Dec 27, 2016
2016年活動記録
「プローズ 馬への」 洪水17号 2016年1月 「同級生夫婦」――オペラの下書きとして うろこアンソロジー 2015年版 2016年1月 「十四日の月はいっそう高く輪郭がぼやけて」 「ルピュール」22号 2016年3月 「フランスの詩を読む」 淑徳大学公開講座第三期 2016年1月~3月 『モーツアルトカレンダー』 エッセイアンソロジー詩集 2016年5月20日 アルケオップテリックス刊 「日の出 月の出」 「ユルトラバルズ」26号 2016年5月30日刊 「イギリス風の午後」(5)訳 J=M・モルポワ詩 「ユルトラバルズ」26号 「フランスの詩を読む」 淑徳大学公開講座第第四期 2016年7月~9月 「梅雨葵 TSUYU AOI」 「ルピュール」23号 2016年10月15日 「梅雨明け」 「未定」21号 2016年10月 「猫科の」 「ユルトラバルズ」27号 2016年12月 「イギリス風の午後」(6)訳 J=M・モルポワ詩 「ユルトラバルズ」27号 「同級生夫婦」第二回 オペラの下書きとして 「うろこアンソロジー」2016年版 2016年12月27日Oct 19, 2016
k622 お別れの曲
頭の中でk622のパッセージが鳴っている。ここ10日ばかりこの曲だけ聴いている。幾人かのソリストを聴いたあと、ベニーグットマンのような雰囲気のデンマークのクラリネティスト、マルタン・フロストにはまっている。演奏ライブが見れるので、その金髪とクラシックらしからぬ演奏身振りがセクシーで(若い、私からしたら可愛い)それが楽しい。音だけならもっとふくよかで哀愁のこもった透明感、いわゆるモーツァルトブルーのたっぷりした名演もあるのだけれど、力まずにさらっと全曲を流す解釈がいまは聴くほうの負担も軽くていい。こうやってモーツラルトは生き繋いでいくだろうと、安心する。夜のコンサートのお楽しみの、大衆の、世界の、人類の、地球上にのさばった人間の、罪を洗い流すような、若い眼にしか見えない分光ブルーの、混じり気ない透明感が何ものにも代えがたい。死ぬ1月前に完成した、たぶん作曲者自身は1回ぐらいしか実演を聞いていないまま世を去っただろう。しかし本人の言うように、いつも彼の曲は頭の中で鳴り続けているのだから、聴衆に現実に聞かれなくてもかまわない、その代わり何百年経っても、世界中で演奏される、録音で、数え切れないほどの人の脳髄の中で演奏され続ける。私のように年老いた女も朝から手持ち無沙汰に気分がふたぎながら頭の中で聴き続けて、どうにか今日の一日を生きようとしている。考えてみると、この手持ち無沙汰が、人生の宝石なのだ。つまり、めったに得られない貴重なもの……Oct 06, 2016
モーツァルトはモロッコへ行った
モロッコの街から少し外れた大西洋に面した小さな海辺の町で2週間海をみながら過ごしました。砂と海と空と50度近い気温と…私ではなくモーツァルトのことです。 この頃は最後のピアノ協奏曲と低音の響き渡るクラリネット協奏曲K622をくり返し聴いています…四季が崩れてきているような予感がぬぐえないのですが、18もの台風に晒されたこの夏からの鈍い色の便りです…Sep 18, 2016
まぼろしのように
まぼろしのように猫が来る 死んでから四年が経つ スーがまだ生きていた頃 お姉ちゃんが病気だから と家の中には入らせなかった 白と黒の小型の猫 だんごになった尻尾の先を わずかに動かして 帰っていく どこにかえっていくのだろう 眼は澄んでいて優しい 短い視線の交換が言葉を言うよりずっと確実に思われる ひと声も鳴かず まるで来なかったように あらわれ 何の痕跡も残さずに 居なくなる 今朝は雨戸を開けるのが遅れたせいか 姿がないAug 28, 2016
モーツァルトカレンダー 無産のパイオニア
5月にエッセイアンソロジー『モーツァルトカレンダー』を私家版で出版してから、3ヶ月が経ちますが、以来なぜモーツァルトなのかをずっと考えてきました。齢70を越えて、なぜ7,8歳の頃から耳にしているメロディーの断片がこうも強烈に私の内部に復活してきたのか? まあ、毎日のご飯のような音楽だからな、で納得しようとしましたが、そういう理屈ではどうも収まりません。今朝になって突然、「無産のパイオニア」という言葉が降りてきました。これだ!というのは、講座の夏休みに入って、長年やりかけていたモルポワの『イギリス風の午後』の追い込みに入って、巻末付録のグロッサリーを訳し終え、続いて9月からの講座のテーマ、アンドレ・ブルトン『ナジャ』を詳しくもちろん翻訳で読み込んで、これらがからまって「テラン・ヴァーグ」なる言葉が立ち上がって来、それと『イギリス風の…』のメインテーマであるルソーの『新エロイーズ』の成り行きと、これらが渦巻いて中心の渦の目のところから飛び出してきたのがこのフレーズです。そしてコレは私だという「達観」も。大げさですが、たしかにこの経過は、私にとって達観、つまり到達点なのです。いま、若いモーツアルトが父親に送った手紙の一節が思い出されます。《ぼくの財産はすべて今ぼくの頭の中にあります。》この考えはルソーの『新エロイーズ』とぴったり重なります。さらに、よく感じることですが、フランス現代詩を読んでいると、その詩人のオリジナルな言葉と思っていたものが、ほとんど必ず、他の詩人たちとの共通な言葉であるという驚きです。あれほど自我の強烈なヨーロッパの意識がなんと全てつながっている、ブルトンの言う「通底」です。「テラン・ヴァーグ」というこのあいまいな、訳しにくい言葉も詩人たちの共有財産だったのだと気付いて、安心するやら、あきれるやら、口をあんぐりの状態です。Aug 24, 2016
モーツァルトカレンダーで生き返ったグールド
グールドはデビュー曲と死の1年前の最後の演奏が同じゴールドベルク変奏曲で、音楽的生涯はこの二つの演奏にはさまれた25年間だったといえるだろう。その間に弾いたモーツアルトは遊びだといいたがる音楽通が居るが、そうではない。グールドはオリンピック選手のようにその瞬間に生涯を現出する。どんな小曲でも一発勝負だ。それは演奏を聴けばすぐにわかること。日本にはバッハ、バッハと持ち上げる音楽通が多すぎる。下心が見え見えで、醜い。パリの街角にグールドの演奏に耳を傾けるモーツアルトの小振りな像があったらいいのに。そうやって、この素晴しい音楽家を利用するだけで何の力添えもできなかった見栄っ張りなフランス文化のおとしまえをつけたい。私が大富豪だったらそうするだろう。この哀しきふたりの天才の魂を鎮め、音楽の魂の永遠性を記憶するために。Aug 12, 2016
『モーツァルトカレンダー』とモーツァルト
昨日は今年からの新しい国民の休日「山の日」でしたが、私は山ではなく、詩の朗読会に出かけました。知らない街三軒茶屋を2時間ほど歩き回って街なかの山歩きとなりましたが、素足のサンダル履きゆえさっそく靴擦れができ、6時の開演ぎりぎりに会場に着いた頃にはとにかく靴を脱ぎたいという思いがいちばんでした。5月に出版した『モーツァルトカレンダー』を編集してくださった榎本さんの「サクラコの部屋」第2回です。前もってメールと携帯があったので、これはお客が少ないなと思って応援お礼のつもりだったのですが、どうしてどうして、YAMAHAグランドピアノがメインホストの狭いスペースに超満員というところでした。サクラコチャン、おめでとう! 彼女が創ってくれた本はなんといっても目次の見開きが端正で、はやく本文に入りたいというどきどきした気持を作り出してくれています。カニエ・ナハさんの表紙もその頭脳的でカシコイセンスをとても気に入っています。若い人に接近してと、嫌がる向きもいらっしゃるのですが、気にしない気にしない……私自身は若手の才能に応援してもらって大成功だったと思います。はつらつとして、センス抜群!何しろコノ3人、音楽大好きという共通点があるわけで。私はグールドに文句をつけられているモーツァルト専門ですが。自分のことばかり書きましたが、朗読会は本番に入る前に失礼してしまいました。どうにも足が痛くて。ごめんなさい。カニエさんもお見かけしましたが、あのなんとも少年っぽさの残る視線をちらといただいただけで、夜の街に出てしまいました。私の山の日、孤独な満たされた休日でした。Aug 08, 2016
モルポワの詩集”LA MATINEE A L’ANGLAISE”
和訳版を出版したいと考えています。 目下、同人誌『ユルトラ・バルズ』に分けて掲載中の訳をあと1,2号で終えて、1冊の詩集のかたちで刊行する予定です。原著者のモルポワ氏も待たれていることゆえ、著者前書きをもらって添えるつもりです。 題名についてですが、バルズには「イギリス風の午後」としていましたが、LA MATINEE の語感を保存したいので、たなかあきみつさん他の方々のご意見を伺って、『英国式のマチネ』としようかあるいは『英国式のお茶の時間』、『イギリス風ティータイム』などもありですが、ここで問題なのは、現代でマチネといえば、即、昼間の劇や音楽の興行がイメージされてしまうことで、ルソーの『新エロイーズ』中のフレーズであるこの場合の意味は、そうではなく、家庭内の親密なお茶の時間のことだということです。どうしても「家庭内の」のイメージを求めたいので、幾組かのカップルの間で交わされる本質的な会話、信頼感を基礎とする複数の会話が行われる時間がイメージできるタイトルが求められます。まだ確定までには時間がありますが、大いに悩むことと思います。Aug 05, 2016
山田兼士のブログ 7月4日
例によってぼんやりしていて、昨夜ようやく敬愛する山田兼士さんのブログの7月4日号に(その日はちょうど山田さんのお誕生日で)63歳の詩集読み初めとして3冊の詩集のうちの1冊に『モーツァルトカレンダー』を挙げていただけているのに氣付きました。寝しなに見つけたので、眠れなくなって困りました。よかったら「山田兼士のブログ」2016年7月42ページのうちの36ページ目をご覧になってください。書評として嬉しかったのは、「音楽エッセイ詩と呼ぶべき新しい作風も見られる」のご指摘。譜も読めない、ドイツ語も知らない私としては、超過分のお言葉です!反していやだったのは「モーツァルトを偏愛する詩人」とのネーミングです。あのー、先生、そんな私がいま自分の土俵に取り込めるかもと考えたのがモーツァルトで、他の音楽家もたくさん「偏愛」しています、でもまだ言葉にできない、モーツァルトについては再認識の出会いが70歳を超えてからあったために、ながーいじぶんの生の軌跡と重ね合わせることができると感じたということなんですけど、もちろん《なっちゃう》ほどだーいすきではあるのですが。みっともないからこの辺で止めましょう……今は《許しがたい》と批評したグールドの弾くモーツァルトに首っ丈、と言い募ればまた、めろめろでみっともないです。Jul 31, 2016
なにごそつかす
高見順文学振興会の川島さんにチケットをいただいて竹橋の近代美術館に「声ノマ」を見に行った。最初はあまりにも言葉の集積の甚だしさに生は記録より先行するでしょうと、多少の反感さえ覚えながらうんざりした気分で展示を巡っていったが、記録ビデオの「まいまいず井戸」のところでそれまでのわだかまりが逆転した。詩が自分のなかに緩やかに立ち上がってきたのだ。東京都羽村市にある、まるで街角のお稲荷さんのような「遺跡」を記録する詩人に全身感動を(この展示は「全身詩人」と名付けられている)、禁じ得なかった。この時点で28日、遅い梅雨明けの日にここを訪れたことが特別な事件になったのだった。この死んで久しい場所をこうもみずみずしく息を吹き返させる詩人の霊力に衝撃を受けたのだ。私はたしかに、この螺旋状の道筋を地中に向かって水を汲みに降りていく昔の人の姿を幻視し、「詩人の静かな力」はたしかに存在し、この詩人はそれを証明したいのだなと合点が行った。昭和14年、同い年のこの人が全身詩人であれば、生活にこだわり続ける鈍さそのものの老化した私は3分の1詩人だろうと哀しくなった。生と死と性の間で死にかけた虫のように毎日息をしている自分を。帰りの北の丸公園で歩く先々に落ちているはしぶとガラスのつやつやした羽を、羽元を削ってペンにしてみようと拾った。一枚拾うと、またその先に1枚落ちているのが見つかり、たちまち握る手のひらが悪魔の花束を握っているようで寒気がした。今日、日曜日送られてきた「ふらんす堂通信」で蕪村がまだ寒の内の鶯を歌った、藪の中のうぐいすの身動きを感じている、この《なにごそつかす》というフレーズもまた「永遠の全身詩人」(何度でも蘇り続ける、つまり永遠の詩)だと確信した。詩の言葉とは時間の圧倒的な経過のなかでよみがえる力。そして音楽もまたそのように。Jul 30, 2016
モーツァルトを否定するグールド
多くも少なくもなくぱちっと決まっている
まるで満月のように
満たされて
生きることはこのようでありたい
このようでありえる
グールドが最も愛した「ゴールドベルク変奏曲」
モーツァルトを許しがたいと言ったグールドは
敬愛するバッハの曲のうち最もモーツァルト的な
この変奏曲を死の直前に全身全霊を賭けて弾ききった
(弾き終わったときのぐったりと魂の抜けた表情)
グールドがバッハの中の最もモーツァルト的な
音楽を自分のものと感じ取っていた証し
ある伯爵付きの若い音楽家が
伯爵の眠れない夜々のために心をこめて弾いた
(若い彼にはかなり難しかった)
優しくしみじみとしたアリアと30のバリエーション
生きていくいのちの労りに満ちた音楽
山あいの岩清水が微かな水音を立ててさいしょに流れはじめる
瑞々しいいのちが生れてくる瞬間
グールドがゴールドベルクになり
バッハが伯爵になり
ひとりひとりの仕切りが取れて渾然と溶けあって流れ出した
永遠の音楽
そしてそれは風雲児モーツァルトへの
時を超えた心遣い
モーツァルトを嫌いなのではない
もっと激しい 許しがたいのだと
Jul 25, 2016
過去の言葉を捜さずに、今の言葉を作ろう
70代も後半に入ると、人の名前が出てこない。自分だけに限ったことではなく、同世代の友人たちも同じような現象を示すのだから、孤立感はない。家に篭って机に向かっている時間が多いので、対話が不足していると、やや危険をおぼえるが、対話を求めて街に出かけていくのも面倒くさい。一人でいれば充分充実しているのだから。26歳ほど驚異的に生きたスーが死んで2年半、話しかける相手のお代わり君を、残された当初は欲しいと思ったが、今はさまざまなことを考えると、もうひとりで良いと決めた。あれ以上の友は見つかるまいと。その代わり、時々電話できる相手が戻ってきたので、今の自分のキャパにちょうどいい友を見つけたといえる。そして、もうでて来たがらない過去の名前を探すより、今の自分を軸にしたネーミングで語る方がずっと効率が良いと思い当たった。ほらほら、あれあれ、は止めよう。終焉前のワードメイキング、これってマラルメが試みていたことじゃないか?いま講座のためにマラルメを勉強しています。好感、好漢、健気で純なところがまったく日本人好み。ルネ・シャールと真反対で、二十歳になったとき兵役検査さえ落第するほどの貧弱な肉体の持ち主、とても「国家防衛」力にはなれない、だが時々いるよね、貧弱な肉体の器に強靭な精神を湛えている人間が。Jul 19, 2016
「詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)」6月26日
何ごとにもぼんやりで、昨日やっと谷内さんがご自身のブログで取り上げてくださっているのに氣付きました。検索がけっこう大変なので(氏のブログを先月26日まで繰って行くのが)、以下にコピーさせていただきます:詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記) 日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。有働薫『モーツァルトカレンダー』 2016-06-26 10:47:20 | 詩集有働薫『モーツァルトカレンダー』(arxhaeopteryx、2016年05月20日発行) 有働薫『モーツァルトカレンダー』はモーツァルトの曲(タイトル)と詩を組み合わせたもの。私は音楽をめったに聞かないので、有働が紹介している曲がどのようなものか知らない。だから、感想は、有働の意図からかけ離れたものになるが、詩を読んで感じたことだけを書く。 「岩たばこの栽培」。その途中の部分。 正午の鐘が鳴った はじめいくつかは一つずつ鳴り やがて連続して激しく鳴り はげしくしばらく鳴りつづけ やがて低く 遠ざかるように消えていった ここがとてもおもしろいと思った。 「はじめ」「激しく」「はげしく」「しばらく」ということばが鐘の音のように似ているけれど違う感じと重なる。同じ音なのか。違う音なのか。音痴の私には区別がつかないが、鐘が鳴り響くとき、その音と音とのぶつかりあいが、ここに再現されていると感じた。「は」の音が「濁音」もふくめて鳴り響く。」げ」「く」「く」と「か行(が行)」も響きあう。 これに、「鳴った」「鳴り」「激しく鳴り」「鳴りつづけた」。「鳴る」の繰り返し、「な」の音が割り込んできて、「は」「か行」の音を散らばらせる感じがする。 にぎやかで、とても楽しい。 そのあとの、 日差しが強い セーヌ川という名前はね、ラテン語のSequanaつまり地質学でジュラ系セ カニア階の意味、ローマ人がつけたんだね 連れがあるつもりになる と展開する。「セーヌ川云々」は何が書いてあるのか、実は、さっぱりわからない。わからないのだけれど、それが効果的。まったく新しい音として響いてくる。「意味」はあるのかもしれないが、「意味」のない「音」そのものになって聞こえてくる。その音のなかには、Sequanaという「読めない」音がある。何これ? 読めないから、聞こえない。 でも、これって、こういう感じって、鐘の音に似ている。 全部聞こえているつもり。でも、そこには聞こえない音がある。鳴っているのはわかるが、それを自分で再現できない音。その「不可能性」が鳴っている。「自分」とは「無関係/無縁」のものが、そこにあって、それが「世界」を華やかにしている。「無意味」をきらきらとばらまいている。 で、この「聞こえない/無意味」というのは、もしかすると、「他人」だね。自分とは完全に断絶した存在。 「断絶している」「他人である」。でも、だからこそ、「接続」したい。「接触したい」。繋がりたい。「断絶した/他人」を「私」につなぎあわせるとき、「世界」に革命がおきる。「私」は新しい世界に必然的に入り込んで行く。 音楽にのみ込まれるときというのは、こんな感じだなあ。 「他人」は、このとき「連れ」になる。 そして、この「他人」が「連れになる」というのは、どっちが先かよくわからない。「連れになった」ときに、「他人」がはっきり存在しはじめたのかもしれない。「連れにならない他人」というのは、たぶん、存在していない。「聞こえない音」なのだ。 こういうことばのあとに、さらに 教会堂の柵のねもとで サンドイッチをたべた あ、ここがいいなあ。「世界」に抱かれている感じ。「世界」と完全に「連れ」になった感じ。 ほかは、よくわからないのだけれど。
Jul 16, 2016
『モーツアルトカレンダー』コメント
作曲家モーツアルトとピアニストグレングールドとの関係は、グールドとバッハの関係より数段面白いです。K333のソナタを弾き終わったグールドの得意そうな手つき顔つき、子どもがばったを捕まえてきたときのようです。《ドウダイヤッタゼー》あんなに悪口を言って、この得意顔ったら!Jul 05, 2016
第八詩集『モーツァルトカレンダー』はとても評判がいいです
おかげさまで、今日もお二方からおはがきいただきました。「詩集よかったです。響く響く。みな努力してるなと」足利市立美術館で開催中の『高島野十郎展』の使用済みの入場券がはがきに貼り付けてあります。突拍子もなくて面白い方です。大阪のお生まれとか……
「カニエ・ナハ氏の表紙がゆかいでした。囲碁の手法に叶っているのは左上の1個所だけで、囲碁ゲームの規則とは別のルールで道具として使っているのが面白いです。詩もおなじですね。1篇の曲が1篇の詩として存在する、ということもあるし、古今集の春の歌の二番として存在することもあるし、連歌の一句の背後に潜むこともあるし、あるいは伊勢物語の一章の中の1首でもあるし。位相のちがうものの出会いでもありうるし(すれちがいと言う関係性もありうるし)、いくつかの単位の綜合されたなにかの構成要素でもありうるし……けっきょく詩が詩として存在するとは何かという問いがあり、いや様々のものの中での詩の位置の問題でもあるでしょう。」
版元はアルケオプテリックス、始祖鳥という意味だそうです。
どうやら西の方の(日本の)方々がよく読んでくださるような感触です。
このブログが表紙デザインのカニエさんのお眼に留まりますように!
Jun 24, 2016
実物のモーツァルトカレンダー
ネットで検索するとモーツアルトカレンダーがヒットしました。それも実物、つまりモーツァルトグッズや伝記でひと月分一枚を構成しようというもの、いや見ていないので単なる推測ですが……。だが待てよ、そちらは本物(実物)、こちらは嘘物(フィクション)つまり、同じタイトルでも、こちらは仮称、書き手の頭のなかにだけあるもの、実物として手にするものではない、イメージとして受け取るだけのもの。そこが怖いところ、実際と詩との違いがこれほど露わな例はないということです。だけど紛らわしいなあ……でもあり得ることではある!Jun 23, 2016
『モーツァルトカレンダー』を送らせていただいた方々から
おはがきをいただきました。「全体が読者に向けて開けられている窓の様な印象です。ここには聞こえてくる音楽としてではなく、佇む詩人の身体を通して動体のモーツァルトが居ます。卓抜したエッセイ、一篇拝読いたしますたびにしばし沈黙の時を過ごします。」… (6月19日)
「モーツァルトの楽曲仕様の素晴しい読み応えのあるアンソロジイでした。gloxinia という語の語音に魅かれ、ロベール仏和大辞典を思わず検索し、1149P で出会いました――熱帯のけだるさに触れました。”Savinio”はやはりmy favorite poem です――引用のイタリア語とも絶妙に響き合っています。」…(5月24日)
「グレン・グールドは、ぼくも大好きです。それにしても、オセロのような碁盤のような表紙の放っている、白と黒の与えるイメージは本当に新鮮でした。モーツァルトは母が好きでした。小生はこのところはヴェルディの「リゴレット」を何度も聴いています。」…(5月23日)
元気をいただきました。ありがとうございます!
Jun 19, 2016
モーツァルトを許さないグレングールド(2)
バッハのように弾き始めて、おやこれは?と違和感を覚える。いつものように昇って行けない?おや、おや? 少し焦る。いつもならさっと音楽の中に沈んでいける 、水の中に入って泳ぎ始める瞬間のように。だが、このソナタではそれがうまく…変ロ長調のソナタ…なんだか引き戻されるような感覚がある音楽というのは作曲者じゃなくて、演奏家が創りだすものだ。楽器のように曲はきっかけに過ぎない、いやこれは言いすぎ。パソコンで言えばハード。音楽においてソフトは演奏家、彼が時代の創造者。しかもハードがソフトの質を左右する。だから、その時代を現に生きているいろんな国の演奏家によっていろんな時代の音楽が作り出される。演奏家が好きな作曲家の曲を選ぶのは、自分にあった好きなピアノを求めるのと同じだ。
Jun 16, 2016
モーツァルトを許さないグレングールド
グレングールドは音楽の本質に向かって、生涯をかけて深く沈潜していったピアニストだ。 その意味では、晩年のモーツァルトにその本質は共通する。モーツアルトは嫌いなのではない、もっと否定的だ、許し難いのだ。と語る。モーツアルトは早く死にすぎたのではない、死ぬのが遅すぎたのだ。「自分の資質に頼って増長して生きたために、二流に落ち込んでしまった」とまで貶す裏には、心配でしょうがない親心のようなものが垣間見える。おれはモーツアルトの二の舞は踏まないぞという自己に対する警告のようにも聞こえる。モーツアルトの妥協を入れない音楽活動に自分の活動の方向を見ていたのかもしれない。世間の風当たりが厳しくなればなるほど、モーツアルトには焦りの色が濃くなる。自分の音楽に対する顧慮と同時に、自分の持ち時間に対する焦りも感じはじめる。モーツアルトが作品ノートを付けはじめた時、自分の命の証しを確保したいという欲求も目覚めた。物凄く多忙だった、そうしなければ生きていけないフリーランスを余儀なくされていたにもかかわらず、これだけは譲れない、と自覚したのが、自分の音楽作品の拡散をなんとしても防がなければならないという自意識だったろう。自分の作品は自分自身の命の核から噴出してくる自分の命そのものだという自覚。生きることはその奔流をかたちにして見えるようにすること、そのことが唯一無二の自己証明だった。グレングールドもその点では共通している。ただモーツアルトのように生活に逼迫はしていない境遇だった、芸術家として恵まれていた、だからモーツアルトよりさらに深く本質的であることが許された。後代の音楽家の強みだろう。モーツァルトに足りなかったところ、そこをあやまたず的確に突いて、それを自分の音楽家としての指針にもしたのだろう。それほど嫌いな音楽をあれほど熱中して再創造し、まるで《情事の最中のように》身も世もなくさらけ出してしまう。まるで白と黒の鍵盤が清潔なベッドに見える、その上で求める人とする生殖行為、つまり生き物として、まっさらな新たな世代の生き物を創りだすための待ったなしの行為を、まるで創物の神に命令されたかのように素直に実行するのだから、いのちを遣う行為、をごまかさない、それがモーツアルトとグレングールドに要求された、生れてきた意味に従容として従うことが人間のなすべき唯一のことだ、という本質に最も近い人間=自然としての共通点だ。グールドはモーツアルトが挫折したところから立ち上がってさらに深く降りていった、それは時代が進んだからだともいえる。映像でみると痛々しくてひりひりする。Jun 01, 2016
『モーツァルトカレンダー』
音楽好きな若い詩人二人の力を借りてようやく私家版として出版にこぎつけました。今の私にできる精一杯の仕事でした。結果は、OKです。國峰照子さんから「有働さんの音楽の吸い込み口がよく分かる」との感想をいただきました。《吸い込み口》とはまさにぴったりな、ピアノを弾かれる國峰さんならではの表現ですね。編集の榎本櫻湖さん、表紙デザインのカニエ・ナハさん、爽やかなお仕事を感謝します。これでモーツァルトという最強の蜘蛛の捕虫網から脱出できるかな?あるいはこうやってひっかかったまま干乾びる? モーツァルトは はだか=スタンダール、モーツァルトは世界中に飛び散るタンポポの綿毛=有働薫、je seme a tout vent=ラルース辞典の標語(どんな風にも種を撒く)。モーツァルトはまた別の表現をすれば、ゴシック建築、バッハはロマネスク、グールドは自然、3人ともそれぞれの純血種……May 01, 2016
いま、『新エロイーズ』を読んでいます
モルポワの詩集『イギリス風の午後』の翻訳は3分の2ほどが終り、それらは詩誌『ユルトラ・バルズ』に分けて連載を続けています。いよいよジャン=ジャック・ルソーの小説『新エロイーズ』を下敷きにしたリリシズム論に入ることになります。かなり時間をあけてようやく取り組みの体制に入ったので、満を持して集中したいと思っています。ところで、私のモーツァルト熱はじつはこの翻訳の仕事を進めるためにどうしても通過しなければならなかったことが、今になって分かってきました。ルソーはパリで客死したモーツァルトの母親と同じ日(正確に言えば23時間前の前日)に、パリ近郊のエルムノンヴィルで亡くなっています。そのことはモーツァルト自身には何の関わりもなかったかのようですが、こうして250年近くの時間と距離を隔ててみると、ルソーの孤独がモーツァルトの晩年の状況と怖ろしいほど共通していることが浮き上がってきます。モーツァルトは精神的にルソーの息子(34歳年少)だった、そう言い切れるかもしれません。ルソーの『孤独者の散歩』を再読してその思いを新しくしています。これだけは仕上げないとと決意を新たに……Apr 02, 2016
モーツァルト毎日ご飯
月のように満ちゆっくりと欠けて行き
黙ったまま完全に消える
いつの間にか
頼りげない一すじの弧として
うっすらと現われ
やせ衰えたかと思えば
やや緩みを増して
僅かずつ回復していく
左に張った弦
やがて身篭ったように
腹を膨らませ
低くつぶやくー―
「わたしは永久に繰り返す」
毎日ご飯を食べるように
崩れぬ旋律とリズムがあり
そのままくりかえされる
音楽
モーツァルトは
月
なぜなら
その音楽の本質は
わたしたちの世界の《反映》だから