Sep 20, 2005
来山百句
この著書は大阪の俳人小西来山(1654~1716)について、俳人坪内念典を中心とした「来山を読む会」のメンバー八人がそれぞれの分野を担当しながら、俳人小西来山を浮き彫りにしようとした一冊です。紹介されている百句については、四季に分けて、それぞれ二人づつの俳人が解説を付けていますが、正直申し上げて、これは行き過ぎだと感じる。それは来山の句は、時代はかなり旧いのですが、わかりやすく、現代にも違和感のない言葉だからだと思いますし、また親切が過ぎて、読者の「?」や「誤読の楽しみ」という空間がすべて埋められてしまったように思えます。(素人の暴言ですねん(^^)。)では少しだけ四季に沿って句を紹介してみましょう。ここから来山の生きた足跡もかすかにたどれたらよいのですが。。。
(春) 春の夢気のちがはぬがうらめしい
散る花にねてゐて蝶のわかれかな
むしってはむしっては捨て春の草
(夏) 早乙女やよごれぬ物はうたばかり
みじか夜や高い寝賃を出した事
星あひや思ふねざめや蚊屋の天
(秋) 秋かぜやことし生まれの子にも吹く
幾秋かなぐさめかねつ母ひとり
萩さかば鹿のかはりに寝に行かん
(冬) お奉行の名さへ覚へずとしくれぬ
揉みにもむ歌舞伎の城や大晦日
酔うて酔うて氷くだいて星を呑む
小西来山は、1654年(承応3年)大阪に産まれる。父親の家業は薬種商だったが、来山9歳の時に亡くなりました。その後は母親との2人暮らしでしたが、生活の詳細はあきらかではありません。俳句は7歳ころからふれているようですが、25歳ころの西鶴との接点が来山の俳人としての出発のようです。この年に「法体」となっていますから。
来山は48歳の時に母親を亡くします。その後の51歳の時に来山ははじめて妻を娶ったようですが、わずか3年で妻子を亡くしています。その後(1708年・宝永5年)に書かれた俳文「女人形記」は、清元「保名」に取り入れられたことによって有名になり、「来山の女人形への偏愛?」はクローズアップされてしまったようです。以下に俳文を抜粋してみます。
『(前略)ものいはず笑はぬかはりには、腹立ず悋気せず、蚤蚊の痛を覚ねば、いつまでもいつまでも居住居を崩さず。留守に待らんとの心づかひなく、酒を呑ぬは心うけれど、さもしげに物喰ぬてよし。白きものぬらねばはげる事なし。四時おなじ衣装なれども、寒暑をしらねば、此方気のはる事更になし。(中略)愛のあまりに腹の上に置時は、呼吸にしたがいてうなずくうなずく、細目してうなずく。』
この俳文に付けられた句は「折事も高根の花や見たばかり」、人形は伊万里柿右衛門様式の陶器製であり、この当時ヨーロッパに輸出されたりもしていたもので、特別なものではない。最後の『愛のあまり・・・』あたりを読むと何故か八木重吉の詩「人形」などを思い出す。
ねころんでいたらば
うまのりになっていた桃子が
そっとせなかに人形をのせていってしまった
うたをうたいながらあっちへいってしまった
そのささやかな人形のおもみがうれしくて
はらばいになったまま
胸〈腹〉をふくらませてみたりつぼめたりしていた
来山はその後、57歳で再婚し、二人の男児に恵まれますが、長男は1歳で亡くなっています。来山は二人の子供を亡くしたことになります。前出の句『秋かぜやことし生まれの子にも吹く』がせまってくるようです。また『お奉行の名さへ覚へずとしくれぬ』の一句は、どうやらお上からお縄を頂戴するということもあったらしい。これも歌舞伎「来山」として上演されたらしい記録がありました。清元「保名」と同様に来山の句がちりばめられているようです。小西来山とはそうした話題性の高い俳人だったようです。
閻魔夢魔添い寝もよろしあきの夜 昭子(お粗末でした。)
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