Jun 08, 2007

宗教・神話・詩論

杉山神社研究


緒言


 ノート篇と編集篇からなる「杉山神社研究」は、2003年に灰皿町のさいしょのサイトとしてアップされたが、それは私が所持していた若年時の手帳の全ページを撮影した写真版としてであった。そこには杉山神社についてに留まらない、当時の私の備忘、出納、可成りといっていいが文芸的なものを意識した、日々の感想などがごった煮のように綴られている。当然杉山神社研究本編のほうも未整理状態のまま、しかも手書きのボールペン文字で書き殴られていることとて、読者にとってとてものことに親切とは言い難く、それどころかこのようなありさまで「読者」は存在するのかと疑われるほどであった。そこで、ことしやや心をあらためて、これを読む読者の便ならしむべく、印字と若干の整理とをおこなったという次第だ。

 長い間これに手をつけなかった理由は、その煩多をきらったことのほかにまた別にある。それは、私にとって杉山神社研究で考えたことがまだ終わってはおらず、杉山神社のノートを披くとき、いまだ未解決であることの一種の痛覚が依然として存在していたからである。それは具体的には、私が杉山神社のノートで記したことは全面的に間違っているのではないか、という疑義の形をとってあらわれた。これらの筆記はすべて無意味ではなかったのかと。ノートを印字することはすなわち、この問題に私をして直面せざることを得さしめないのである。
 ノートの当時、とりあえずのこととして3つの問題が未解決であり、ノート印字に際して、これへの目測が付かなければ作業を始めることが出来なかった。

1)本祀の問題をどう取り扱うか。
2)祭神の系譜をどう考えるか。
3)これらへの当面の答えとしての、疫神ないし御霊信仰はどこまで有効か。

 このなかで、本祀はどこであるのかのナゾトキは、現在私の興味を引くものではなくなっている。ノートのさいごのほうの時期でもすでにそうであった。あくまでも、主に鶴見川水系に集中するスギヤマという比較的限定されたディメンションにおいて、神話や神話的思考がどう展開しているのかが興味と関心の中心をなしてきた。これは格好の素材ではないか、という興奮に身はそぞろめいてきているというのが、偽らざるところである。私のなかでスギヤマを寝かせてきて、そして現在の問題意識とスギヤマという主題が結婚するに到ったのも、ひとえに30年という時間の重さだろう。
 祭神についてだが、柳田国男の『妹の力』中の次の言葉が私を勇気づける。越中射水郡の櫛田神社に伝わる大蛇と早乙女と櫛についての伝説を引いて、かく語られている。

「『神祇志料』にはもちろんこれをもって祭神奇稲田姫と考定しているが、御苦労でも何でもない。われわれの問題はいかにして神代の正語の中に、稲田といいクシという美しい女性の物語が伝わったかである。櫛はまことにクシであって、ただの日に稲田に立つ婦人の、一様に頭に挿し飾るべき器具ではなかったのである。」(日を招く話)

 杉山社の祭神がヤマトタケルとイタケルの2系統にほぼ統一されているのがどういう訳合いであるのかに深入りすることは、私を要らざる隘路に踏み迷わせた。「神道大辞典」に出ているようなあれこれから、すなわち祭神の性格から神話的意味を読み取り、しかるのちに諸杉山社のあれこれにそれを当てはめて、杉山神社とはこれこれだと言おうとしていたのである。そしてさいごには、記紀に出てくるような神々に、杉山社のそれを収斂させ体系づけてこと終れりとしたところで愕然とした。そこには「現実の杉山神社」がどこにもないではないか。
 ノートでも祭神穿鑿には否定的だったが、では祭神問題に対抗する思考はあるかとなると、なかなかにむつかしい。最近になってふと気づいたことがある。おびただしく生きてはたらいている「現実の神」に、果たして記紀に収斂するような名前など、本来あるのだろうかと。柳田の言うとおり、「現実の神々」の残片が神代の正語に保存せられてあるわけで、杉山社集中奉斎地区である草深い武蔵の一隅においてその逆は考えにくいと思う。
 事実武蔵の大社である大国魂神社(一名六所宮)は、武蔵の6坐の神を祀っていて、その1坐に杉山神社があるが、祀られている祭神の名は「杉山大神」であるにすぎず、何々のミコトではないことは、畿内のやしろとは大きくその性格を異にしている武蔵ないし東国諸社の、一般的な傾向でもあるだろう。文献上にあらわれた杉山神社の初出は中世の『神道集』だそうで、垂迹身は杉山大明神、本地は大聖不動明王とある。神の名は、と聞かれれば、そこの神職でもないかぎり、杉山大明神と答えるよりのほかはなかったと思う。
 祭神問題に関して、対抗的に出てきたのが疫神・御霊思想である。これはじっさいの現地踏破、まあフィールドワークと言っては大笑いされるようなお粗末なものながら、現地の空気を吸うことで気づいたことである。もとより仮説に過ぎないが、神道関連の書物から系図やら系譜やらを追尋したすえの結論よりは、それが色んなフィジカルな物証と、何よりも具体的な「現地の空気」の感触をともなうものだけに、机上であれこれ考える祭神問題の徒労感からやや解放される思いがしたことも事実である。この当時の現地における、具体的な感触に根ざした(疫神・御霊思想という)提起は、対抗的なだけではないような気もしている。あるいは、本地・不動明王というのも、何かのヒントかも知れない。
 この提起は神様は何々ということで片のつくことではなく、また杉山社だけに収斂されるものでもない。何かもっと別のものに結びつく可能性がある、媒介や中間項のような予感がする。さいしょにも述べたが、これらから神話論的な何ごとかの展開が見られるかもしれない。少し息の長い探索になるかも知れない。

 今回も、このブログのような形の容れ物を用意していただいた、清水鱗造さんに感謝したい。またさいしょの写真版を作っていただいた長尾高弘氏にも、当然のことながら大きな謝意を表したい。長尾氏は、まさに杉山神社集中奉斎地区のまんなかに住しておられるのである。

2007年6月7日 倉田良成
 
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