Jun 03, 2007
宗教・神話・詩論
杉山神社研究・ノート篇(承前)〇樽町杉山神社
トタン葺き。
道沿いの榜示より50メートルほどの所に鳥居、石製、棟札なし。それより20メートルばかり奥まったところに石段、16級、小高くなって社殿鎮座。丘の麓。今は(扁)額なし。石段の上、左に燈籠1基(右手には現存せず)。頭部(火袋等)おそらくは後に補修されたものである。銘(右から)「正徳四□□歳樽村/奉立杉山宮御宝前/四月吉日忽氏子」。右手に手洗石。銘(右面)「石工□□/飯嶋吉/天保十二丑年七月吉」、(左面)「願主當邑重右衛門忰/麻布廣尾町/萬屋金蔵/同銀蔵」。石段下、銘(右)「弘化三年丙午八月吉日」、(左)「氏子中」。他に碑、小祠のたぐいなし。
[杉山神社考抜粋]
1)武蔵六所宮(大国魂神社)との関係
`猿渡氏 武蔵六所宮大宮司
産土神としての杉山社→盛章・容盛父子の杉山社研究 p8~9
`六所宮大祭への都筑村民の参画 p10
`「奉斎概便」より
茅ヶ崎杉山神社に伝承される「年中行事」の文書(「文和元年」=1352=とある) の末尾に「武蔵国一之宮岩井氏之蔵書写 吉川惟足」の文字がある。→猿渡氏文書(現在の神奈川区と旭区の境あたりに沢渡[さわたり]という小地名かつてあり)
安房忌部との関係→茅ヶ崎社伝承
`平尾杉山神社 名主をはじめとする村民の六所宮神事への参画。高張提灯。発生年代不明。
`p107(神名帳考証)
「『地考』古呂玖宮江府赤坂ニアリ氷川明神ト称ス。或曰都筑郡ノ内小机村ニアリ杉山明神ト称ス。或吉田村ニアリ。」云々。
2)「俗説」拾遺
〇吉田杉山神社項p22
「(前略)神体ハ木ノ立像長一尺八寸ハカリ権五郎景政ヲ祭リシモノニテ太刀弓箭ヲ帯セシ像ナリ其傍ニ古キ木像ヲ安置セリ土人ハ八幡ノ神体ナリトイヘト本地弥陀ノ像ナルニヤ虫喰テ定カナラス」(武蔵風土記)
〇茅ヶ崎杉山神社項p31
「三、前掲神前榜示の内『武蔵志云』とあるは、武蔵志料に『杉山大明神は稲毛領の内所々々に此の社がある。祭神は未詳、土俗伝えて鎌倉の杉山左兵衛の霊なりという。』と載するものを引用したのか。」(本文より)→「武蔵志云在茅ヶ崎村世謂之杉山大明神云云相伝言鎌倉杉山氏之祖霊也云云」(榜示、天保四巳四月)
〇大棚杉山神社項p43
「天正文禄両有地図従彼東至鵜目有連山之峰亦北野之荒原古道凹形称鎌倉街道富出古瓦…」(栗原恵吉社碑案文嘉永四年)
〇西八朔杉山神社項
「(前略)よくよく問ひ尋ぬるに、もとは今の社地より凡三町ばかり西北の方に鎮座ましまして、其跡を今に大明神山といふ。また廿町ばかり東の方、小山村の内に鳥居土といふ小地名ありて、むかし此神社の一の鳥居たてるよし、里人は語り継ぎといへり。」(「総社伝記考証」より)
「源頼朝が鎌倉幕府を開くとき、当社を国土の守護神として厚く崇尊し、尚附近に杉山社の分霊を新たに七社奉祀した。(略)徳川氏は五石六斗の朱印地を奉った。(戸倉意見)源頼朝が鎌倉の鬼門よけの為に、七杉山社を置くと云うは俗伝であろう。」
「西八朔には神社にちなむ沢山の地名が残っている。即ち杉山社の旧地は大明神山で、其の下に腰まき、坊の下、東に警固場山、隼人谷、七瀬、神輿、仙学坊あり、いなご原、向原、大原、社人坊、大門跡、斎戒坂などの地名が上げられている。」
〇上谷本杉山神社項
「社伝によれば、国土守護のため源頼朝が造営したものと云う。」→江戸期における領主(渡辺氏)の保護。
〇恩田杉山神社項p57
「付近一帯石器散布地という。」
「境内社に内方様というのがある。神体は何時の頃にか、奈良より流れきたのを祀るものである。内方様の称は日本武尊の妃という意か。恩田村は日本武尊好きな村と見え、神鳥前川(しとどまえかわ)社に武尊及橘姫を祀っている。」
〇新羽杉山神社項p57~58
イ)二又大根の紋章→性的なメタファー(北新羽は三ツ葉)
ロ)奉納された自然石2つ
ハ)「杉山社 除地一段字三谷アリ又此辺ヲ八朔堂トモイヘリ神体ハ木ノ立像長一尺許其形菅神ノ像ニ似タリサレト近来ノ作ニシテ昔本地ト号セシハ石像ノ不動ニテ云々」(「武蔵風土記」より)
〇鶴見(杉山)神社項
牛頭天王相殿
〇六角橋杉山神社項
六角橋は日本武尊への饗応時、この地の久応というもの六角の箸を賜ったという口碑に由来。
〇久本杉山神社項p84
「この社へ触穢の者詣づれば必ず災ありとて、土人甚だ恐怖せり。」(「江戸名所図会」より)
〇戸部杉山神社項p85
「此の社は白鳳三年の勧請というも明らかでない。元社頭に一基の古墳があった。古老の語るところによると、昔此の社の大祭の日、神輿渡御を行った。しかるに此の古墳の前に到ると神輿が動かなくなった。故に神震を畏みて其の神輿を墳丘中に埋め納め、其の後は此の古墳を神社と同様に崇敬したという。」(「横浜市史稿」より)
〇蒔田杉山神社項p87
「此の社は承元三年当地無量寺の貞暁法師が、鎌倉の鬼門鎮護のため、伊豆土肥の杉山より勧請した七社弁天の一つである。」(「無量寺由緒」によるものか)
〇成瀬杉山神社項p88
祭神 五十猛命(明治初年以前は玉大猛命)
相殿 天照大神 熊野三郎
「神体ハ唐冠ヲ戴キ笏ヲ持チ立ル木像ナリ長七寸ハカリ云々」(「武蔵風土記」より)
〇杉山「タケル」神の本地に擬せられるものが多く不動であること
「武蔵風土記は(杉山神社の)祭神を記することは以上のように僅少であったが、本地仏については多く記している。同書に本地仏の明らかなるもの二十六社、内不動明王が二十二社で、薬師如来二社、釈迦如来と十一面観音菩薩とが各一社である。」p112
「往昔江戸の目黒に一堂があって荒人神として日本武尊をまつっていた。大同年間慈覚大師が此の地に来た時、里人の乞いによって日本武尊の尊像を彫刻して其の堂に安置した。それが名高き目黒不動の本尊である。慈覚の刻んだ像は、日本武尊が駿河焼津の野火の御難の姿で、左手に猟犬の切縄、右手に叢雲の剣を抜持ち、渦巻く火炎の中に立つ像であるから、其のままそっくり不動明王と同じである、と『江戸砂子』に見える。」p113
〇天王社との関係
「ちなみに杉山神社奉斎地区内には昔十指をこえる天王社があった。其の内保土ヶ谷帷子の牛頭天王社(現称橘樹神社)について武蔵風土記に次の記事がある。/相伝フ当社ノ神体ハモト仏向村ノ内宝寺ト号スル寺ニアリシモノナリシカ戦争ノ間破却セラレシ頃此神体帷子川ヘ入テ流レ来リシヲ其辺ノ百姓等三人ニテ取アケ今ノ所ヘ社ヲ造リマツレリト此ニヨリテ今モ社修造ノ後遷坐ノタヒコトニ彼三人ノ子孫進退セリト云」p122
〇恩田杉山神社
石製の鳥居に「杉山社」の文字のある扁額をかける。急峻ではないが、長い石段を登ると社地がひらける。まわりに杉林のある簡浄な境内。社殿右手に舞台と納屋、やや奥まった左手に小祠4座。[図あり]奥の二つは非常に小さなもので、一つは石の扉が壊されて「日枝神社」と記された木片がのぞく。手前の大きなもの(の方)は地蔵堂に似る。暗くてよくわからぬが、神体は白い円形の皿に似たもの。両脇に鈷(三鈷)のようなものが置いてある。となりの小祠は、(前三者とは反対に)社殿に向く。中は小さな石が立っているだけで文字はない。これが「内方様」か? 社殿まうしろにさらに一基の小祠。しかし廃棄されている。社(境)内一般に、残された文字に明治以前のものはないようだ。またそれの年号は皇紀を用いる。日本武尊の由縁か。社屋赤いトタン葺きで、正面両側に榊を植える。また、石段を登ってすぐ左手に、何かしら祭場を感じさせる空地がある。周りに竹。本殿に棟札はない。社殿左手に「杉山社神饌幣帛供進指定記念碑」を立てる。昭和7年のもの。
手洗、石灯籠、狛犬は「森田」の姓を持つ氏子の奉納したもの。紀元2543年と紀元2600年の年号が誌されている。2代ないし3代にわたるものか。
[図あり]
社のすぐ下に「内田前」および川をへだてて「内田」の地名がある。あるいは「ウチカタ」と関わりを持つものか。「奈良」より流れ来た神体は、大和のナラではなく、この恩田川支流の上に隣接する現「奈良町」である。日本武尊の妃の意があるのかどうか知らない。注目したいのはそれが漂着神であるということだ。たとえば同じ杉山社集中地区である保土ヶ谷帷子川流域にある牛頭天王社の神体は、伝承によれば上流より流れ来たものである。牛頭天王とはいうまでもなくスサノヲノミコトに関係づけられたところの疫神(災厄祓徐としての意義を持つ)であり、土地土地に斎い込められて独自に村界を守るものとなっている。おそらく、同質の類推がこの「内方様」のうえに加えられたのだと思う。しかし、このふたつがともに「寄り神」であるという共通性のほかに「内方様」が女神であるという相違もあらわれている。あるいは杉山社殿左手の4小祠のうちたったひとつだけ内向きになっている形が、その間の事情を暗示しているのかも知れない。すなわち奥手2座ははっきりと別物であり、手前2座の大小の祠が「内方様」と認めうべきものであるが、1)大小逆接の形が、杉山社本殿に添うものと集落守護に向かうものとに分化しているのか、2)前面の小祠が「子神」としての位置を占めているのか、という問題である。ちなみに大きい方の祠が地蔵堂に酷似しているのも、女神としての「内方様」の性格を考え合わせてみるとき、興味深い。これが、「内方様」以後に建てられた地蔵堂であるとするのも、それほどわるくはない着想なのではないか? 土地の人に聞いてみたわけではないから、確定することはできない。ただ、ふたつともそれほど古くない造りであることからみて、奥手の2祠とは区別された信仰を持っているのであろう(もっとも奥の2祠も明治以前に溯るものではない)。
〇大熊杉山神社
畑のひらけた丘陵の真ん中に座す。神明造り。構造物は皆新しい。社殿左手に小祠、祭神不明。狛犬右に力石。「岩□/卯之助/大木□/仙太郎持之」の文字が見える。狛犬よりは古いものらしい。社殿は鶴見川支流大熊川に向いている。
〇勝田杉山神社
亜鉛葺き。坂の途中より石段あり。周囲竹多し。石段登って左手、アサガオと杉の稚木(竹で囲う)のあいだに石3つ、カガミモチのように重ねてあるのを祀る(?)。社殿左手に御嶽山の小祠。社殿扉、榊に、とりどりの折り鶴を糸で結んだものを数本吊す。なにかしら地蔵堂を思わせる(同じような光景を他の地蔵堂で見たから)。
〇茅ヶ崎杉山神社
長く急峻な石段の下に合祀記念の碑。「鎌倉殿勅願所」の文字が見える。大正年間。登って左手に「御神木旧地」の碑。社殿に新米3つかみばかり供えてある。境内敷地はほぼ円形をなす。長押の隅々に(折り)鶴を模した釘(?)をうつ。境内、戸倉英太郎氏の「歌碑」あり。
〇大棚杉山神社
本殿藁葺き。左手に廃祠あり。「第六天」の文字が見える。赤飯と榊の供え物。荒廃。
〇吉田杉山神社
本殿藁葺き。左手に天満宮の小祠。天保八年の銘あり。右手奥に廃祠か、石片あり。これも天保八年の銘。左手の稲荷社に五月人形数体、奉納されている。オツカハシメは雌雄のキツネ。雌ギツネは子を抱く、という奇妙なもの。境内は三方に降り口がある。本殿長押上部に奉納者の地区別記載あり。御霊谷、中里谷、北川谷、稲坂谷、など、「谷」をキイにした地名表示。なお、上述稲荷社に大棚社と同じく、榊に赤飯の供物。近隣の地蔵堂、馬頭観音その他にも同様の供物を見る。
市街部における杉山神社
西区中央1-13-1
南区南太田町2-187
同宮元町3-48
県立図書館及び文化資料館 西区紅葉ヶ丘9 tel231-8635
[図書館蔵書より]
『武蔵の古社』(菱沼勇、有峰書店、1972)
〇吉田杉山社の近隣(小字名杉山)に浅間塚と呼ばれる古墳あり。周囲60m、高2m の円墳。森家の近く。→森家、氏子総代
〇吉田社本祠説―古墳・出土品等との関係から
『忘れられた神佛』(川口謙三、錦正社、1965)
〇葉山杉山神社
太平洋岸(北部)漁村における「あんば様」信仰
→常陸国阿波村の大杉大神が本宮
→杉木による「船」
下野・板荷(イタガ)のアンバ様(2006・3/14記)
『神奈川県民俗芸能誌』(永田衡吉、神奈川県教育委員会発行、1966)
〇雨乞い行事 港北区十日市場町石井根
「村の代表者二人が竹筒を持って大山石尊へ水をもらいに行く。途中、やすまずに帰り、村のお寺(宝袋寺)の釣鐘をおろして恩田川の岸へ持って行き、竹筒の水をこの釣鐘にかけて雨乞した。雨が降ると大山へお礼参りをした。」p95
〇同 川崎市王禅寺
「雨乞には上州の榛名まで行って、湖水の水を竹筒に入れ、神礼を受けて休まずに帰ってきた。」p96
〇十日市場町山谷・霧ヶ池の水替え雨乞
「山谷の奥にある霧ヶ池は、むかし暴風雨があって山崩れのため、俄かにできた池であるが、水の色が七色に変るという伝説がある。旱天がつづくと、この池の水を村人が替えてしまう。その夜、必ず雨が降るという。前項と同じ呪法である。→竜神いじめ」p10
〇港北区鉄町 鉄神社の獅子舞
「伝承/慶長の頃、上鉄村に疾病の流行したとき、「ながや」という屋号をもつ旧家が、東京南多摩郡稲城村是政から、悪疫退散の祈祷として移入したという。また、一説には埼玉県高麗村より伝えたという。厄払いのため、村家を舞い歩き、のち、神社で奉納し、ながやへ帰って獅子頭を倉に納めた。舞手は長男制で、多村へは絶対に出向かず、専ら村内の祓除に用いた。云々」p293
『横浜市史』
吾妻鏡 建久元年、承久3年の項→鎌倉御家人のうち、鴨志田、都筑、寺尾、奈良、江(荏)田、師岡、加世(瀬)、綱島等の姓→下級武士団
〇杉山神社について
「当時の民衆は小土豪を中心に谷(やと)ごとに一種の共同体を作って生活していたが、やがて土豪を通じて、一定の地域にわたる集団を作るようになると、各共同体の社は本来何を祭っていたにせよ、杉山社の名のもとに統一されたのではなかろうか。こうして成立した地域集団を指導するもっとも有力な土豪の祭る杉山社が自然に本社となり、式内社に列せられたのではなかろうか。そして指導者の勢力の消長・交替につれて、式内社がわからなくなったのだろう。とにかく、朝廷が式内社に列し位階を授けたのは、この集団ないし土豪の力を認め、それを律令制のわくのうちにとどめておこうとしたからであろう。」
〇六角橋杉山神社(杉山大神社) 1980・1・4
住宅に囲まれた高地に坐。
由緒書
社名初出 元禄八年九月(名主文書)
社殿(増)改築 元禄十三年九月
明治五年八月
昭和四年十月
昭和二十六年九月
社地拡張 宝永六年より漸次
ケヤキ古木1本、同朽木1本。社殿右手庚申塔3基。右から(右端右側)「奉供養為講中二世安楽」、(同左側)「宝暦九己卯十一月十四日」。中央「奉供養庚申/寛延元年戊艮十一月□」。(左端右側)「明和二乙酉元(天?無?)」、(同左側)「二月十五日」。
左側の祠に人形数体。稲荷1祠、傍に小廃祠。社殿左手奥に再建の碑ふたつ、明治期のものは表面大半剥落。
〇岸根杉山神社 1980・1・5
廃祠。山の頂上。西南に面す。石段及び狛犬(跡)を残す。狛犬台座、わりあいに手の込んだ彫刻がほどこされている。銘。右「當邨發願人岩田満作後見人岩田和助」。左「氏子中 世話人岩田吉兵衛/市川歳蔵 明治二十年亥四月造之 鶴見石工飯島吉六」。
社殿跡に瓦散乱。社殿跡からかなりの距離で西南に行ったところに鳥居、燈籠、石段がある。石段の石質、ツクリが同じものであることから、これが「杉山社」のものであることは疑いない。石段72級。鳥居「奉建立寛政八丙申十一月吉日」。石燈籠「寛政八□□十一月」(おそらく右に同じ)。同じ文字が2基に彫られている。手洗(意匠的にデフォルメされた書体で)「奉納手洗器」「寛政八/十一月吉」。横に力石? 鳥居には正月の注連縄が張ってある。と、すれば、「社殿」の有無とは別にそれは祀られていることになる。
[岸根町杉山神社メモ]
社殿にたどり着くまでに大変手間取った。「神社」はそれほどの径庭をふまなくても、遠くからでも認めうるものだ。集落に入ればまるで理路のようにその鎮守へと道はつけられている。また、その集落の裏側から入るものにとっては、社殿はつねに「いきなり」あらわれる。たどり着いた「杉山社」は廃されていた。それが、おそらく「手間取った」ということの理由を云いつくしている。地図のうえで、その位置を正確になぞったとしても、じっさいに、択ばれたある道をたどってその「社」にゆき着くことは、まったく別のことだ。ある集落の「関心」というほどのものが、その地の組織のうえに要約されていなければならない(たとえば私たちがめぐるとき、そういう「要約」に向きあうことはむしろ例外的であるとしても)。それは、道や住居の空間や耕作地にまつわる観念性を要約するものであると同時に、同じ道や集落や水田の現実を外部にさらして公約するものでもある。おおざっぱにいえば、その均衡がたもたれているときに「神社」への道はわりあいにあかるい。その均衡が破られてあるときに、「神社」への道はけものの通う通路となる。
〇鶴見神社
境内配祀
1)大鳥神社
2)三家(さんや)稲荷神社(勘兵衛稲荷)
「三家稲荷由来/昔、旧東海道鶴見川の畔に鶴見村字三軒家と呼ばれしところあり 古謡に鶴と亀との米まんじゅうとうたはれし鶴屋亀屋などの茶店ありていと風光明媚なる地として往還の人しばし足をとどめたり この地いつのころか守護神と祀られし稲荷社あり 祈願成就のこと験く旅人の信仰を集めたり 大正の末当境内に遷る俗に三家稲荷と称す」
[図あり]
3)中町稲荷(「文政十一戊子」の銘の鳥居あり)
4)関神社(杓文字多数奉納)
5)上町稲荷社
鳥居(東南)「宝暦十三癸未十一月吉祥日」
鳥居(西南)は新しいもの。
手洗石の天蓋に次の記銘
「谷川源八君以古稀之身獨自採刀成以堂以献於村社八坂杉山両者嗚呼其志可感其勇可称也而君深修冥福納物於神仏蓋不僅少也/明治三十年一月中旬/黒山鼎記」
手洗石の銘は「寛政十一己未正月吉日」とある。また「別當八世亮宣代」とある。
本殿床下、外側からは柵によって覆われていて良く判らないが、どうやら社殿の土台は岩石が積み上げられて出来ているらしい。黒ぼくの石(溶岩石)→裏側にある富士塚とも考え合わせて、富士ないし御嶽信仰等山岳信仰と習合しているらしい。(07年記)
以上ノート篇編集畢 07/05/08
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