Jun 25, 2007
宗教・神話・詩論
岸谷巷談 ―タブノキと杉山神この『操車場』誌上に参加されている坂井のぶこさんと関心は重なってしまうようだが、私の住する鶴見の岸谷という町について、とりわけてその植生およびフォークロアに属することどもについて、さまざまに浮かんだ思いを書いてみる。
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岸谷の町の地勢をいえば、まず急峻な高台と比較的に深く鋭い角度で丘陵部に切れ込んでいる谷々が挙げられる。海はほぼ真東に位置し、丘を下れば海までじつにあっけなく届いてしまう(現在は埋立地の彼方に海が退いているが)、猫の額のような生麦の平地がひらける。
ここの植生で特に目につくのはタブノキである。植物生態学の宮脇昭氏によれば都内でこのタブノキを含む本格的な森と言えるのは、浜離宮(タブノキが主木)と、白金の自然教育園(スダジイが主木)くらいしかないとのことだが、東京からほんの十数キロ南にずれたに過ぎないここ鶴見の地では、森と言うには遠く及ばないけれど、そこに一本あそこに三本と、確実な密度でタブノキの植生が見られるのである。そしてこれも宮脇氏の言うとおり、ほとんどが単独の樹木として生えているのではなく、生態系における一項として、すなわちシロダモ、アオキ、ヤツデ、ヤブツバキなどの下生えを伴った生態系の一全体として、息づいているといえるのである。ここが京浜工業地帯の埋立地を指呼の間に見る土地であることが、にわかには信じられない。
岸谷は住宅街なので、タブノキは古くからの家には庭木としてさえ生息しているし、わりあい大きめの樹冠を目印に行ってみると、小さな赤鳥居の奥に小さな祠が祀られていたりする。そういえば(主に)鶴見川水系には、四十数社まで数えられるところの杉山社なる神々がおわしますが、そのひとつのやしろがここ岸谷にもあって、さだめし濃密なタブノキ群があるだろうと境内を見回してもケヤキやサクラが見えるだけで、当初は気落ちしたものだ。だが、そこの舞殿の裏手に回ってみて息を呑んだ。丘の頂上にある神域の切り立った崖のきわに、岸谷のほかの場所では見たこともない大きさの、化け物のようなタブノキが一本、蹲っていたのだ。
やしろの由緒書にはタブノキのことは当然触れていないが、現在の舞殿の場所はかつて本殿があったところだそうで、そうすると、なるほど、岸谷杉山社の本義がどこいらへんに存するのか、一つの暗示が得られてくる。少なくともいまはお化けみたいに盤踞しているこのタブノキに、憑代(よりしろ)としての意義を否定することはむつかしいのではないか。ただし、岸谷の杉山社自体も幾度とも知れぬ遷座の結果、いまの場所に落ち着いているわけで、神というものはたびたび動くものであることが追認される。その場合何を憑代としたのか、そもそも憑代というフレームにとらわれていたのかどうか、いまは不明だ。けれども岸谷杉山の神が、タブノキからタブノキを飛び石のように伝って、現在の場所に鎮まっていると考えてみるのは、何となくたのしい。
ちなみに神社の丘から数百メートル離れた低地に岸谷公園というプール施設を有した公園がある。ここはプールのある古い公園がしばしばそうであるように、かつては池であったという。おもしろいのは昔ここが杉山神社の境外地(池?)であったということだ。神社から見て真北に当たるこの公園の入口に宮北という表札の家を見るが、このお宅は杉山社とは全然関係がないのであろうか。公園自体に、「池」の往事には必ずあったはずの、何かお祀りをした形跡というのはまったく残っていないようだ。
また、ここからそう遠くない、第二京浜のちょっとした切り通しのような崖に、岸谷の湧水として近隣には少しばかり名の知れた湧き水があるが、これは第二京浜を造るため丘を開削したところに湧いたものだそうで、その丘が岸谷杉山社の神職の持ち山だったという。湧水のちょうど反対側、分水嶺を越えた丘の反対側の中腹に、かつて滝坂不動という小さな滝を有する聖地(sacred place)があって、そこを代々管掌し、水行をおこなっていたのが小島という家だったそうだ。もとよりこの家が岸谷のやしろといかなる関係であったのかは知らない。関係はなかったのかもしれない。だが、杉山の神の本地と考えられていたのが、多く湧水や滝などに関係の深い、水の神の一面を持つ不動明王であったことと考え合わせ、特に岸谷のやしろにおいては、杉山神が水神であるという側面が色濃いのではなかろうか。そういえば、ほど遠からぬ港北区の大豆戸町にある八杉神社は、やはりこれも杉山神社の一で、同じ丘の近くに、竜の口から湧水を落とす小さな滝のしつらえを具えた、一宇の不動堂があったと記憶する。滝坂の不動にも同様のしつらえがあったのは、これは以前に私が確認している。
水といえば、巨大タブノキの崖を逆落としのように下った神社裏側のふもとに、一軒の銭湯があるけれど、その屋号を宮下湯という(岸谷や生麦には湯屋が実に多い。新しい住人や素封家を除いては、内風呂を使う習慣があまりないのがここでの古風なのだろう)。なんだか笑い話になってしまうが、宮北と宮下があるなら、あとの東西南の名辞を含む家名の体系を考えたくなってしまう。神話論ではよくお目にかかるミッシングリンクというやつだ。付け加えておくと、タブノキは海岸縁の小高い場所に主たる植生を有するが、いずれも真水の豊富な土壌・土地柄を好むそうだ。滝坂不動の丘にもむろんのことタブノキの植生は連続している。それにつけて、こんな南島歌謡(というより神話的叙事詩)があるのを思い出した。孫引きであることをお断りしておくが、水の暗示がここにもあるような気がする。
…………
しきぬ三月(みしき) 日ぬ百(むむ)日 なるけん
山ぬ中に 山の底(すく)に くまりょうり
しぃきや三月 日や百日 なりょたら
あまぬ水(みじい)、どぅきゃぬ雨(あみ) ふささぬ
川原たゆび 水たゆび ぬぶりょうり
上(あが)りよ立つ 白雲ぬどぅ 水やる
うはら立つ 生(ま)りぬり雲(ふむ)ぬどぅ 雨ややる
山ならし 川原ならし ふる雨
川原ぬばた 水ぬばた うすびょうり
ばぬとぅみる くりたなぐ 人(びとう)ぶらぬ
びしやみぶる うすびやぶる うちぃなが
かたみんや とぅむぬ木ぬ むやぶり
かたみんや まとぅ木ぬ むやぶり
…………
(波照間島の「ぱいさきよだじらば」より)
[訳]
(三ケ月のあいだ 百日になる長い月日
山の中に 山の底に こもった
三ケ月の間 百日になる 堪えがたさに
あまりの水 あまりの雨 欲しさに
川辺をたより みなもとをたよって 登り
あがり立つ白雲の 水となる
立ってくる叢雲が 雨となり 降ってくる
山鳴らし 川辺を鳴らし 降る雨
川辺の端 水の端 うちふして
私を求める この不遇の女を探す一人もいない
うちかがんで うち臥していたうちに
片目からは トモン木(タブ木)が生えてき
こちらの目からは マトム木が生えてくる)
『甦る詩学 南島集成』(藤井貞和著、まろうど社、2007年)に引かれたこの歌謡のあらすじは、藤井氏によるとこうなる。
シカサマと称する絶世の美女が、辺鄙な村に生まれた。古見に出て役人の賄い女となったが、その後は、多くの訪ねてくる男たちと交わり、海亀みたいに誰とでも寝る女だと悪い評判を立てられる。そこで女は堪えられず、山中に到り、籠り生活をしていたのが、水ほしさに川辺に来て、うち臥してしまう(死ぬ)。その片目と、もう一つの目とから木が生え、二本そろった立派な材木となったので、専門の技術者がそれをみつけて公用船や地船にしたてた。元馴染みの古見の役人がその船を利用される云々。(149頁)
豊饒な神話の香りを感ずるが、ここに垣間見られる「水」という要素に、杉山神のひとつの(見えざる)系を引き当ててみることは可能なような気がする。タブノキと真水という二項関係のほかに、杉山神と水という関係は次のことからも跡づけられる。すなわちその集中奉斎地区における特異的な民俗行事といえば、鶴見社の田祭り神事を除き、ほぼ雨乞いという一事に集約できるのである。この場合、大小の竜や大蛇のイメージを伴うようだ。それにしても、南島歌謡における「水」と杉山神の媒介項としてのタブノキは、媒介という点でいかにも微弱であり、また大元をいえば南島歌謡まで持ち出して、少々大仰になってしまったこと、忸怩たらざるを得ないけれども。
07年/6月 詩誌『操車場』第2号所収
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