Jul 19, 2016
「詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)」6月26日
何ごとにもぼんやりで、昨日やっと谷内さんがご自身のブログで取り上げてくださっているのに氣付きました。検索がけっこう大変なので(氏のブログを先月26日まで繰って行くのが)、以下にコピーさせていただきます:詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記) 日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。有働薫『モーツァルトカレンダー』 2016-06-26 10:47:20 | 詩集有働薫『モーツァルトカレンダー』(arxhaeopteryx、2016年05月20日発行) 有働薫『モーツァルトカレンダー』はモーツァルトの曲(タイトル)と詩を組み合わせたもの。私は音楽をめったに聞かないので、有働が紹介している曲がどのようなものか知らない。だから、感想は、有働の意図からかけ離れたものになるが、詩を読んで感じたことだけを書く。 「岩たばこの栽培」。その途中の部分。 正午の鐘が鳴った はじめいくつかは一つずつ鳴り やがて連続して激しく鳴り はげしくしばらく鳴りつづけ やがて低く 遠ざかるように消えていった ここがとてもおもしろいと思った。 「はじめ」「激しく」「はげしく」「しばらく」ということばが鐘の音のように似ているけれど違う感じと重なる。同じ音なのか。違う音なのか。音痴の私には区別がつかないが、鐘が鳴り響くとき、その音と音とのぶつかりあいが、ここに再現されていると感じた。「は」の音が「濁音」もふくめて鳴り響く。」げ」「く」「く」と「か行(が行)」も響きあう。 これに、「鳴った」「鳴り」「激しく鳴り」「鳴りつづけた」。「鳴る」の繰り返し、「な」の音が割り込んできて、「は」「か行」の音を散らばらせる感じがする。 にぎやかで、とても楽しい。 そのあとの、 日差しが強い セーヌ川という名前はね、ラテン語のSequanaつまり地質学でジュラ系セ カニア階の意味、ローマ人がつけたんだね 連れがあるつもりになる と展開する。「セーヌ川云々」は何が書いてあるのか、実は、さっぱりわからない。わからないのだけれど、それが効果的。まったく新しい音として響いてくる。「意味」はあるのかもしれないが、「意味」のない「音」そのものになって聞こえてくる。その音のなかには、Sequanaという「読めない」音がある。何これ? 読めないから、聞こえない。 でも、これって、こういう感じって、鐘の音に似ている。 全部聞こえているつもり。でも、そこには聞こえない音がある。鳴っているのはわかるが、それを自分で再現できない音。その「不可能性」が鳴っている。「自分」とは「無関係/無縁」のものが、そこにあって、それが「世界」を華やかにしている。「無意味」をきらきらとばらまいている。 で、この「聞こえない/無意味」というのは、もしかすると、「他人」だね。自分とは完全に断絶した存在。 「断絶している」「他人である」。でも、だからこそ、「接続」したい。「接触したい」。繋がりたい。「断絶した/他人」を「私」につなぎあわせるとき、「世界」に革命がおきる。「私」は新しい世界に必然的に入り込んで行く。 音楽にのみ込まれるときというのは、こんな感じだなあ。 「他人」は、このとき「連れ」になる。 そして、この「他人」が「連れになる」というのは、どっちが先かよくわからない。「連れになった」ときに、「他人」がはっきり存在しはじめたのかもしれない。「連れにならない他人」というのは、たぶん、存在していない。「聞こえない音」なのだ。 こういうことばのあとに、さらに 教会堂の柵のねもとで サンドイッチをたべた あ、ここがいいなあ。「世界」に抱かれている感じ。「世界」と完全に「連れ」になった感じ。 ほかは、よくわからないのだけれど。
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