Jun 02, 2007
宗教・神話・詩論
杉山神社研究・考察篇杉山神社群に関する一般的考察 1979年秋
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鶴見川流域に点在する神社群のうち、とくに杉山神社の呼称をもつものが飛躍的に多いのは何故か。多摩の南より発した鶴見川は、中山町で恩田川、綱島で早淵川を併合して下流らしいおもむきを呈するようになる。杉山神社なるものは、この鶴見川、恩田川、早淵川の三川によって入り込まれた低い段丘のうえに濃密に分布している。地形図で見ると、この付近は多摩丘陵がようやく切れかかり、海に到るまで曖昧につづく沖積平野と交替する一帯であることがわかる。水田、またはその埋立地からなる平野部は、上記三川の流域として、長津田・鴨志田・荏田と、それぞれの触手をふかく丘陵部へとさし込んでいるのである。
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むろん、この呼び名をもつ神社は、鶴見川本・支流域に限定されるのではない。やや南に平行して流れている保土ヶ谷の帷子川沿いに五社前後、また少しはなれて北に、川崎市末長の一社がみとめられる。さがせば、まだほかにみつけることが出来るかも知れない。しかし、ここで注目したいのは、鶴見川中流部における、スギヤマの集中である。昭文社発行の「港北・緑区全図」に記載されている神社名すべて七十三社、そのうちの二十一社を「杉山神社」が占めている。稲荷十、神明五、熊野・八幡各四、白山・諏訪・天満宮・住吉各二……といった数字と較べてみても、社名の一般性という点からみても、ある特異な感じをいだかざるを得ない。「杉山神社」は、また、菊名町には「菊名神社」があるというような固有名とは、当然性格を異にしている。あたりまえのことのようだが、少し注意しておきたい。
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一地区に一神祇、というのが原則的なかたちであるかどうかわからない。しかし、同一地区に同じ名を持つ二社が並立することはない、というのは、この一帯にみるかぎり、ほぼ、共通している「型」のようだ(このばあい、一地区とは、地図に記載された「町」単位の境界線でかぎられた空間を〈指している〉。それは、行政区分としての概念を容れながら、何がそれを行政区分たらしめたか、という問題を暗示するふくざつな曲線を描いて、いま、私の眼のまえに静観されている。河川に沿って境界があったり、尾根に沿う境界があったり、街道によって突然分断されてゆく境界があったりする)。たとえば、熊野、八幡、神明――あるいは稲荷神社――等、ある程度の集中を示している神社は、この地域一帯に、地区ごとに同じ顔を合わせることもなく、遍く分布している。
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杉山神社もその例外ではないが、たったひとつだけ杉山神社の二社併存の形がみとめられる。すなわち、港北区新羽町2571番地新羽村総鎮守および同3918番地(付近)北新羽村総鎮守の二社のそれである。前者の主な祭神は日本武尊、後者は大己貴尊を祀る。新羽の集落がもと新羽―北新羽という区分をゆるすような異なった地域の統合されたものであるのかどうかは知らない。ただ、当然、同様の改変が加えられているはずの他の地区にはこのような例は見られない。一地区一社もしくは異神複数社併存の原則がつらぬかれている(ただし稲荷はこれを例外とする。稲荷社として独立して存在するもののほか、家や、畑の片隅や、異なる神社・寺院の境内などにその小祠が祀られるといった、他の神社には見られない特殊性があるからである)。新羽における両杉山神社はきわめて近い距離にある。ふたつの地区とみとめるべき、目に見える要素――川を隔てているとか丘によってさえぎられているとか――は、とりたててみつけることができない。あるいは両者が掲げるところの「総鎮守」に何らかの意味があるのか。なぜならそれが社号以外にかんがえられる唯一の共通項であるから。祭神の違いによるのか。しかしこれはあまり意味をなさない。この地域の杉山神社をおおざっぱに、五十猛系と日本武系とにわけることができるとしても、神名はほとんど神社ごとに附会されたものであるといっても良いのである。
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杉山神社を歩くことによって私は何を知りたいのか。私の関心は郷土史にはゆかない。それはたかだか「正史」の一残片に及んで焉む。私は「正史」をどうこう言挙げしようとしているのではない。ただ、「杉山神社」なるものが、きわめて歴史的な範疇を容れにくい存在であることを、却って痛感しているのである。少なくとも、鶴見川中流域における杉山社の濃密な分布を何らかの「事跡」に即して考えることはできない。
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私は「杉山神社」を考えるにあたっての前提に若干の改変を加えるべきではないか? さしあたって目安とすべき点を私は漠然と次のようなもののうえに措いていたようだ。まず区分図に見られる「杉山」の集中。これはとくに意図して探しだしたものではない。近隣の、しかし通常あまりなじみのない地区への散策をくわだて、実行するうちに、「杉山」のさいしょの二、三社がいつとはなしに記憶された。どこかしらで見た名前であると、今度は(「杉山」社が現存する各町名の私の中での混同も手伝って)区分地図をやや詳しく調べるうちに、そこに「杉山」の意外な集中を見出した。すでにほしいままの散歩とは別の途である。たんに記憶違いのように見えていた、それ自体は何ら偏奇なものを含んでいない「杉山」の社名の反覆が、じっさいに鶴見川水系というスケールをとって感知できる実数であることを知るに到った。ここまでは良い。むずかしいのはここからだ。私の知りたいと思うのはつぎのふたつに要約できる。いったいどんな理由がこの杉山の集中をもたらしているのか。そして「杉山」社とは何か。
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このふたつの設問は、ありていにいって、「杉山」社相互のある共通項、というより「杉山」社一般としてのある同一性を前提する。つまりこの名を持つ社の存在するかぎりの地域は、特有の信仰圏であるのではないか、と。そしてその分布の形態のうちに、ある共通の(同一の)信仰の内実のようなものをさぐりうるのではないか。
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そこに何らかの拠り所があるのか否かを問わない。私の躓きは信仰の共通を祭神のせんさくから推し量ろうとした、その姿勢にあった。それは却って「杉山」という社の無性格性とでもいうべきものを私に痛感させた。今、殆ど「杉山」の社に(特有の:後注)神事と認めうべきものはない。すなわちその実質は私(たち)の眼からはうばわれている。祭神の明記は多分に明治の改変の俤が濃い。しかしこれは、都市近郊の大部分の所謂「鎮守」様の実景であるはずだ。
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さて、ここで確認しておきたいことは、「社名」の分布がある信仰の共通性をとりだしうる徴であるとしても、それが祭神問題と直ちにむすびつかないということだ。因果を問うならばむしろその逆であろう。祭神はあることの結果ではなく、ある操作の結果だろう。かつまた、イタケルならイタケルの神は、その動因たるべき源泉を失っている。今現在の、さしあたっての言明として、このことを挙げておく(むろんその例外たるべき多くの地方、小地域が存在している)。「杉山」は「杉山」だけで勝手に分布している。少なくとも私にはそう見える。
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あるいはこう言っても良い。所謂「神道」的な知識のワク内では、とくに「杉山」のような生態をとる「信仰」の実相へは踏み込むことを得ないのである。よほどの僥倖でもないかぎり、祭神の属性や事跡などによって、ある「信仰」の理由を説明することは不可能にひとしい。むろん明治の制による改変を考慮に入れたとしても事情はかわらない。それ以前の「杉山」社に何らの変動も加えられなかったなどとは、とうてい考えられないのである。「杉山」社はいま、かつてそうであったように歴史的現存性のただ中にある。同じ理由によって、この社名の上古から現在に至る経緯をあるリニアーな観点に措きうるものと信ずることはできない。名は同じでも、社地の遷座があり、祭神の合理化があり、伝承の消長がある。『杉山神社考』の著者、戸倉英太郎氏はこれを惜しむかのような口ぶりである。たしかに惜しむに足るべきものはあった。しかしそれは「杉山」社の正統――延喜式神名帳記載するところの「杉山神社」の真の祭神を伝えうるもの――ではなく、俗伝として排斥された口碑であり、「土人」崇敬するところの異神である。
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「杉山」社群のうちにわずかにみとめられるそれらの痕跡が、却ってある信仰の内実を窺わせているように思われる。この地域に独特のスギヤマの遍在は、私に「上古」を感じさせない。もっと直接にかかわってくるものは、原「杉山」社があるとして、そのいちはやい解体にともなうスギヤマの蔓延の印象であり、その背景として濃厚な「中世」の匂いである。
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私は仮定する。群としての「杉山」社の背後には、疫神の思想が存在しているのではないか、と。かつまたそれは、鎌倉と関係づけられ流布されていた形跡がある。いわゆる源頼朝の七社弁天開設の俗伝であり、吉田および茅ヶ崎の両杉山神社における鎌倉権五郎景政、杉山左兵衛の御霊信仰にかかわるものである(吉田杉山社に近く、御霊という小地名があり、また杉山社奉斎地区には、たまたまなのか、牛頭天王や天神菅原道真を祀る小祠や碑が多い:後注)。
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いわゆる「杉山神社奉斎地区」には、他の地区(武蔵・相模地方における)に比べて、固有に持っているフォークロアがきわめて少ない、といえるのではないか。この鶴見川水系は、神奈川県における、現存する伝説分布のきわめて希薄な地域であり、それは神事に関してもいうことができる。杉山社に就いてみつけることができる神事は、管見の及ぶところ、1)鶴見社田祭神事(明治初年に断絶している)、2)鉄社獅子舞(現存?)、3)茅ヶ崎・平尾・中里等の都筑住民による大国魂神社大祭への参画(伝承による=杉山大明神は府中大国魂神社、別名六所宮の六所の一)、といった程度である。――(あるいは十日市場地区に二例見出される雨乞いの行事もそれに加えてしかるべきか)。
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しかるに諸杉山社は決して廃棄されたやしろではない。諸方に点在する「杉山さん」に対する土地の「信仰」は今でもわりあいに篤い。それが直ちに式内社であることから来る尊崇だとは、必ずしも云いきれないものがある。少なくとも榜示に掲げて式内社を明示しているのは大棚の一社だけである(昭和五十四年当時:後注)。おそらく杉山社相互には「本祠」問題が本家分家等の隠微な感情に帰着してゆくような意識の対立はあったかも知れないが、「本祠」問題に直結するあらわな争論は行われなかったはずである。地位の軽重はあると思う。しかし集中区域における杉山社群はそれぞれにパラレルな存在である。
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本社・本宮があれば、それぞれの時代の趨勢によって、分霊・勧請ということが行われる。「杉山社」の場合、そういった経路に関しては、かなり異質なものがあったのではないか。集中区域における「杉山社」は、その殆どが、近くに遺物出土地ないし古墳遺跡のたぐいを有している。けだし熊野・白山・諏訪といった広域にわたる分布を示す「信仰」とは、かなりその内実を異にしていると考えられる。もし『杉山神社考』の著者にならってその本源をおもうとすれば、私は上古的なものからほとんど媒介を経ずに記載の水準にのぼってくることになる、この「杉山社」の在り方に、奇異の感を覚えずにいない。もし「杉山社」が、この地域における古来からの「産土神」の概念を表象するとしたなら、あまりにも即自的であるといっていい。他方、それが、熊野・白山・諏訪等の山岳系の信仰の具象性、対他的な意味での明示性と比較されるとき、ある種の空無、無性格性、と言ってわるければ、私たちに向かってあるきわめて抽象的な輪郭を避けがたく描いてしまう。都筑の住民は、いったいどういう理由があってこの「杉山社」を祀っていたのか。これが次にくる設問である。
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通常(こう言って良ければ)、民俗学の部類に属するものは無時間的である。それは、歴史的な判断に対して、絶えざる抵抗の痕跡を諸方に示している。歴史的な時間に対する無時間的なものの現前、あるいはそれを核にした時間そのものの改竄が、ひとつの区域における信仰の具体性であるといって良い。「杉山社」の場合、それが無い、とは強弁しないが、それの形は鮮く、散乱し、統一を求めがたい。私は「杉山社」という名辞にこだわっているのかも知れない。しかし、諸方に散らばりながら近接する「杉山」という名辞が、いかなる兆候をも黙殺させるものであるともおもえない。そこに何らかの通底性は埋蔵されているのだ。きまじめに考えるならば、その通底性を証し尽くすほどの「中間項」が、現況を見るかぎり、まだ見出されない(逆に云えば、「杉山社」は「中間項」そのものであるのではないか。本祠・祭神究明とはまた別のことがらである)。
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フォークロアにおける非―特異性が、古社の存続(?)とどう関係してくるか。
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