Jun 25, 2007

宗教・神話・詩論

岸谷巷談 ―タブノキと杉山神


 この『操車場』誌上に参加されている坂井のぶこさんと関心は重なってしまうようだが、私の住する鶴見の岸谷という町について、とりわけてその植生およびフォークロアに属することどもについて、さまざまに浮かんだ思いを書いてみる。

 岸谷の町の地勢をいえば、まず急峻な高台と比較的に深く鋭い角度で丘陵部に切れ込んでいる谷々が挙げられる。海はほぼ真東に位置し、丘を下れば海までじつにあっけなく届いてしまう(現在は埋立地の彼方に海が退いているが)、猫の額のような生麦の平地がひらける。
 ここの植生で特に目につくのはタブノキである。植物生態学の宮脇昭氏によれば都内でこのタブノキを含む本格的な森と言えるのは、浜離宮(タブノキが主木)と、白金の自然教育園(スダジイが主木)くらいしかないとのことだが、東京からほんの十数キロ南にずれたに過ぎないここ鶴見の地では、森と言うには遠く及ばないけれど、そこに一本あそこに三本と、確実な密度でタブノキの植生が見られるのである。そしてこれも宮脇氏の言うとおり、ほとんどが単独の樹木として生えているのではなく、生態系における一項として、すなわちシロダモ、アオキ、ヤツデ、ヤブツバキなどの下生えを伴った生態系の一全体として、息づいているといえるのである。ここが京浜工業地帯の埋立地を指呼の間に見る土地であることが、にわかには信じられない。
 岸谷は住宅街なので、タブノキは古くからの家には庭木としてさえ生息しているし、わりあい大きめの樹冠を目印に行ってみると、小さな赤鳥居の奥に小さな祠が祀られていたりする。そういえば(主に)鶴見川水系には、四十数社まで数えられるところの杉山社なる神々がおわしますが、そのひとつのやしろがここ岸谷にもあって、さだめし濃密なタブノキ群があるだろうと境内を見回してもケヤキやサクラが見えるだけで、当初は気落ちしたものだ。だが、そこの舞殿の裏手に回ってみて息を呑んだ。丘の頂上にある神域の切り立った崖のきわに、岸谷のほかの場所では見たこともない大きさの、化け物のようなタブノキが一本、蹲っていたのだ。
 やしろの由緒書にはタブノキのことは当然触れていないが、現在の舞殿の場所はかつて本殿があったところだそうで、そうすると、なるほど、岸谷杉山社の本義がどこいらへんに存するのか、一つの暗示が得られてくる。少なくともいまはお化けみたいに盤踞しているこのタブノキに、憑代(よりしろ)としての意義を否定することはむつかしいのではないか。ただし、岸谷の杉山社自体も幾度とも知れぬ遷座の結果、いまの場所に落ち着いているわけで、神というものはたびたび動くものであることが追認される。その場合何を憑代としたのか、そもそも憑代というフレームにとらわれていたのかどうか、いまは不明だ。けれども岸谷杉山の神が、タブノキからタブノキを飛び石のように伝って、現在の場所に鎮まっていると考えてみるのは、何となくたのしい。
 ちなみに神社の丘から数百メートル離れた低地に岸谷公園というプール施設を有した公園がある。ここはプールのある古い公園がしばしばそうであるように、かつては池であったという。おもしろいのは昔ここが杉山神社の境外地(池?)であったということだ。神社から見て真北に当たるこの公園の入口に宮北という表札の家を見るが、このお宅は杉山社とは全然関係がないのであろうか。公園自体に、「池」の往事には必ずあったはずの、何かお祀りをした形跡というのはまったく残っていないようだ。
 また、ここからそう遠くない、第二京浜のちょっとした切り通しのような崖に、岸谷の湧水として近隣には少しばかり名の知れた湧き水があるが、これは第二京浜を造るため丘を開削したところに湧いたものだそうで、その丘が岸谷杉山社の神職の持ち山だったという。湧水のちょうど反対側、分水嶺を越えた丘の反対側の中腹に、かつて滝坂不動という小さな滝を有する聖地(sacred place)があって、そこを代々管掌し、水行をおこなっていたのが小島という家だったそうだ。もとよりこの家が岸谷のやしろといかなる関係であったのかは知らない。関係はなかったのかもしれない。だが、杉山の神の本地と考えられていたのが、多く湧水や滝などに関係の深い、水の神の一面を持つ不動明王であったことと考え合わせ、特に岸谷のやしろにおいては、杉山神が水神であるという側面が色濃いのではなかろうか。そういえば、ほど遠からぬ港北区の大豆戸町にある八杉神社は、やはりこれも杉山神社の一で、同じ丘の近くに、竜の口から湧水を落とす小さな滝のしつらえを具えた、一宇の不動堂があったと記憶する。滝坂の不動にも同様のしつらえがあったのは、これは以前に私が確認している。
 水といえば、巨大タブノキの崖を逆落としのように下った神社裏側のふもとに、一軒の銭湯があるけれど、その屋号を宮下湯という(岸谷や生麦には湯屋が実に多い。新しい住人や素封家を除いては、内風呂を使う習慣があまりないのがここでの古風なのだろう)。なんだか笑い話になってしまうが、宮北と宮下があるなら、あとの東西南の名辞を含む家名の体系を考えたくなってしまう。神話論ではよくお目にかかるミッシングリンクというやつだ。付け加えておくと、タブノキは海岸縁の小高い場所に主たる植生を有するが、いずれも真水の豊富な土壌・土地柄を好むそうだ。滝坂不動の丘にもむろんのことタブノキの植生は連続している。それにつけて、こんな南島歌謡(というより神話的叙事詩)があるのを思い出した。孫引きであることをお断りしておくが、水の暗示がここにもあるような気がする。

…………
しきぬ三月(みしき) 日ぬ百(むむ)日 なるけん
山ぬ中に 山の底(すく)に くまりょうり
しぃきや三月 日や百日 なりょたら
あまぬ水(みじい)、どぅきゃぬ雨(あみ) ふささぬ
川原たゆび 水たゆび ぬぶりょうり
上(あが)りよ立つ 白雲ぬどぅ 水やる
うはら立つ 生(ま)りぬり雲(ふむ)ぬどぅ 雨ややる
山ならし 川原ならし ふる雨
川原ぬばた 水ぬばた うすびょうり
ばぬとぅみる くりたなぐ 人(びとう)ぶらぬ
びしやみぶる うすびやぶる うちぃなが
かたみんや とぅむぬ木ぬ むやぶり
かたみんや まとぅ木ぬ むやぶり
…………
                    (波照間島の「ぱいさきよだじらば」より)
 
[訳]
(三ケ月のあいだ 百日になる長い月日
 山の中に 山の底に こもった
 三ケ月の間 百日になる 堪えがたさに
 あまりの水 あまりの雨 欲しさに
 川辺をたより みなもとをたよって 登り
 あがり立つ白雲の 水となる
 立ってくる叢雲が 雨となり 降ってくる
 山鳴らし 川辺を鳴らし 降る雨
 川辺の端 水の端 うちふして
 私を求める この不遇の女を探す一人もいない
 うちかがんで うち臥していたうちに
 片目からは トモン木(タブ木)が生えてき
 こちらの目からは マトム木が生えてくる)

 『甦る詩学 南島集成』(藤井貞和著、まろうど社、2007年)に引かれたこの歌謡のあらすじは、藤井氏によるとこうなる。

シカサマと称する絶世の美女が、辺鄙な村に生まれた。古見に出て役人の賄い女となったが、その後は、多くの訪ねてくる男たちと交わり、海亀みたいに誰とでも寝る女だと悪い評判を立てられる。そこで女は堪えられず、山中に到り、籠り生活をしていたのが、水ほしさに川辺に来て、うち臥してしまう(死ぬ)。その片目と、もう一つの目とから木が生え、二本そろった立派な材木となったので、専門の技術者がそれをみつけて公用船や地船にしたてた。元馴染みの古見の役人がその船を利用される云々。(149頁)

 豊饒な神話の香りを感ずるが、ここに垣間見られる「水」という要素に、杉山神のひとつの(見えざる)系を引き当ててみることは可能なような気がする。タブノキと真水という二項関係のほかに、杉山神と水という関係は次のことからも跡づけられる。すなわちその集中奉斎地区における特異的な民俗行事といえば、鶴見社の田祭り神事を除き、ほぼ雨乞いという一事に集約できるのである。この場合、大小の竜や大蛇のイメージを伴うようだ。それにしても、南島歌謡における「水」と杉山神の媒介項としてのタブノキは、媒介という点でいかにも微弱であり、また大元をいえば南島歌謡まで持ち出して、少々大仰になってしまったこと、忸怩たらざるを得ないけれども。

                                        07年/6月 詩誌『操車場』第2号所収
 
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Jun 08, 2007

宗教・神話・詩論

杉山神社研究


緒言


 ノート篇と編集篇からなる「杉山神社研究」は、2003年に灰皿町のさいしょのサイトとしてアップされたが、それは私が所持していた若年時の手帳の全ページを撮影した写真版としてであった。そこには杉山神社についてに留まらない、当時の私の備忘、出納、可成りといっていいが文芸的なものを意識した、日々の感想などがごった煮のように綴られている。当然杉山神社研究本編のほうも未整理状態のまま、しかも手書きのボールペン文字で書き殴られていることとて、読者にとってとてものことに親切とは言い難く、それどころかこのようなありさまで「読者」は存在するのかと疑われるほどであった。そこで、ことしやや心をあらためて、これを読む読者の便ならしむべく、印字と若干の整理とをおこなったという次第だ。

 長い間これに手をつけなかった理由は、その煩多をきらったことのほかにまた別にある。それは、私にとって杉山神社研究で考えたことがまだ終わってはおらず、杉山神社のノートを披くとき、いまだ未解決であることの一種の痛覚が依然として存在していたからである。それは具体的には、私が杉山神社のノートで記したことは全面的に間違っているのではないか、という疑義の形をとってあらわれた。これらの筆記はすべて無意味ではなかったのかと。ノートを印字することはすなわち、この問題に私をして直面せざることを得さしめないのである。
 ノートの当時、とりあえずのこととして3つの問題が未解決であり、ノート印字に際して、これへの目測が付かなければ作業を始めることが出来なかった。

1)本祀の問題をどう取り扱うか。
2)祭神の系譜をどう考えるか。
3)これらへの当面の答えとしての、疫神ないし御霊信仰はどこまで有効か。

 このなかで、本祀はどこであるのかのナゾトキは、現在私の興味を引くものではなくなっている。ノートのさいごのほうの時期でもすでにそうであった。あくまでも、主に鶴見川水系に集中するスギヤマという比較的限定されたディメンションにおいて、神話や神話的思考がどう展開しているのかが興味と関心の中心をなしてきた。これは格好の素材ではないか、という興奮に身はそぞろめいてきているというのが、偽らざるところである。私のなかでスギヤマを寝かせてきて、そして現在の問題意識とスギヤマという主題が結婚するに到ったのも、ひとえに30年という時間の重さだろう。
 祭神についてだが、柳田国男の『妹の力』中の次の言葉が私を勇気づける。越中射水郡の櫛田神社に伝わる大蛇と早乙女と櫛についての伝説を引いて、かく語られている。

「『神祇志料』にはもちろんこれをもって祭神奇稲田姫と考定しているが、御苦労でも何でもない。われわれの問題はいかにして神代の正語の中に、稲田といいクシという美しい女性の物語が伝わったかである。櫛はまことにクシであって、ただの日に稲田に立つ婦人の、一様に頭に挿し飾るべき器具ではなかったのである。」(日を招く話)

 杉山社の祭神がヤマトタケルとイタケルの2系統にほぼ統一されているのがどういう訳合いであるのかに深入りすることは、私を要らざる隘路に踏み迷わせた。「神道大辞典」に出ているようなあれこれから、すなわち祭神の性格から神話的意味を読み取り、しかるのちに諸杉山社のあれこれにそれを当てはめて、杉山神社とはこれこれだと言おうとしていたのである。そしてさいごには、記紀に出てくるような神々に、杉山社のそれを収斂させ体系づけてこと終れりとしたところで愕然とした。そこには「現実の杉山神社」がどこにもないではないか。
 ノートでも祭神穿鑿には否定的だったが、では祭神問題に対抗する思考はあるかとなると、なかなかにむつかしい。最近になってふと気づいたことがある。おびただしく生きてはたらいている「現実の神」に、果たして記紀に収斂するような名前など、本来あるのだろうかと。柳田の言うとおり、「現実の神々」の残片が神代の正語に保存せられてあるわけで、杉山社集中奉斎地区である草深い武蔵の一隅においてその逆は考えにくいと思う。
 事実武蔵の大社である大国魂神社(一名六所宮)は、武蔵の6坐の神を祀っていて、その1坐に杉山神社があるが、祀られている祭神の名は「杉山大神」であるにすぎず、何々のミコトではないことは、畿内のやしろとは大きくその性格を異にしている武蔵ないし東国諸社の、一般的な傾向でもあるだろう。文献上にあらわれた杉山神社の初出は中世の『神道集』だそうで、垂迹身は杉山大明神、本地は大聖不動明王とある。神の名は、と聞かれれば、そこの神職でもないかぎり、杉山大明神と答えるよりのほかはなかったと思う。
 祭神問題に関して、対抗的に出てきたのが疫神・御霊思想である。これはじっさいの現地踏破、まあフィールドワークと言っては大笑いされるようなお粗末なものながら、現地の空気を吸うことで気づいたことである。もとより仮説に過ぎないが、神道関連の書物から系図やら系譜やらを追尋したすえの結論よりは、それが色んなフィジカルな物証と、何よりも具体的な「現地の空気」の感触をともなうものだけに、机上であれこれ考える祭神問題の徒労感からやや解放される思いがしたことも事実である。この当時の現地における、具体的な感触に根ざした(疫神・御霊思想という)提起は、対抗的なだけではないような気もしている。あるいは、本地・不動明王というのも、何かのヒントかも知れない。
 この提起は神様は何々ということで片のつくことではなく、また杉山社だけに収斂されるものでもない。何かもっと別のものに結びつく可能性がある、媒介や中間項のような予感がする。さいしょにも述べたが、これらから神話論的な何ごとかの展開が見られるかもしれない。少し息の長い探索になるかも知れない。

 今回も、このブログのような形の容れ物を用意していただいた、清水鱗造さんに感謝したい。またさいしょの写真版を作っていただいた長尾高弘氏にも、当然のことながら大きな謝意を表したい。長尾氏は、まさに杉山神社集中奉斎地区のまんなかに住しておられるのである。

2007年6月7日 倉田良成
 
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Jun 03, 2007

宗教・神話・詩論

杉山神社研究・ノート篇


昭和54(1979)年秋現在


〇港北・緑地区杉山神社一覧

港北区
新羽町2579 日本武尊(新羽総鎮守の称あり)
同  3908(付近) 三輪明神(北新羽総鎮守)
勝田町1241付近 祭神不明 (「お社」の称)
新吉田町4502 祭神不明(郷社) 近くに「御霊」の地名
茅ヶ崎町2099
中川町915付近
師岡町・樽町境界付近
岸根町397

緑区
大熊町 保育園トナリ
池辺町2643付近
佐江戸町 無量寺付近
鴨居町 鴨居小学校トナリ
三保町 県農業合同庁舎トナリ
西八朔町 極楽寺トナリ
千草台20付近
寺山町178付近
みたけ台26
恩田町1199
市ヶ尾町647付近
青砥町 蓮生寺付近
中山町 長泉寺トナリ

(補)川崎市
末長808に杉山神社1社 また武蔵小杉付近に井田杉山町の地名あり
横浜市西区中央1丁目に1社 石崎川―帷子川分流

保土ヶ谷区上星川町480付近 同仏向町268 同西久保町116
  上記保土ヶ谷の3例はいずれも帷子川流域

〇港北・緑地区神祇一覧

*権現社
緑区荏田881
*稲荷神社
港北区岸根町573
同  菊名町(新栄稲荷)
同 北山田町3064
緑区川向町、池辺町、荏田町、あざみ野(4か所)、大場町、長津田町5100、三保町(?)、中山町
*熊野神社
港北区師岡町(熊野宮)
同   日吉5丁目
同  下田町835
緑区寺家町925
*八幡神社
港北区大曽根町
同   小机町1409
緑区川和町2354
同 台村町554
*神明社
緑区新治町、同恩田町、同十日市場町
港北区下田町、同牛久保町
*白山神社
緑区白山町
港北区小机町
*住吉神社
緑区奈良町
港北区小机町
*天満宮
港北区高田
緑区東方町

港北区日吉4丁目 日吉神社
同綱島東2丁目 諏訪宮
同日吉本町 駒林神社
同太尾町 太尾神社
同菊名町 菊名神社
同大豆戸町 八杉神社
同新羽町 浅間神社
同南山田町 山田神社

緑区折本町 淡島神社
同東本郷町 本郷神社
同荏田 剣神社
同美しが丘 平川神社
同大場町 諏訪神社
同市ヶ尾町 雲神社
同鉄町 鉄神社
同鴨志田町 甲神社
同長津田町 大石神社、天土神社、高尾山神社、王子神社、空造様

(不詳神祇)
`港北区
東山田町、篠原町
`緑区
元石川町3社、恩田町1社、三保町1社(稲荷社?)、中山町1社、鴨居町2社、池辺町1社
{以上昭文社発行「横浜市港北・緑区全図」(9500:1)に拠る}

(補)
神奈川区菅田町杉山神社
同片倉町杉山神社
鶴見区岸谷3丁目杉山神社

北 川崎市末長
南 保土ヶ谷区西久保町
東 鶴見区岸谷
西 緑区恩田町


武蔵国国幣小社(延喜式神名帳)
数多の「杉山神社」のいずれに比定されているのかは不明

祭神二系統 五十猛尊(イタケルノミコト)→杉古木
      日本武尊→東国征伐の道筋

現鶴見神社 杉山神社神祷歌釈(スギヤマジンジャカムオーギウタノシャク)の存在
{以上「神道大辞典」による}


横浜市西区杉山町(の)杉山神社→杉山一族
同区中央1丁目?
川崎市井田杉山町 保土ヶ谷区和田1丁目

讃岐 瀧の宮神社 念仏踊―雨乞い

昭和54年9月22日 予定
西八朔杉山神社、中山駅周辺4社、中山町無名1社、佐江戸町杉山神社、鴨居杉山神社 ……地図記載の集中地域

`水田耕作との関係 `河川(水)との関係

境内の「古木」を確認すること。神名の確認。近接する神社(とくに同名社)との関係の有無の感触→同名社ならばとくに近接していなくてもよい。立地条件。地域との関係。「杉山神社」の名称に付帯する「称号」の確認。

9月22日

〇西八朔町杉山神社
横浜市緑区西八朔町208番地
社格 元郷社
祭神 五十猛命 配祀:大日霊貴(オオヒルメノムチ?)命、大田命、一神不明
古木 タワラグミ、モミジ。周囲に杉林、孟宗竹。
神殿 [ペン画あり]屋根は藁葺き。杉板に「杉山神社」の扁額。すべて木造。
立地 丘陵の斜面―麓近く。石段あり。元は境内の他の場所にあったらしい。江戸期に現在の地に移転(297年前とある)。由緒書による。

〇三保町杉山神社
緑区三保町2087番地
社格 村社
神殿内に杉板(根幹部を真横に切って板としたもの)の奉納板あり。西八朔の神殿に掲げられた社名を記した板と同じ。
藁葺き屋根
古木 杉、イチョウ、ケヤキ、モミジ
社殿裏手に神木の記念碑(樹は現存せず)。昭和9年のもの。
祭神 不明
神木記念碑の隣に小祠あり。その傍らの石碑に、仁徳天皇と菅原道真の名と詩文が併記されている。(よく読めないが、例の:後註)民のカマドの歌と、「菅公」として歌一首(判読できず)。碑の中央に「去来(年)今夜待清涼秋思詩篇獨断腸恩賜御衣今在此捧持毎日拝余香」の文字あり。江戸期のものらしいが、かなり古いものであることをのぞいては何もわからない。
立地 街道交差点。割合に平らな地勢。

〇佐江戸杉山神社
社殿 中山町のそれと酷似。街道沿いの丘陵の上→山上の印象(新吉田のそれと似る)。社殿左手に石碑2基。同じ岩質。同時にたてられたものか。

中央に「参明(?)藤開山」(字は象形文字的にデフォルメされたもの)。右側にやや小さく「天下泰平」。左側、同様に「五穀成就」とあり、天に「山印」の図柄あり。

中央に「御嶽三柱大神」。左下に小さく「長谷川為永敬書」とある。裏側に以下の文字。「維明治九年十有二月村中信者等首於 鎮守杉山神社之側択高敝地樹 御嶽山遙拝石以祷 霊呪先是村中火屡發延及数戸人々憂懼於茲 御嶽講中先達行者懇祷免火難妖病等適欲往詣 御嶽只憾農事不遑乃冀設 遙拝石詢村里慫慂之衆競投資功立成焉是縣(?)  神徳賢 清化之所致者乎因謹記其来由云(改行)應講元需 杉原実圓誌」


〇池辺町杉山神社
社殿扁額に「杉山大明神」。屋根銅葺き。
社格 村社
古木 ケヤキ、ムクノキ、アカガシの大木あり。殊にケヤキは神木と云うに足る。
祭神不詳
社殿左手の勾配に稲荷の祠。その上手に「厳島大神宮」の小祠あり。
(舟形の山車らしきもの。長さ数メートルの規模)
境内の広さではいままで見てきたもののうち最大。青砥町杉山神社の印象ときわめて似通う環境(ミリュー)。

〇鴨居町杉山神社
扁額に「杉山社」とあり。社殿トタン葺き。社殿内に絵馬二枚。かなり急峻な岡の中腹。ケヤキ、サクラ(古木らしきものは現存せず)。
(社殿は)鶴見川とは反対の向きに建てられている(谷間に向かって)。石段をのぼる手前右側、廃棄された小祠の跡がある。鳥居右手に金木犀の古木。


「杉山神社考」(戸倉英太郎著、緑区郷土史研究会編)の存在

緑区寺山町118番地 緑区役所福祉部市民課社会教育係内
  tel(045)933-1212内線216・217

中山町杉山神社(社務所?)にてパンフレット入手
パンフレットに書かれていたこと→川崎・横浜地区杉山神社(昭和31年当時)48社。関東大震災の影響→旧社殿・結構の倒壊。ひとつの転機となる?


〇寺山町杉山神社
緑区寺山町550番台
「寺山鎮守」の号あり。瓦葺き。社殿内奉納板(杉)。社殿本体をのぞいては比較的新しい感じ。坂の途中、集落の中。
祭神不明
古木 特に見当たらず。ケヤキ、スギ、イチョウetc.
社殿向かって右側に小碑ふたつ、針金によってくくられて立っている。ひとつは「天照皇大神宮/元金比羅神社祠之跡/天満宮」の文字。もうひとつは「元稲荷神社祠之跡」、側面に「大正七年三月建之新治村氏子中」とある。前者の側面にも「大正七年二月四日為村社杉山神社合祀」とある。


〇中山町無名社は、稲荷及び駒形神社の小祠。


〇中山町杉山神社
社殿瓦葺き。他の一般的な神社と異ならず。
河岸段丘上。裏手に林あり(ただし古木は見当たらず)。神名不詳。街道沿い。

住居を兼ねた社務所(?)あり。そこの人に「杉山神社考」のパンフレットをもらう。この行1981年6月5日記。

〇青砥町杉山神社
社殿銅葺き。近いころ補修改築されたものか。結構は、それでも旧い「杉山神社風」をとどめているようだ。
古木 ケヤキ、カシ。
鳥居前に小川、丸橋。周囲は住宅街。
祭神 不詳

入口右手に石碑4基。左から順々に背がひくくなってゆく。
「二十三夜塔」(明治四未年十一月建)、「堅牢地神」(文政八酉年正月吉日)、「二十三夜塔」(天保四巳年正月建之)、「馬頭観世」(天保……以下判読不能)。

立地 街道沿い、比較的低地。


〇「五十猛」イタケル
〇延喜式神名帳「都筑郡一座小/杉山(スギヤマ)神社」
〇伊太祁曾(イタキソ)神社 和歌山県伊太祁曾にある元官幣中社。祭神は大屋毘古命(五十猛命イタケルノミコトとも称す)→広辞苑
〇木曽路-御嶽山……佐江戸町杉山神社(の碑)

緑区川向町 大塚巌徳氏
郷土史研究会


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宗教・神話・詩論

杉山神社研究・ノート篇(承前)


〇樽町杉山神社
トタン葺き。
道沿いの榜示より50メートルほどの所に鳥居、石製、棟札なし。それより20メートルばかり奥まったところに石段、16級、小高くなって社殿鎮座。丘の麓。今は(扁)額なし。石段の上、左に燈籠1基(右手には現存せず)。頭部(火袋等)おそらくは後に補修されたものである。銘(右から)「正徳四□□歳樽村/奉立杉山宮御宝前/四月吉日忽氏子」。右手に手洗石。銘(右面)「石工□□/飯嶋吉/天保十二丑年七月吉」、(左面)「願主當邑重右衛門忰/麻布廣尾町/萬屋金蔵/同銀蔵」。石段下、銘(右)「弘化三年丙午八月吉日」、(左)「氏子中」。他に碑、小祠のたぐいなし。


[杉山神社考抜粋]

1)武蔵六所宮(大国魂神社)との関係

`猿渡氏 武蔵六所宮大宮司
     産土神としての杉山社→盛章・容盛父子の杉山社研究 p8~9
`六所宮大祭への都筑村民の参画 p10
`「奉斎概便」より
 茅ヶ崎杉山神社に伝承される「年中行事」の文書(「文和元年」=1352=とある) の末尾に「武蔵国一之宮岩井氏之蔵書写 吉川惟足」の文字がある。→猿渡氏文書(現在の神奈川区と旭区の境あたりに沢渡[さわたり]という小地名かつてあり)
 安房忌部との関係→茅ヶ崎社伝承
`平尾杉山神社 名主をはじめとする村民の六所宮神事への参画。高張提灯。発生年代不明。
`p107(神名帳考証)
「『地考』古呂玖宮江府赤坂ニアリ氷川明神ト称ス。或曰都筑郡ノ内小机村ニアリ杉山明神ト称ス。或吉田村ニアリ。」云々。

2)「俗説」拾遺

〇吉田杉山神社項p22
「(前略)神体ハ木ノ立像長一尺八寸ハカリ権五郎景政ヲ祭リシモノニテ太刀弓箭ヲ帯セシ像ナリ其傍ニ古キ木像ヲ安置セリ土人ハ八幡ノ神体ナリトイヘト本地弥陀ノ像ナルニヤ虫喰テ定カナラス」(武蔵風土記)

〇茅ヶ崎杉山神社項p31
「三、前掲神前榜示の内『武蔵志云』とあるは、武蔵志料に『杉山大明神は稲毛領の内所々々に此の社がある。祭神は未詳、土俗伝えて鎌倉の杉山左兵衛の霊なりという。』と載するものを引用したのか。」(本文より)→「武蔵志云在茅ヶ崎村世謂之杉山大明神云云相伝言鎌倉杉山氏之祖霊也云云」(榜示、天保四巳四月)

〇大棚杉山神社項p43
「天正文禄両有地図従彼東至鵜目有連山之峰亦北野之荒原古道凹形称鎌倉街道富出古瓦…」(栗原恵吉社碑案文嘉永四年)

〇西八朔杉山神社項
「(前略)よくよく問ひ尋ぬるに、もとは今の社地より凡三町ばかり西北の方に鎮座ましまして、其跡を今に大明神山といふ。また廿町ばかり東の方、小山村の内に鳥居土といふ小地名ありて、むかし此神社の一の鳥居たてるよし、里人は語り継ぎといへり。」(「総社伝記考証」より)

「源頼朝が鎌倉幕府を開くとき、当社を国土の守護神として厚く崇尊し、尚附近に杉山社の分霊を新たに七社奉祀した。(略)徳川氏は五石六斗の朱印地を奉った。(戸倉意見)源頼朝が鎌倉の鬼門よけの為に、七杉山社を置くと云うは俗伝であろう。」

「西八朔には神社にちなむ沢山の地名が残っている。即ち杉山社の旧地は大明神山で、其の下に腰まき、坊の下、東に警固場山、隼人谷、七瀬、神輿、仙学坊あり、いなご原、向原、大原、社人坊、大門跡、斎戒坂などの地名が上げられている。」

〇上谷本杉山神社項
「社伝によれば、国土守護のため源頼朝が造営したものと云う。」→江戸期における領主(渡辺氏)の保護。

〇恩田杉山神社項p57
「付近一帯石器散布地という。」

「境内社に内方様というのがある。神体は何時の頃にか、奈良より流れきたのを祀るものである。内方様の称は日本武尊の妃という意か。恩田村は日本武尊好きな村と見え、神鳥前川(しとどまえかわ)社に武尊及橘姫を祀っている。」

〇新羽杉山神社項p57~58
イ)二又大根の紋章→性的なメタファー(北新羽は三ツ葉)
ロ)奉納された自然石2つ
ハ)「杉山社 除地一段字三谷アリ又此辺ヲ八朔堂トモイヘリ神体ハ木ノ立像長一尺許其形菅神ノ像ニ似タリサレト近来ノ作ニシテ昔本地ト号セシハ石像ノ不動ニテ云々」(「武蔵風土記」より)

〇鶴見(杉山)神社項
牛頭天王相殿

〇六角橋杉山神社項
六角橋は日本武尊への饗応時、この地の久応というもの六角の箸を賜ったという口碑に由来。

〇久本杉山神社項p84
「この社へ触穢の者詣づれば必ず災ありとて、土人甚だ恐怖せり。」(「江戸名所図会」より)

〇戸部杉山神社項p85
「此の社は白鳳三年の勧請というも明らかでない。元社頭に一基の古墳があった。古老の語るところによると、昔此の社の大祭の日、神輿渡御を行った。しかるに此の古墳の前に到ると神輿が動かなくなった。故に神震を畏みて其の神輿を墳丘中に埋め納め、其の後は此の古墳を神社と同様に崇敬したという。」(「横浜市史稿」より)

〇蒔田杉山神社項p87
「此の社は承元三年当地無量寺の貞暁法師が、鎌倉の鬼門鎮護のため、伊豆土肥の杉山より勧請した七社弁天の一つである。」(「無量寺由緒」によるものか)

〇成瀬杉山神社項p88
祭神 五十猛命(明治初年以前は玉大猛命)
相殿 天照大神 熊野三郎

「神体ハ唐冠ヲ戴キ笏ヲ持チ立ル木像ナリ長七寸ハカリ云々」(「武蔵風土記」より)


〇杉山「タケル」神の本地に擬せられるものが多く不動であること
「武蔵風土記は(杉山神社の)祭神を記することは以上のように僅少であったが、本地仏については多く記している。同書に本地仏の明らかなるもの二十六社、内不動明王が二十二社で、薬師如来二社、釈迦如来と十一面観音菩薩とが各一社である。」p112
「往昔江戸の目黒に一堂があって荒人神として日本武尊をまつっていた。大同年間慈覚大師が此の地に来た時、里人の乞いによって日本武尊の尊像を彫刻して其の堂に安置した。それが名高き目黒不動の本尊である。慈覚の刻んだ像は、日本武尊が駿河焼津の野火の御難の姿で、左手に猟犬の切縄、右手に叢雲の剣を抜持ち、渦巻く火炎の中に立つ像であるから、其のままそっくり不動明王と同じである、と『江戸砂子』に見える。」p113

〇天王社との関係
「ちなみに杉山神社奉斎地区内には昔十指をこえる天王社があった。其の内保土ヶ谷帷子の牛頭天王社(現称橘樹神社)について武蔵風土記に次の記事がある。/相伝フ当社ノ神体ハモト仏向村ノ内宝寺ト号スル寺ニアリシモノナリシカ戦争ノ間破却セラレシ頃此神体帷子川ヘ入テ流レ来リシヲ其辺ノ百姓等三人ニテ取アケ今ノ所ヘ社ヲ造リマツレリト此ニヨリテ今モ社修造ノ後遷坐ノタヒコトニ彼三人ノ子孫進退セリト云」p122


〇恩田杉山神社
 石製の鳥居に「杉山社」の文字のある扁額をかける。急峻ではないが、長い石段を登ると社地がひらける。まわりに杉林のある簡浄な境内。社殿右手に舞台と納屋、やや奥まった左手に小祠4座。[図あり]奥の二つは非常に小さなもので、一つは石の扉が壊されて「日枝神社」と記された木片がのぞく。手前の大きなもの(の方)は地蔵堂に似る。暗くてよくわからぬが、神体は白い円形の皿に似たもの。両脇に鈷(三鈷)のようなものが置いてある。となりの小祠は、(前三者とは反対に)社殿に向く。中は小さな石が立っているだけで文字はない。これが「内方様」か? 社殿まうしろにさらに一基の小祠。しかし廃棄されている。社(境)内一般に、残された文字に明治以前のものはないようだ。またそれの年号は皇紀を用いる。日本武尊の由縁か。社屋赤いトタン葺きで、正面両側に榊を植える。また、石段を登ってすぐ左手に、何かしら祭場を感じさせる空地がある。周りに竹。本殿に棟札はない。社殿左手に「杉山社神饌幣帛供進指定記念碑」を立てる。昭和7年のもの。
 手洗、石灯籠、狛犬は「森田」の姓を持つ氏子の奉納したもの。紀元2543年と紀元2600年の年号が誌されている。2代ないし3代にわたるものか。
[図あり]
 社のすぐ下に「内田前」および川をへだてて「内田」の地名がある。あるいは「ウチカタ」と関わりを持つものか。「奈良」より流れ来た神体は、大和のナラではなく、この恩田川支流の上に隣接する現「奈良町」である。日本武尊の妃の意があるのかどうか知らない。注目したいのはそれが漂着神であるということだ。たとえば同じ杉山社集中地区である保土ヶ谷帷子川流域にある牛頭天王社の神体は、伝承によれば上流より流れ来たものである。牛頭天王とはいうまでもなくスサノヲノミコトに関係づけられたところの疫神(災厄祓徐としての意義を持つ)であり、土地土地に斎い込められて独自に村界を守るものとなっている。おそらく、同質の類推がこの「内方様」のうえに加えられたのだと思う。しかし、このふたつがともに「寄り神」であるという共通性のほかに「内方様」が女神であるという相違もあらわれている。あるいは杉山社殿左手の4小祠のうちたったひとつだけ内向きになっている形が、その間の事情を暗示しているのかも知れない。すなわち奥手2座ははっきりと別物であり、手前2座の大小の祠が「内方様」と認めうべきものであるが、1)大小逆接の形が、杉山社本殿に添うものと集落守護に向かうものとに分化しているのか、2)前面の小祠が「子神」としての位置を占めているのか、という問題である。ちなみに大きい方の祠が地蔵堂に酷似しているのも、女神としての「内方様」の性格を考え合わせてみるとき、興味深い。これが、「内方様」以後に建てられた地蔵堂であるとするのも、それほどわるくはない着想なのではないか? 土地の人に聞いてみたわけではないから、確定することはできない。ただ、ふたつともそれほど古くない造りであることからみて、奥手の2祠とは区別された信仰を持っているのであろう(もっとも奥の2祠も明治以前に溯るものではない)。


〇大熊杉山神社
畑のひらけた丘陵の真ん中に座す。神明造り。構造物は皆新しい。社殿左手に小祠、祭神不明。狛犬右に力石。「岩□/卯之助/大木□/仙太郎持之」の文字が見える。狛犬よりは古いものらしい。社殿は鶴見川支流大熊川に向いている。

〇勝田杉山神社
亜鉛葺き。坂の途中より石段あり。周囲竹多し。石段登って左手、アサガオと杉の稚木(竹で囲う)のあいだに石3つ、カガミモチのように重ねてあるのを祀る(?)。社殿左手に御嶽山の小祠。社殿扉、榊に、とりどりの折り鶴を糸で結んだものを数本吊す。なにかしら地蔵堂を思わせる(同じような光景を他の地蔵堂で見たから)。

〇茅ヶ崎杉山神社
長く急峻な石段の下に合祀記念の碑。「鎌倉殿勅願所」の文字が見える。大正年間。登って左手に「御神木旧地」の碑。社殿に新米3つかみばかり供えてある。境内敷地はほぼ円形をなす。長押の隅々に(折り)鶴を模した釘(?)をうつ。境内、戸倉英太郎氏の「歌碑」あり。

〇大棚杉山神社
本殿藁葺き。左手に廃祠あり。「第六天」の文字が見える。赤飯と榊の供え物。荒廃。

〇吉田杉山神社
本殿藁葺き。左手に天満宮の小祠。天保八年の銘あり。右手奥に廃祠か、石片あり。これも天保八年の銘。左手の稲荷社に五月人形数体、奉納されている。オツカハシメは雌雄のキツネ。雌ギツネは子を抱く、という奇妙なもの。境内は三方に降り口がある。本殿長押上部に奉納者の地区別記載あり。御霊谷、中里谷、北川谷、稲坂谷、など、「谷」をキイにした地名表示。なお、上述稲荷社に大棚社と同じく、榊に赤飯の供物。近隣の地蔵堂、馬頭観音その他にも同様の供物を見る。


 市街部における杉山神社
西区中央1-13-1
南区南太田町2-187
同宮元町3-48

県立図書館及び文化資料館 西区紅葉ヶ丘9 tel231-8635

[図書館蔵書より]

『武蔵の古社』(菱沼勇、有峰書店、1972)
〇吉田杉山社の近隣(小字名杉山)に浅間塚と呼ばれる古墳あり。周囲60m、高2m の円墳。森家の近く。→森家、氏子総代
〇吉田社本祠説―古墳・出土品等との関係から

『忘れられた神佛』(川口謙三、錦正社、1965)
〇葉山杉山神社
太平洋岸(北部)漁村における「あんば様」信仰
→常陸国阿波村の大杉大神が本宮
→杉木による「船」
下野・板荷(イタガ)のアンバ様(2006・3/14記)

『神奈川県民俗芸能誌』(永田衡吉、神奈川県教育委員会発行、1966)
〇雨乞い行事 港北区十日市場町石井根
「村の代表者二人が竹筒を持って大山石尊へ水をもらいに行く。途中、やすまずに帰り、村のお寺(宝袋寺)の釣鐘をおろして恩田川の岸へ持って行き、竹筒の水をこの釣鐘にかけて雨乞した。雨が降ると大山へお礼参りをした。」p95
〇同 川崎市王禅寺
「雨乞には上州の榛名まで行って、湖水の水を竹筒に入れ、神礼を受けて休まずに帰ってきた。」p96
〇十日市場町山谷・霧ヶ池の水替え雨乞
「山谷の奥にある霧ヶ池は、むかし暴風雨があって山崩れのため、俄かにできた池であるが、水の色が七色に変るという伝説がある。旱天がつづくと、この池の水を村人が替えてしまう。その夜、必ず雨が降るという。前項と同じ呪法である。→竜神いじめ」p10
〇港北区鉄町 鉄神社の獅子舞
「伝承/慶長の頃、上鉄村に疾病の流行したとき、「ながや」という屋号をもつ旧家が、東京南多摩郡稲城村是政から、悪疫退散の祈祷として移入したという。また、一説には埼玉県高麗村より伝えたという。厄払いのため、村家を舞い歩き、のち、神社で奉納し、ながやへ帰って獅子頭を倉に納めた。舞手は長男制で、多村へは絶対に出向かず、専ら村内の祓除に用いた。云々」p293

『横浜市史』
吾妻鏡 建久元年、承久3年の項→鎌倉御家人のうち、鴨志田、都筑、寺尾、奈良、江(荏)田、師岡、加世(瀬)、綱島等の姓→下級武士団
〇杉山神社について
「当時の民衆は小土豪を中心に谷(やと)ごとに一種の共同体を作って生活していたが、やがて土豪を通じて、一定の地域にわたる集団を作るようになると、各共同体の社は本来何を祭っていたにせよ、杉山社の名のもとに統一されたのではなかろうか。こうして成立した地域集団を指導するもっとも有力な土豪の祭る杉山社が自然に本社となり、式内社に列せられたのではなかろうか。そして指導者の勢力の消長・交替につれて、式内社がわからなくなったのだろう。とにかく、朝廷が式内社に列し位階を授けたのは、この集団ないし土豪の力を認め、それを律令制のわくのうちにとどめておこうとしたからであろう。」


〇六角橋杉山神社(杉山大神社) 1980・1・4
住宅に囲まれた高地に坐。
 由緒書
社名初出 元禄八年九月(名主文書)
社殿(増)改築 元禄十三年九月
        明治五年八月
        昭和四年十月
        昭和二十六年九月
社地拡張 宝永六年より漸次

ケヤキ古木1本、同朽木1本。社殿右手庚申塔3基。右から(右端右側)「奉供養為講中二世安楽」、(同左側)「宝暦九己卯十一月十四日」。中央「奉供養庚申/寛延元年戊艮十一月□」。(左端右側)「明和二乙酉元(天?無?)」、(同左側)「二月十五日」。
左側の祠に人形数体。稲荷1祠、傍に小廃祠。社殿左手奥に再建の碑ふたつ、明治期のものは表面大半剥落。

〇岸根杉山神社 1980・1・5
廃祠。山の頂上。西南に面す。石段及び狛犬(跡)を残す。狛犬台座、わりあいに手の込んだ彫刻がほどこされている。銘。右「當邨發願人岩田満作後見人岩田和助」。左「氏子中 世話人岩田吉兵衛/市川歳蔵 明治二十年亥四月造之 鶴見石工飯島吉六」。
社殿跡に瓦散乱。社殿跡からかなりの距離で西南に行ったところに鳥居、燈籠、石段がある。石段の石質、ツクリが同じものであることから、これが「杉山社」のものであることは疑いない。石段72級。鳥居「奉建立寛政八丙申十一月吉日」。石燈籠「寛政八□□十一月」(おそらく右に同じ)。同じ文字が2基に彫られている。手洗(意匠的にデフォルメされた書体で)「奉納手洗器」「寛政八/十一月吉」。横に力石? 鳥居には正月の注連縄が張ってある。と、すれば、「社殿」の有無とは別にそれは祀られていることになる。
 [岸根町杉山神社メモ]
 社殿にたどり着くまでに大変手間取った。「神社」はそれほどの径庭をふまなくても、遠くからでも認めうるものだ。集落に入ればまるで理路のようにその鎮守へと道はつけられている。また、その集落の裏側から入るものにとっては、社殿はつねに「いきなり」あらわれる。たどり着いた「杉山社」は廃されていた。それが、おそらく「手間取った」ということの理由を云いつくしている。地図のうえで、その位置を正確になぞったとしても、じっさいに、択ばれたある道をたどってその「社」にゆき着くことは、まったく別のことだ。ある集落の「関心」というほどのものが、その地の組織のうえに要約されていなければならない(たとえば私たちがめぐるとき、そういう「要約」に向きあうことはむしろ例外的であるとしても)。それは、道や住居の空間や耕作地にまつわる観念性を要約するものであると同時に、同じ道や集落や水田の現実を外部にさらして公約するものでもある。おおざっぱにいえば、その均衡がたもたれているときに「神社」への道はわりあいにあかるい。その均衡が破られてあるときに、「神社」への道はけものの通う通路となる。

〇鶴見神社
境内配祀
1)大鳥神社
2)三家(さんや)稲荷神社(勘兵衛稲荷)
「三家稲荷由来/昔、旧東海道鶴見川の畔に鶴見村字三軒家と呼ばれしところあり 古謡に鶴と亀との米まんじゅうとうたはれし鶴屋亀屋などの茶店ありていと風光明媚なる地として往還の人しばし足をとどめたり この地いつのころか守護神と祀られし稲荷社あり 祈願成就のこと験く旅人の信仰を集めたり 大正の末当境内に遷る俗に三家稲荷と称す」
[図あり]
3)中町稲荷(「文政十一戊子」の銘の鳥居あり)
4)関神社(杓文字多数奉納)
5)上町稲荷社

鳥居(東南)「宝暦十三癸未十一月吉祥日」
鳥居(西南)は新しいもの。

手洗石の天蓋に次の記銘
「谷川源八君以古稀之身獨自採刀成以堂以献於村社八坂杉山両者嗚呼其志可感其勇可称也而君深修冥福納物於神仏蓋不僅少也/明治三十年一月中旬/黒山鼎記」
手洗石の銘は「寛政十一己未正月吉日」とある。また「別當八世亮宣代」とある。

本殿床下、外側からは柵によって覆われていて良く判らないが、どうやら社殿の土台は岩石が積み上げられて出来ているらしい。黒ぼくの石(溶岩石)→裏側にある富士塚とも考え合わせて、富士ないし御嶽信仰等山岳信仰と習合しているらしい。(07年記)


以上ノート篇編集畢 07/05/08
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Jun 02, 2007

宗教・神話・詩論

杉山神社研究・考察篇


杉山神社群に関する一般的考察 1979年秋

*1
 鶴見川流域に点在する神社群のうち、とくに杉山神社の呼称をもつものが飛躍的に多いのは何故か。多摩の南より発した鶴見川は、中山町で恩田川、綱島で早淵川を併合して下流らしいおもむきを呈するようになる。杉山神社なるものは、この鶴見川、恩田川、早淵川の三川によって入り込まれた低い段丘のうえに濃密に分布している。地形図で見ると、この付近は多摩丘陵がようやく切れかかり、海に到るまで曖昧につづく沖積平野と交替する一帯であることがわかる。水田、またはその埋立地からなる平野部は、上記三川の流域として、長津田・鴨志田・荏田と、それぞれの触手をふかく丘陵部へとさし込んでいるのである。
*2
 むろん、この呼び名をもつ神社は、鶴見川本・支流域に限定されるのではない。やや南に平行して流れている保土ヶ谷の帷子川沿いに五社前後、また少しはなれて北に、川崎市末長の一社がみとめられる。さがせば、まだほかにみつけることが出来るかも知れない。しかし、ここで注目したいのは、鶴見川中流部における、スギヤマの集中である。昭文社発行の「港北・緑区全図」に記載されている神社名すべて七十三社、そのうちの二十一社を「杉山神社」が占めている。稲荷十、神明五、熊野・八幡各四、白山・諏訪・天満宮・住吉各二……といった数字と較べてみても、社名の一般性という点からみても、ある特異な感じをいだかざるを得ない。「杉山神社」は、また、菊名町には「菊名神社」があるというような固有名とは、当然性格を異にしている。あたりまえのことのようだが、少し注意しておきたい。
*3
 一地区に一神祇、というのが原則的なかたちであるかどうかわからない。しかし、同一地区に同じ名を持つ二社が並立することはない、というのは、この一帯にみるかぎり、ほぼ、共通している「型」のようだ(このばあい、一地区とは、地図に記載された「町」単位の境界線でかぎられた空間を〈指している〉。それは、行政区分としての概念を容れながら、何がそれを行政区分たらしめたか、という問題を暗示するふくざつな曲線を描いて、いま、私の眼のまえに静観されている。河川に沿って境界があったり、尾根に沿う境界があったり、街道によって突然分断されてゆく境界があったりする)。たとえば、熊野、八幡、神明――あるいは稲荷神社――等、ある程度の集中を示している神社は、この地域一帯に、地区ごとに同じ顔を合わせることもなく、遍く分布している。
*4
 杉山神社もその例外ではないが、たったひとつだけ杉山神社の二社併存の形がみとめられる。すなわち、港北区新羽町2571番地新羽村総鎮守および同3918番地(付近)北新羽村総鎮守の二社のそれである。前者の主な祭神は日本武尊、後者は大己貴尊を祀る。新羽の集落がもと新羽―北新羽という区分をゆるすような異なった地域の統合されたものであるのかどうかは知らない。ただ、当然、同様の改変が加えられているはずの他の地区にはこのような例は見られない。一地区一社もしくは異神複数社併存の原則がつらぬかれている(ただし稲荷はこれを例外とする。稲荷社として独立して存在するもののほか、家や、畑の片隅や、異なる神社・寺院の境内などにその小祠が祀られるといった、他の神社には見られない特殊性があるからである)。新羽における両杉山神社はきわめて近い距離にある。ふたつの地区とみとめるべき、目に見える要素――川を隔てているとか丘によってさえぎられているとか――は、とりたててみつけることができない。あるいは両者が掲げるところの「総鎮守」に何らかの意味があるのか。なぜならそれが社号以外にかんがえられる唯一の共通項であるから。祭神の違いによるのか。しかしこれはあまり意味をなさない。この地域の杉山神社をおおざっぱに、五十猛系と日本武系とにわけることができるとしても、神名はほとんど神社ごとに附会されたものであるといっても良いのである。
*5
 杉山神社を歩くことによって私は何を知りたいのか。私の関心は郷土史にはゆかない。それはたかだか「正史」の一残片に及んで焉む。私は「正史」をどうこう言挙げしようとしているのではない。ただ、「杉山神社」なるものが、きわめて歴史的な範疇を容れにくい存在であることを、却って痛感しているのである。少なくとも、鶴見川中流域における杉山社の濃密な分布を何らかの「事跡」に即して考えることはできない。
*6
 私は「杉山神社」を考えるにあたっての前提に若干の改変を加えるべきではないか?  さしあたって目安とすべき点を私は漠然と次のようなもののうえに措いていたようだ。まず区分図に見られる「杉山」の集中。これはとくに意図して探しだしたものではない。近隣の、しかし通常あまりなじみのない地区への散策をくわだて、実行するうちに、「杉山」のさいしょの二、三社がいつとはなしに記憶された。どこかしらで見た名前であると、今度は(「杉山」社が現存する各町名の私の中での混同も手伝って)区分地図をやや詳しく調べるうちに、そこに「杉山」の意外な集中を見出した。すでにほしいままの散歩とは別の途である。たんに記憶違いのように見えていた、それ自体は何ら偏奇なものを含んでいない「杉山」の社名の反覆が、じっさいに鶴見川水系というスケールをとって感知できる実数であることを知るに到った。ここまでは良い。むずかしいのはここからだ。私の知りたいと思うのはつぎのふたつに要約できる。いったいどんな理由がこの杉山の集中をもたらしているのか。そして「杉山」社とは何か。
*7
 このふたつの設問は、ありていにいって、「杉山」社相互のある共通項、というより「杉山」社一般としてのある同一性を前提する。つまりこの名を持つ社の存在するかぎりの地域は、特有の信仰圏であるのではないか、と。そしてその分布の形態のうちに、ある共通の(同一の)信仰の内実のようなものをさぐりうるのではないか。
*8
 そこに何らかの拠り所があるのか否かを問わない。私の躓きは信仰の共通を祭神のせんさくから推し量ろうとした、その姿勢にあった。それは却って「杉山」という社の無性格性とでもいうべきものを私に痛感させた。今、殆ど「杉山」の社に(特有の:後注)神事と認めうべきものはない。すなわちその実質は私(たち)の眼からはうばわれている。祭神の明記は多分に明治の改変の俤が濃い。しかしこれは、都市近郊の大部分の所謂「鎮守」様の実景であるはずだ。
*9
 さて、ここで確認しておきたいことは、「社名」の分布がある信仰の共通性をとりだしうる徴であるとしても、それが祭神問題と直ちにむすびつかないということだ。因果を問うならばむしろその逆であろう。祭神はあることの結果ではなく、ある操作の結果だろう。かつまた、イタケルならイタケルの神は、その動因たるべき源泉を失っている。今現在の、さしあたっての言明として、このことを挙げておく(むろんその例外たるべき多くの地方、小地域が存在している)。「杉山」は「杉山」だけで勝手に分布している。少なくとも私にはそう見える。
*10
 あるいはこう言っても良い。所謂「神道」的な知識のワク内では、とくに「杉山」のような生態をとる「信仰」の実相へは踏み込むことを得ないのである。よほどの僥倖でもないかぎり、祭神の属性や事跡などによって、ある「信仰」の理由を説明することは不可能にひとしい。むろん明治の制による改変を考慮に入れたとしても事情はかわらない。それ以前の「杉山」社に何らの変動も加えられなかったなどとは、とうてい考えられないのである。「杉山」社はいま、かつてそうであったように歴史的現存性のただ中にある。同じ理由によって、この社名の上古から現在に至る経緯をあるリニアーな観点に措きうるものと信ずることはできない。名は同じでも、社地の遷座があり、祭神の合理化があり、伝承の消長がある。『杉山神社考』の著者、戸倉英太郎氏はこれを惜しむかのような口ぶりである。たしかに惜しむに足るべきものはあった。しかしそれは「杉山」社の正統――延喜式神名帳記載するところの「杉山神社」の真の祭神を伝えうるもの――ではなく、俗伝として排斥された口碑であり、「土人」崇敬するところの異神である。
*11
 「杉山」社群のうちにわずかにみとめられるそれらの痕跡が、却ってある信仰の内実を窺わせているように思われる。この地域に独特のスギヤマの遍在は、私に「上古」を感じさせない。もっと直接にかかわってくるものは、原「杉山」社があるとして、そのいちはやい解体にともなうスギヤマの蔓延の印象であり、その背景として濃厚な「中世」の匂いである。
*12
 私は仮定する。群としての「杉山」社の背後には、疫神の思想が存在しているのではないか、と。かつまたそれは、鎌倉と関係づけられ流布されていた形跡がある。いわゆる源頼朝の七社弁天開設の俗伝であり、吉田および茅ヶ崎の両杉山神社における鎌倉権五郎景政、杉山左兵衛の御霊信仰にかかわるものである(吉田杉山社に近く、御霊という小地名があり、また杉山社奉斎地区には、たまたまなのか、牛頭天王や天神菅原道真を祀る小祠や碑が多い:後注)。
*13
 いわゆる「杉山神社奉斎地区」には、他の地区(武蔵・相模地方における)に比べて、固有に持っているフォークロアがきわめて少ない、といえるのではないか。この鶴見川水系は、神奈川県における、現存する伝説分布のきわめて希薄な地域であり、それは神事に関してもいうことができる。杉山社に就いてみつけることができる神事は、管見の及ぶところ、1)鶴見社田祭神事(明治初年に断絶している)、2)鉄社獅子舞(現存?)、3)茅ヶ崎・平尾・中里等の都筑住民による大国魂神社大祭への参画(伝承による=杉山大明神は府中大国魂神社、別名六所宮の六所の一)、といった程度である。――(あるいは十日市場地区に二例見出される雨乞いの行事もそれに加えてしかるべきか)。
*14
 しかるに諸杉山社は決して廃棄されたやしろではない。諸方に点在する「杉山さん」に対する土地の「信仰」は今でもわりあいに篤い。それが直ちに式内社であることから来る尊崇だとは、必ずしも云いきれないものがある。少なくとも榜示に掲げて式内社を明示しているのは大棚の一社だけである(昭和五十四年当時:後注)。おそらく杉山社相互には「本祠」問題が本家分家等の隠微な感情に帰着してゆくような意識の対立はあったかも知れないが、「本祠」問題に直結するあらわな争論は行われなかったはずである。地位の軽重はあると思う。しかし集中区域における杉山社群はそれぞれにパラレルな存在である。
*15
 本社・本宮があれば、それぞれの時代の趨勢によって、分霊・勧請ということが行われる。「杉山社」の場合、そういった経路に関しては、かなり異質なものがあったのではないか。集中区域における「杉山社」は、その殆どが、近くに遺物出土地ないし古墳遺跡のたぐいを有している。けだし熊野・白山・諏訪といった広域にわたる分布を示す「信仰」とは、かなりその内実を異にしていると考えられる。もし『杉山神社考』の著者にならってその本源をおもうとすれば、私は上古的なものからほとんど媒介を経ずに記載の水準にのぼってくることになる、この「杉山社」の在り方に、奇異の感を覚えずにいない。もし「杉山社」が、この地域における古来からの「産土神」の概念を表象するとしたなら、あまりにも即自的であるといっていい。他方、それが、熊野・白山・諏訪等の山岳系の信仰の具象性、対他的な意味での明示性と比較されるとき、ある種の空無、無性格性、と言ってわるければ、私たちに向かってあるきわめて抽象的な輪郭を避けがたく描いてしまう。都筑の住民は、いったいどういう理由があってこの「杉山社」を祀っていたのか。これが次にくる設問である。
*16
 通常(こう言って良ければ)、民俗学の部類に属するものは無時間的である。それは、歴史的な判断に対して、絶えざる抵抗の痕跡を諸方に示している。歴史的な時間に対する無時間的なものの現前、あるいはそれを核にした時間そのものの改竄が、ひとつの区域における信仰の具体性であるといって良い。「杉山社」の場合、それが無い、とは強弁しないが、それの形は鮮く、散乱し、統一を求めがたい。私は「杉山社」という名辞にこだわっているのかも知れない。しかし、諸方に散らばりながら近接する「杉山」という名辞が、いかなる兆候をも黙殺させるものであるともおもえない。そこに何らかの通底性は埋蔵されているのだ。きまじめに考えるならば、その通底性を証し尽くすほどの「中間項」が、現況を見るかぎり、まだ見出されない(逆に云えば、「杉山社」は「中間項」そのものであるのではないか。本祠・祭神究明とはまた別のことがらである)。
*17
 フォークロアにおける非―特異性が、古社の存続(?)とどう関係してくるか。
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宗教・神話・詩論

杉山神社研究・考察篇(承前)


*18
 「杉山社」に関係する記録は、あまり荒唐なものを含まない。事実かどうかということは別にして、それらは散文そのものである。ただしその別当寺の縁起等はまだつまびらかにしない。以下、年代誌のなかにときたま露出する「杉山社」及びその集中地区に関する記録を拾ってみる。

 承和五年(838)二月庚戌武蔵国都筑郡の杉山神社はその霊験をもって官幣を授けられた(続日本後紀)。その十年後の承和十五年(848)の五月には、それまで無位であった「枌(杉)山明神」に従五位下の位階が授けられた(同右書)。また延長五年(927)に成立した『延喜式』に「武蔵国都筑郡一座 小 杉山神社」の記載がみえている。『吾妻鏡』には杉山神社についての直接の記事はないが、建久元年(1189)および承久三年(1221)の項、源頼朝に扈従するいわゆる鎌倉御家人のうちに、鴨志田、都筑、寺尾、奈良、江田、師岡、加世、綱島等の姓がみとめられる。現在の杉山社集中地区における土豪の存在を暗示するものである。この間、諸杉山社の伝承に鎌倉との関係を言うものが多い。元暦二年(1185)に、宿願によって鎌倉殿(頼朝)よりの奉幣があったとするもの(茅ヶ崎社)。源頼朝が鎌倉幕府の開設に際し、鬼門にあたるこの地の「杉山社」を尊崇し、なお付近に新たに七社の分霊を設けたとするもの(西八朔社)。ほか類似の伝承が上谷本、蒔田の杉山社に残され、(歴史的には鎌倉時代以前の人物だが:後注)鎌倉権五郎景政の霊廟が吉田の杉山社に合祀される、といった具合である。これ以降になると「杉山社」に関する記録・口碑といったものはあまり存在していない。諸社に現存する石文等も、近世初頭以前に溯るものはない。ただし、記録ではないが、その間の事情の、ある一面をうかがわせるに足るものとして鶴見社の田遊神事の歌本、いわゆる「杉山神社神祷歌」がある。その他、茅ヶ崎社の伝承に、延文二年(1357)足利尊氏によって、その所領をことごとく没収せられたことが記されている(茅ヶ崎忌部氏系図)。
*19
次に各社について、年代の判明する史料を掲げてみる。ただし社伝のたぐいはこれに含まれない。

   吉田社
〇安永五年(1776)別当正福寺分限帳
「一、杉山大明神 久保田十左衛門殿御代官所 本地不動明王御丈壱尺 二童子六寸 立像 宮縦八尺 横五尺 社地木立東西三拾間 南北二拾五間」

 茅ヶ崎社
〇天文三年(1534)及び天正四年(1576)の棟札。武蔵国風土記記載。
「フルキ棟札二枚存セリソノ一面ニハ甲午奉造立杉山大明神砌天文三年九月十六日トシルシ裏面ノ文字ハ磨滅シテヨムヘカラスタヽ以悦衆生故長澤新左衛門尉源六大工直近丹六郎太郎四郎ナトノ数字ワツカニヨムヘシ又一枚ハ奉建杉山大明神御鳥居一間事大旦那領主深澤備後守同代官下山新介禰宜藤原朝臣金子惣右衛門尉秀長大工源太郎兵衛勝正天正四年丙子十一月廿一日トアリ…云々」
〇寛文十一年(1671)棟札。
表「十方諸神影現中我此道場如帝珠南無十六大菩薩南無八大竜王諸仏諸世者住於大神通諸願成就社安穏当所安全/奉造立杦(杉)山大明神宮倍増法楽所/南無十五童子 為悦衆生故無量神力如意満息災延命守護所南無廿八宿我身現神祇前頭面接足帰命礼(署名)別当自性院 両名主 □次兵衛 金子三右衛 子祇 北村玄番ママ 大工吉兵衛 小工七兵衛」
裏「寛文十一辛亥天九月十九日 武州都筑郡小机之内茅ヶ崎村/大阿間ママ梨法印快栄俊憲房 敬白 惣氏子」

 佐江戸社
〇武蔵風土記曰
「神体ハ束帯ノ像ニテ長サ一尺許彫刻モイトシツホクニシテ甚古物ノサマニ見エ勧請ノ年代ハ伝ヘサレト東漸寺ニ持伝フル慶長十八年(1613)再興ノ棟札アリ云々」

   西八朔社
〇武蔵風土記曰
「慶安年中社領ノ御朱印ヲ賜フ其文左ニノス/武蔵國都筑郡西八朔村極楽寺杉山明神社領同村之五石六斗事任先規寄附之訖全可収納并境内山林竹木諸役等免除如有来永不可有相違者也/慶安二年(1649)八月廿四日御朱印アリ」
〇王禅寺寺領取調書上帳 嘉永六年(1851)
「同郡西八朔村の内 王禅寺末/一、御朱印高五石六斗 朝岡三次郎知行所/但し杉山明神社領 同国同郡西八朔村/極楽寺」

   新羽社(北新羽ではないほうの)
〇手洗水盤  文化七年(1810)の銘
〇力石    一)安政二年(1855)三月
       二)嘉永六年(1853)秋

 樽社
〇武蔵風土記曰
「社内ニ棟札アリ其中ニ応永年中鰐口ヲ鋳シコトヲシルスコノ鰐口ハ故アツテ昔村民ノ方ヘアツケヲキシト云伝フルノミニテ今ハ在所サタカナラスカヽル古キ物ノアリシナレハ当社ヲ勧請セシモ定テ古キコトナルヘケレトモ社伝モ見エス且口碑ニ残ルコトサヘナケレハ今ヨリハタヽシカタシ因テ暫ク其棟札ヲ左ニアケテ後ノ考ヲマツ/杉山大明神 別当師岡村法華寺 応永十八辛卯年(1411)鰐口鋳之元禄六癸酉年(1693)当社建立応永十八卯年ヨリ元禄六酉年迄二百八十三年 酉四月」
〇石灯籠
「正徳四年(1714)四月吉日奉立杉山宮御宝前」の銘
〇手洗水盤
銘「天保十二年(1841)丑年七月吉」
〇石段
銘「弘化三年丙午(1846)八月吉日」

 青砥社
〇石塔四基
  一)二十三夜塔 明治四未年十一月建
二)堅牢地神  文政八酉年(1825)正月吉日
三)二十三夜塔 天保四巳年(1833)正月建之
四)馬頭観音  天保年間
*20
 これらは『杉山神社考』に記録されているもののうち、私が今までに歩きえた社にかぎって、『神社考』の記述を再録し、加えて私の若干の見聞を添えたものである。いずれにせよ、「杉山社」の性格(無性格といってもいいが)に関与するような異常なものは何も見出し得ない。そこには、伝承でも歴史でもない、刻々と朽ちてゆく「事実」の集積があるばかりのようにみえる。その中で『(新編)武蔵(国)風土記(稿)』載せるところの次のような棟札の文字は、いくぶんか注意を惹く。

  杉山大明神 別当師岡村
法華寺
応永十八辛卯年鰐口鋳之
元禄六癸酉年当社建立
応永十八卯年ヨリ元禄六酉年迄二百八十三年 酉四月

 もとより応永十八年に鋳造されたこの鰐口と、元禄六年に建立された社との間にどんな関係があるのか、これだけでは判らない。しかし鰐口がたんに古物であるという理由だけでは「二百八十三年」といった時間の経過が記されることはなかったはずである。すなわち、この鰐口が二百数十年の隔たりを持つ古物であるということではなく、新しい社の完成にあたり、応永十八年からの時間の連続性がこの鰐口によって新たに確認され、とくに記されたのだと思う。このことはまた別の想像へ私を赴かせる。「鰐口」からの紀年を数えるということは、社に属する伝承に、すでにかなりの危機がおとずれていた徴候とうけとるべきなのではないか。それがこの時期(1600年代)の杉山神社にとって、社殿を新築することとかならずしも矛盾していないことは、他の社に徴してみても、これを窺うことができる。武蔵風土記伝えるところの佐江戸社の項に「慶長十八年再興ノ棟札アリ」という記事が見え、同じく西八朔社の項にも、慶安三年の「御朱印」の文に「……社領同村之五石六斗事任先規寄附之訖全可収納」の文字が存在する。戦火がおさまり、共同体の秩序がようやく旧に復しつつあったときに、これら新社殿の造営があり、旧例の回復が行われた。武蔵風土記が樽社についていう「社伝モ見エス且口碑ニ残ルコトサヘナケレハ」といった事情は、元禄の時代にも今とたいして違わなかったようである。もし共同体の恢復ということがなかったら、この欠落は欠落として自覚される契機をうしなっていた。その意味で棟札に残された「二百八十三年」の文字は「杉山神社」にとって逆説的なメモワールといわれなければならない。
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宗教・神話・詩論

杉山神社研究・考察篇(承前)


*21
 ふたたび、ここでいくつかの原則的な問題をはっきりさせておきたい。まず、「何」をここで考察すべき「杉山社」とみなすのか。私はその本祠がどれであろうとなかろうと、なによりも「杉山社」をひとつの群として考える。あるいはこう言い換えてもよい。この狭い地域におびただしく散在する「杉山社」を、ある脈絡として考えたい、と。それゆえ、この地域で「杉山社」を名乗るものは、これをすべて、例外とか偶然の符合とかいう理由で排除することをしない。つぎに本祠問題だが、もとよりこれは『延喜式神名帳』および『続日本後紀』の合わせて三行足らずの記載にすべての重点を置いている。すなわち、現実の「杉山社」の根拠というよりは、「杉山社」に関する空想の拠点である色合いが強い。そこには「杉山社」が現今のありさまに到る過程への視角が欠けている。たとえ今に現存する史料(口碑も含めて)がほとんどなかったとしても、だ。私は「杉山社」の発生に関して、いわば「原杉山社」を想定することはできても、それは本祠のせんさくとは別の局面にあるものだと考える。さいごに、「杉山社」の信仰の対象は何か、あるいはどんな条件が「杉山社」をして、この地域に限り、かく特異に集中せしめたのか、という疑問である。「杉山社本祠」の神威を畏んで、とか、その霊験によって、とかいう理由は(特に杉山社分散の)答えとしての意味を持っていない。有力な産土神であるとする説明も同じである。それだけの理由なら、原杉山社の解体とともに(複数あるとしても杉山社自体は)消滅してしかるべきはずだ。神ではなく「宗教それ自体に向けられた祈り」(E・M・シオラン)がありえないように、神威畏き社という意義だけで諸杉山社の造営や経営が行われたとは思われない。そこには必ず土地の共同体に内在的に関わる何らかの要因があったに違いないのである。少なくとも「杉山」という社名を継続させ、集中・散開させるだけの条件が求められなければならない。
*22
[名辞論]
 以上は「杉山社」を私の考察の俎上におくための手続きのようなものである。ここで「杉山社」は、ある地域的な像をむすんで私たちの目の前にある。「杉山社」とは何かを問うとき、それと表裏して否応なく旧武蔵国西南の一地区が示されてくる。しかし、「杉山社」の真の地域性を問おうとするならば、逆に地域を超えた、より一般的なパースペクティブのもとに引き連れてゆく必要がある。そのためには他の地域に類似の社の形態があるかどうかを精査しなければならないが、そのまえにまず、「杉山」という社の「名辞」の性質を考えてみる。そのうえでなければ、他の類例と単純には比較できないものがあると私には思われるのである。「杉山社」の集中地区には、むろん、他の多くの社が存在している。いま、昭文社発行「港北・緑区分地図」(19500:1、昭和51年)によって拾い得たかぎりでの社名を仮に以下に示してみる。

計72社
 杉山21、稲荷10、神明5、熊野4、白山2、住吉2、諏訪2、天満宮2
 駒林、平川、権現、菊名、浅間、八杉、甲、太尾、雲、鉄、空造様各1
 淡島、山田、大石、王子、本郷、天土、日吉、剣、高尾山各1(ほか)
 
  註)この他、地図に鳥居印のみで社名の記載されていない社が多数存するが省略した。その多くは、神社境内に合祀されているような小祠であるが、なかには日枝神社と号する由緒ありげな祠も含まれている。また若干の杉山社も存するようだ。庚申塔のようなものまで算入するとその数はおびただしい。
*23
これらのうち、日吉、太尾、菊名、山田、本郷、平川、鉄(くろがね)は、現町名ないし旧村名に対応している(古くは何社であったか、とか、どんな神が合祀されてできあがったものか、とかいうことは捨象する)。いわば「対応名」とでも定義しうる一群である。その中には、社名にひきよせられて出来た町名か、逆に町名に因んでつけられた社名か、といったさまざまな差異があるにせよ、それらは必然的に「一社」というありようで各々の地区に散らばっている。稲荷、神明、熊野、八幡、白山、住吉、天満宮、諏訪等は、「通有名」とでも名づけうべき群である。これらは「一社」であるか「数社」にわたるものであるか、という区別があまり意味をなさない、より広域の信仰を示す社名であって、それ自体でひとつの内容ないし系統を喚起せしめるに足る、要するに関東では一般的な神々である(ここでも、その真の祭神は何であるとか、勧請される以前の祠は何何か、といった問題は、これを捨象する)。次に来るのは、駒林、八杉、剣、雲、甲(かぶと)、大石、高尾山、空造様のグループである。これらを「固有名」の社として定義する。この群の社は、やや特殊な印象を感知させるのであって、その社名は、a)数社にわたる通有名を持たず、b)それぞれに「一社」という形態をとりながら町村名の範疇からは独立しており、c)しかも何らかの信仰ないし関係を、「通有名」の社とはやや違った形で表現していると思われるのである。これを言い換えるならば、(信仰の内実に関する)前二群の透明性に対する不透明性、レヴィ=ストロースのひそみにならえば、前二群が「換喩」的な存在であるのに対して、この群は「隠喩」的な存在であるといってよいだろう。
後註)以下に直ちに述べるが、町名との「対応」があるとはいえ、鉄神社はあきらかに固有名と思われる。この場合では町名が神社名にひきよせられて成立したふしがある。また、ここでは対応名に挙げた天王社はこの地区において独特の信仰と複数・同タイプの伝承を持ち、あまつさえ保土ヶ谷区の町名の因ともなっているが、明治の制による淘汰以前の状況を考えると、むしろ稲荷や熊野と同様、通有名に入れられてしかるべきかと考える。さらに、空造様は虚空蔵菩薩のことであろうけれど、天王社の場合や、第六天が神祇として祀られているのと同じく、神仏分離令をきっかけとした廃仏毀釈運動以前の習合信仰の形を示すものと思われる。この地区の他にも存在することが予想され、ここでは固有名に入れるべきではないと思う。
*24
 ここでひとつの註を挿入させなければならない。要するに、対応名・通有名・固有名は互いに侵食し合う領域を持っているということだ。たとえば、通有名に挙げた白山、住吉等の社名は容易に町名に転化するものであり、逆に対応名に含ませている日吉は同じ理由の反対の側面からほとんど通有名といってよい。これは地名に付随する社名ではなく、社名に起因する「対応」である。他方ここで対応名に入れられている鉄の社は、むしろ固有名のうちに加えられてしかるべきかと思う。「対応」は存在しているが、上記の通有名の社と同じく、社名に起因する対応であり、しかもなお数社にわたる通有性を含んでいないからだ。何らかの特殊な信仰を印象させる点において、地図上に近接する一字名の固有名社、剣、雲、甲と同じ系列にあるものと推量される。さいごに付け加えておきたいことは、「固有名」の社でも若干の「対応」がみとめられるということである。それらは、ひとつの山、ひとつの川、または小地名に対応を持つ場合が多い。しかしこの関係は、前二群の対応が当該地区における信仰の「要約」といった性格を持つのに対し、むしろそれ自体で信仰があらわされている「場」にほかならない。ここでは対応そのものがひとつの現前であり、信仰の「対象」である。
*25
 さて、「杉山」社は上述三群のうちのいずれに加えられるべきであろうか。または、上述三群の関与がどのような形で「杉山」社の形態にあらわれているのか。結論を先にいってしまえば、私は「杉山」社の社名に「准固有」とでも名づけたい性格を感じる。それは大規模な通有性を持たず、かつまた明晰な対応の形をとってはいない。しかしそれはちいさくて濃い通有性と微弱な対応の形をともなっている(後者についていえば、現在それが地名対応であると認めうる確実な根拠はきわめて薄いと考えざるを得ず、一応社名対応で考えるのが妥当であると思う。いっぽう奉斎地区における「井田杉山町」(川崎市)の存在や、吉田社付近の「杉山」なる小字の存在は気になる。また「杉山」を普通名詞ととる見方と、固有名詞ととる見方とはリニアーには結びつけることが出来ないのであって、そこには深い時間の断絶が関与している。社名の由来ではなく、いわばその「現象」をまず追ってみなければならない)。
*26
 これを別面から見れば、現地名とはほとんど無縁であることによって「対応名」ではなく、その限定性によって「通有名」ではなく、また鶴見川水系周辺という割合に広いスケールで見られる数多の反復において「固有名」とはいいがたい。むろん、さらに巨きなスケールをとれば明白にひとつの「固有名」ではあるけれど。「名辞」としての「杉山」社はこれらの概念を峻拒するのではなく、いわば部分の合致を積み重ねていって、ついに「杉山」社以外の社名群が形成する一全体の内には取り込まれない。このような形態を特異であるとするなら、たとえば他の「固有名」社における個々の特殊性とはいくぶんか異なった観点からそのありようは問われなければならないだろう。もし、「原」杉山社を想定できるとして、それらがもと「一社」であるのならある時間の断絶や曲折そのものを問うことになるのであるし(それは、ほとんど〈不可能〉という言明にほかならない)、またその原初に複数を見なければならないのであれば、何故「杉山」という「一名辞」のもとにその集団が統べられたのか、という疑問を抱懐させられることになるのである。
後註)一字名の社はもと杉山社を号していたものが多いそうである。おそらく明治の制ばかりでなく戦後の節目にも多くの神社の統合合祀ということがおこなわれたことであろう(あるいは戦国乱世の時代にもそれに類した事態を想像することができる)。「節目」以前の江戸期や中世の農山村として、この都筑・橘樹・久良岐の地のことを考えると、神仏分離以前の習合的な、おびただしい神祇や権現、観音、地蔵などが満ち充ちていたミクロコスモスが目に浮かんで実感されてくる。そして港北ニュータウンでさえ過去のものになりつつあり、また新たにもう一本の地下鉄線が通じ、巨大ショッピングモールや高層マンションが陸続と「開業」している現在、「杉山神社奉斎地区」は、多分これで最後の・大規模な・決定的な、「節目」を迎えているのだと思う。

考察篇編集畢 07/05/02
Posted at 10:49 in sugiyama | WriteBacks (0) | Edit

杉山神社考

 杉山神社は主に鶴見川中流域に集中する。
Posted at 10:02 in sugiyama | WriteBacks (0) | Edit
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