、未遂に終わった自殺(母親と同じ)も潜り抜ける。妹の久美子は女優になり、「肉体の門」の主役を演じて好評を得たが、結婚。姉妹は共に母となり、祖母となってゆくが、孫たちはまたその時代の「スプリング・ガール」を繰り返すのだった。この本来重いテーマを島田雅彦はスムーズにストーリー展開させながら、見事にその裏側には、島田特有の戦争と天皇制への皮肉あるいは批判が、チクチクと姿を現すのが小気味よい。
母親の恋と自殺、父親の売春組織の仕事、これらは結局二人の娘が轍を踏む運命を背負っていた。そしてそれは形を変え、表情を変えながらも世代を流れてゆくのだった。戦争もまた。。。
【付記】
戦争体験のない島田雅彦が、何故このような小説を書いたのか、その後でずっと考えていました。そこに「小熊英二」という存在も浮かびあがってきた。まだ未読ですが、この二人の対談もある。つまり時代は受け渡されてゆく。戦争も国家も天皇制も、経験者は高齢化しました。今その実体験のない若い世代の視点から、新たにこれらの問題を雪ぎ直し、再検討されることは必要なことかもしれません。
(二〇〇五年八月十日・文藝春秋刊)
Sep 22, 2005
横浜の風景
かもめの行列。。。↓
どうやら「帝蚕倉庫」と書いてあるらしい。
大正時代にできたらしいという情報をいただきました。
蔦が絵画のように見事です(^^)。↓
大観覧車の窓から撮りました(^^)。↓
(九月十六日)
Sep 20, 2005
来山百句
この著書は大阪の俳人小西来山(1654~1716)について、俳人坪内念典を中心とした「来山を読む会」のメンバー八人がそれぞれの分野を担当しながら、俳人小西来山を浮き彫りにしようとした一冊です。紹介されている百句については、四季に分けて、それぞれ二人づつの俳人が解説を付けていますが、正直申し上げて、これは行き過ぎだと感じる。それは来山の句は、時代はかなり旧いのですが、わかりやすく、現代にも違和感のない言葉だからだと思いますし、また親切が過ぎて、読者の「?」や「誤読の楽しみ」という空間がすべて埋められてしまったように思えます。(素人の暴言ですねん(^^)。)では少しだけ四季に沿って句を紹介してみましょう。ここから来山の生きた足跡もかすかにたどれたらよいのですが。。。
(春) 春の夢気のちがはぬがうらめしい
散る花にねてゐて蝶のわかれかな
むしってはむしっては捨て春の草
(夏) 早乙女やよごれぬ物はうたばかり
みじか夜や高い寝賃を出した事
星あひや思ふねざめや蚊屋の天
(秋) 秋かぜやことし生まれの子にも吹く
幾秋かなぐさめかねつ母ひとり
萩さかば鹿のかはりに寝に行かん
(冬) お奉行の名さへ覚へずとしくれぬ
揉みにもむ歌舞伎の城や大晦日
酔うて酔うて氷くだいて星を呑む
小西来山は、1654年(承応3年)大阪に産まれる。父親の家業は薬種商だったが、来山9歳の時に亡くなりました。その後は母親との2人暮らしでしたが、生活の詳細はあきらかではありません。俳句は7歳ころからふれているようですが、25歳ころの西鶴との接点が来山の俳人としての出発のようです。この年に「法体」となっていますから。
来山は48歳の時に母親を亡くします。その後の51歳の時に来山ははじめて妻を娶ったようですが、わずか3年で妻子を亡くしています。その後(1708年・宝永5年)に書かれた俳文「女人形記」は、清元「保名」に取り入れられたことによって有名になり、「来山の女人形への偏愛?」はクローズアップされてしまったようです。以下に俳文を抜粋してみます。
『(前略)ものいはず笑はぬかはりには、腹立ず悋気せず、蚤蚊の痛を覚ねば、いつまでもいつまでも居住居を崩さず。留守に待らんとの心づかひなく、酒を呑ぬは心うけれど、さもしげに物喰ぬてよし。白きものぬらねばはげる事なし。四時おなじ衣装なれども、寒暑をしらねば、此方気のはる事更になし。(中略)愛のあまりに腹の上に置時は、呼吸にしたがいてうなずくうなずく、細目してうなずく。』
この俳文に付けられた句は「折事も高根の花や見たばかり」、人形は伊万里柿右衛門様式の陶器製であり、この当時ヨーロッパに輸出されたりもしていたもので、特別なものではない。最後の『愛のあまり・・・』あたりを読むと何故か八木重吉の詩「人形」などを思い出す。
ねころんでいたらば
うまのりになっていた桃子が
そっとせなかに人形をのせていってしまった
うたをうたいながらあっちへいってしまった
そのささやかな人形のおもみがうれしくて
はらばいになったまま
胸〈腹〉をふくらませてみたりつぼめたりしていた
来山はその後、57歳で再婚し、二人の男児に恵まれますが、長男は1歳で亡くなっています。来山は二人の子供を亡くしたことになります。前出の句『秋かぜやことし生まれの子にも吹く』がせまってくるようです。また『お奉行の名さへ覚へずとしくれぬ』の一句は、どうやらお上からお縄を頂戴するということもあったらしい。これも歌舞伎「来山」として上演されたらしい記録がありました。清元「保名」と同様に来山の句がちりばめられているようです。小西来山とはそうした話題性の高い俳人だったようです。
閻魔夢魔添い寝もよろしあきの夜 昭子(お粗末でした。)
千々にくだけて リービ英雄
この「千々にくだけて」というタイトルは、芭蕉の松島を詠んだ句「島々や千々にくだけて夏の海」からとられているようだ。これが最初に登場するのは、ヘビー・スモーカーの主人公エドワードが禁煙の飛行機の窓外に広がる島々を見て、苦し紛れに思い出したものである。禁断症状のなかで、その言い難い心身状況を、日本語の句と、その米語訳との混線のなかにあらわしているようです。しかしそれはやがて彼のその後に起こる出来事の予兆ともなったようです。
エドワードは米国人だが、日本に住み日本語で著書を書いている。その彼が忙しい仕事の合間をぬって、米国の母親と妹に会いにゆくために飛行機に乗る。ヘビー・スモーカーの彼は、長時間の直行便に乗ることが出来ず、乗り換えを入れる便にわざわざ乗ったのだが、それでもその禁断症状はすさまじく「嗅ぎ煙草」「噛み煙草」など、わたしがまるでしらなかったものが登場してきて驚かされた。
しかしエドワードの乗った飛行機が米国に着く前に、あのニューヨークの「9・11事件」が起きたのである。「深夜でもいいから、ニューヨークの妹のところに帰りたいのだが。」が「今夜なら徳川時代の日本に上陸できるか。」に変換されそうな錯覚におちいるほどにエドワードの二国語が混乱をはじめることになる。
エドワードは飛行機を降り混乱する空港を抜けて、足止めを余儀なくされて入国したところはカナダであった。バンクーバーのダウンタウンのホテルにようやく入ったものの、彼はテレビ・ニュースを見たり、消したりを繰り返し、母親と妹との困難な連絡をとったりする時にも、彼の二国語の混線はますますくっきりと浮き彫りされてゆくのである。
民族の坩堝のような大国に起きる大惨事は、複雑な多面性を持つものだからとても言い切れるものではないだろう。さまざまな肌の色、さまざまな言語、さまざまな世代とその親族、宗教、思想、どこからも切り込めない問題を抱えたまま、人々の心に長く重くいだかれてゆくのだろう。そしてその惨事に巻き込まれることのなかった幸運な人々もいる。そうしたさまざまな局面を、エドワードは深く深く二国語の悲しみとしてきしむのだったと思う。
(二〇〇五年・講談社刊)
Sep 19, 2005
詩の合評会
月に一度、10人前後の仲間たちが集まって、作品を持ち寄って作品の合評会をやっている。毎回欠かさず出席し、欠かさず作品も提出している。メンバーはみな熱心に批評しあうのだが、わたしの作品はいつでも「疎外感」がつきまとう。わたしはメンバーに自分の作品の理解をされようと解釈の努力はしたくないし、その代わりにメンバーからの激しい批評に攻められることもない。つまりどうでもいい存在(^^;)。
以前ここに「わたしは詩集を出すことは、多分もうしないだろう。HP に訪れた方に読んでいただければそれでいい。」と書いたことがあるのだが、Sさんがそれを読んで下さったらしい。「風のようだ。」とおっしゃった。とてもいい言葉だと思いました。
ピアノ・コンサート
17日(土)夜、桐田真輔さんのお誘いで、小松正史氏の「初秋の宵どきピアノ」というコンサートを聴く機会がありました。小松氏は即興演奏家ですが、当日の演奏曲は、すでにCD化されたものを、プログラム通りに演奏するというかたちでしたので、演奏会といってもいいかもしれません。
音楽を聴くときのわたしには、いつでも無意識に心の中で指揮棒を振っているわたしがいます。そのわたしの見えない指揮棒のリズムを、彼の演奏は時々狂わせてしまう。また音の運ばれ方が、つねにわたしの予定調和を狂わせてしまう。それは不快な出来事ではなかったけれど。。。
ピアノ演奏家は、その演奏会場に置かれたピアノを弾くという過酷な運命を背負わされる。そのピアノとの戦いというか、弾き負かす(このような言葉があるかどうか?(^^;)ということを自らに強いることになるのではないかと想像してしまう。その日の会場に置かれたピアノはかなり個性の強いものであったように、わたしには思われた。小松氏のそのピアノとの戦いが伝わってくるようだった。というのはわたしの勝手な思い込みかな?演奏する小松氏はとても輝きがあって、幸福そうで、キンキンとしていらっしゃいました。わたしにとっても楽しいつかの間の時間でした。
満月に吊り上げられし微熱の目 昭子
Sep 10, 2005
ステンドグラス美術館
詩人であり、美術家であったウイリアム・モリスが、1859年に結婚した時に建てた新居「Red House」のステンドグラスや壁紙が展示されている小さな教会のような美術館です。この建物もモリスの「Red House」に近いイメージで造られています。階段の手すりにつけられた装飾などにそれが見られます。残念ながら、建物のなかはすべて撮影禁止です。
ステンドグラスの窓は息をのむ美しさでした。ひかりの時間による角度、その日のお天気、などによってステンドグラスの表情は刻々と変化します。あんまり見とれてしまって首が痛くなってしまった。。小さな教会ですが、窓はすべてステンドグラス、宗教画です。このステンドグラスの絵は、聖書の文字を読めない人々にも、理解できるようにと描かれたものだそうです。
Sep 06, 2005
きちこう
この画像は数日前に撮ったものですが、蘂の形が異なることが気になっていました。清水哲男さんの九月五日付けの「増殖する俳句歳時記」のこの句を読み、哲男さんの解説を拝読して、納得いたしました。
桔梗の二夫にまみえて濃紫 阿部宗一郎
(前略)
「二夫(にふ)」は二人の夫の意味で、儒教に「貞女二夫にまみえず」の教えがある。たとえ未亡人の身になっても再婚しないのが女の鑑(かがみ)というわけだが、「桔梗」の場合はそうはいかないのである。そんなことをしていたら、子孫が絶えてしまうからだ。少し説明しておくと,桔梗の雄しべは開花後にすぐ成長して花粉を放出する。雌しべは、その後でゆっくりと成長していく。つまり同一の花の雄しべと雌しべの交配を避ける(自家授粉しないための)仕組みであり、雌しべは常に他の花の雄しべの花粉で受精することになる。「雄ずい先熟」と言うのだそうだが、すなわち桔梗の雌しべは「二夫にまみえて」はじめて子孫を残すことができるというわけだ。
(後略)
以上、哲男さんの解説を抜粋させていただきました。
この画像は残念ながら「濃紫」ではなく「白」なのですが。。。
Sep 03, 2005
キャラバン
この映画は、フランス人監督「エリック・ヴァリ」によって、一九九九年に制作されたものです。その時映画館で観ましたが、忘れられない映画となりました。NHK衛星第2で9月2日に放映されましたので、再び観る機会に恵まれました。
チベットに限りなく近い北ネパールのドルポ地方では、黄金色の小麦畑が豊かな実りをみせている。映画はここから始まる。長老の「ティンレ」は、その孫の少年「ツェリン」に「これだけの小麦では、村人の食料には足りない。」と教える。その時期に、もっと小麦を手に入れるために「塩」の交易に行っていたキャラバンが帰ってくるが、そのキャラバンの荷役の「ヤク」の背中には、少年の父であり、やがて長老となるはずの長老の息子「ラクパ」の遺体があった。事故死であったのだが、長老は同行したラクパの友人「カルマ」を疑う。
これによって、次のキャラバンへの考え方が村人の間で大きく動揺することになり、キャラバンは、「カルマ」派と「ティンレ」派の二つの隊に分かれることになる。「ティンレ」は出発の日を今まで通りに占いによって決める。この隊に加わった者は老人たちと「ツェリン」とその母親、そして「ラクパ」の弟の僧侶であった。「カルマ」は若い男たちと共に、占いで決めた日を無視して、先に出発をする。
しかし、「ティンレ」の知恵は、「カルマ」の若さに追いつき、その先の山の吹雪までを予測した。キャラバンは無事目的の地へ辿り着き、長老はそこで、次の長老を「カルマ」と決める。躊躇する「カルマ」に長老はこう言った。「反抗するところから、真の長老は生まれる。」と。この二人の行動を澄んだ眼で見つめ続けていたのは少年「ツェリン」だった。
ヒマラヤの大自然の厳しさと豊かさに抱かれ、かつ試されながら生きてゆく人々の簡素で逞しい生命力がまぶしい。引き継がれてゆく「よき知恵」と「尊いいのち」、わたしは、こんなふうに生きたいと何度願ったことだろう。願いは願いのままで終わるが、このように生きる人々がこの地上のどこかにいることを忘れないでいたい。
Sep 01, 2005
ギュスターヴ・モロー展&ムットーニ展
旅する詩人 エウロペ 一角獣8月30日午後、渋谷Bunmamuraの「ザ・ミュージアム」にて、桐田さんと一緒に「ギュスターヴ・モロー展」を観ました。「パリの宝石」「神秘」「幻想」などなど、モローの絵画に捧げられる言葉は、さまざまとあるけれど、わたしにはちょっと違うような気がしてならない。それはモローの生き方、あるいは愛し方へのかすかな違和感があるからかもしれません。わたしが一番「美しい」と思ったのは「旅する詩人」でした。顔は女性、肉体はどうやら男性のように見える。不思議な美しさでした。
お話は前後しますが、「モロー展」のまえに、パルコミュージアムにて「ムットーニ展」も観ました。自動からくり人形師ムットーニについての予備知識は全くありませんでした。これはムットーニの「機械仕掛けの迷宮博物館」なのでした。「ムットーニ」はどこの国の人なのだろうと思っていましたら、なんと「武藤政彦」という日本人でした(^^)。。。氏は、1980年代後半から自動からくり人形師としての活動を始めているようです。これは楽しかった(^^)。だんだん「人形世界」に入ってゆく自分がこわい(^^)。
ふたつの展覧会の後で、書店に寄る計画もありましたが、パス。後は新宿「ユニテ」に合流して、相も変らぬメンバーで呑みました。