Jun 02, 2007

宗教・神話・詩論

杉山神社研究・考察篇(承前)


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 ふたたび、ここでいくつかの原則的な問題をはっきりさせておきたい。まず、「何」をここで考察すべき「杉山社」とみなすのか。私はその本祠がどれであろうとなかろうと、なによりも「杉山社」をひとつの群として考える。あるいはこう言い換えてもよい。この狭い地域におびただしく散在する「杉山社」を、ある脈絡として考えたい、と。それゆえ、この地域で「杉山社」を名乗るものは、これをすべて、例外とか偶然の符合とかいう理由で排除することをしない。つぎに本祠問題だが、もとよりこれは『延喜式神名帳』および『続日本後紀』の合わせて三行足らずの記載にすべての重点を置いている。すなわち、現実の「杉山社」の根拠というよりは、「杉山社」に関する空想の拠点である色合いが強い。そこには「杉山社」が現今のありさまに到る過程への視角が欠けている。たとえ今に現存する史料(口碑も含めて)がほとんどなかったとしても、だ。私は「杉山社」の発生に関して、いわば「原杉山社」を想定することはできても、それは本祠のせんさくとは別の局面にあるものだと考える。さいごに、「杉山社」の信仰の対象は何か、あるいはどんな条件が「杉山社」をして、この地域に限り、かく特異に集中せしめたのか、という疑問である。「杉山社本祠」の神威を畏んで、とか、その霊験によって、とかいう理由は(特に杉山社分散の)答えとしての意味を持っていない。有力な産土神であるとする説明も同じである。それだけの理由なら、原杉山社の解体とともに(複数あるとしても杉山社自体は)消滅してしかるべきはずだ。神ではなく「宗教それ自体に向けられた祈り」(E・M・シオラン)がありえないように、神威畏き社という意義だけで諸杉山社の造営や経営が行われたとは思われない。そこには必ず土地の共同体に内在的に関わる何らかの要因があったに違いないのである。少なくとも「杉山」という社名を継続させ、集中・散開させるだけの条件が求められなければならない。
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[名辞論]
 以上は「杉山社」を私の考察の俎上におくための手続きのようなものである。ここで「杉山社」は、ある地域的な像をむすんで私たちの目の前にある。「杉山社」とは何かを問うとき、それと表裏して否応なく旧武蔵国西南の一地区が示されてくる。しかし、「杉山社」の真の地域性を問おうとするならば、逆に地域を超えた、より一般的なパースペクティブのもとに引き連れてゆく必要がある。そのためには他の地域に類似の社の形態があるかどうかを精査しなければならないが、そのまえにまず、「杉山」という社の「名辞」の性質を考えてみる。そのうえでなければ、他の類例と単純には比較できないものがあると私には思われるのである。「杉山社」の集中地区には、むろん、他の多くの社が存在している。いま、昭文社発行「港北・緑区分地図」(19500:1、昭和51年)によって拾い得たかぎりでの社名を仮に以下に示してみる。

計72社
 杉山21、稲荷10、神明5、熊野4、白山2、住吉2、諏訪2、天満宮2
 駒林、平川、権現、菊名、浅間、八杉、甲、太尾、雲、鉄、空造様各1
 淡島、山田、大石、王子、本郷、天土、日吉、剣、高尾山各1(ほか)
 
  註)この他、地図に鳥居印のみで社名の記載されていない社が多数存するが省略した。その多くは、神社境内に合祀されているような小祠であるが、なかには日枝神社と号する由緒ありげな祠も含まれている。また若干の杉山社も存するようだ。庚申塔のようなものまで算入するとその数はおびただしい。
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これらのうち、日吉、太尾、菊名、山田、本郷、平川、鉄(くろがね)は、現町名ないし旧村名に対応している(古くは何社であったか、とか、どんな神が合祀されてできあがったものか、とかいうことは捨象する)。いわば「対応名」とでも定義しうる一群である。その中には、社名にひきよせられて出来た町名か、逆に町名に因んでつけられた社名か、といったさまざまな差異があるにせよ、それらは必然的に「一社」というありようで各々の地区に散らばっている。稲荷、神明、熊野、八幡、白山、住吉、天満宮、諏訪等は、「通有名」とでも名づけうべき群である。これらは「一社」であるか「数社」にわたるものであるか、という区別があまり意味をなさない、より広域の信仰を示す社名であって、それ自体でひとつの内容ないし系統を喚起せしめるに足る、要するに関東では一般的な神々である(ここでも、その真の祭神は何であるとか、勧請される以前の祠は何何か、といった問題は、これを捨象する)。次に来るのは、駒林、八杉、剣、雲、甲(かぶと)、大石、高尾山、空造様のグループである。これらを「固有名」の社として定義する。この群の社は、やや特殊な印象を感知させるのであって、その社名は、a)数社にわたる通有名を持たず、b)それぞれに「一社」という形態をとりながら町村名の範疇からは独立しており、c)しかも何らかの信仰ないし関係を、「通有名」の社とはやや違った形で表現していると思われるのである。これを言い換えるならば、(信仰の内実に関する)前二群の透明性に対する不透明性、レヴィ=ストロースのひそみにならえば、前二群が「換喩」的な存在であるのに対して、この群は「隠喩」的な存在であるといってよいだろう。
後註)以下に直ちに述べるが、町名との「対応」があるとはいえ、鉄神社はあきらかに固有名と思われる。この場合では町名が神社名にひきよせられて成立したふしがある。また、ここでは対応名に挙げた天王社はこの地区において独特の信仰と複数・同タイプの伝承を持ち、あまつさえ保土ヶ谷区の町名の因ともなっているが、明治の制による淘汰以前の状況を考えると、むしろ稲荷や熊野と同様、通有名に入れられてしかるべきかと考える。さらに、空造様は虚空蔵菩薩のことであろうけれど、天王社の場合や、第六天が神祇として祀られているのと同じく、神仏分離令をきっかけとした廃仏毀釈運動以前の習合信仰の形を示すものと思われる。この地区の他にも存在することが予想され、ここでは固有名に入れるべきではないと思う。
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 ここでひとつの註を挿入させなければならない。要するに、対応名・通有名・固有名は互いに侵食し合う領域を持っているということだ。たとえば、通有名に挙げた白山、住吉等の社名は容易に町名に転化するものであり、逆に対応名に含ませている日吉は同じ理由の反対の側面からほとんど通有名といってよい。これは地名に付随する社名ではなく、社名に起因する「対応」である。他方ここで対応名に入れられている鉄の社は、むしろ固有名のうちに加えられてしかるべきかと思う。「対応」は存在しているが、上記の通有名の社と同じく、社名に起因する対応であり、しかもなお数社にわたる通有性を含んでいないからだ。何らかの特殊な信仰を印象させる点において、地図上に近接する一字名の固有名社、剣、雲、甲と同じ系列にあるものと推量される。さいごに付け加えておきたいことは、「固有名」の社でも若干の「対応」がみとめられるということである。それらは、ひとつの山、ひとつの川、または小地名に対応を持つ場合が多い。しかしこの関係は、前二群の対応が当該地区における信仰の「要約」といった性格を持つのに対し、むしろそれ自体で信仰があらわされている「場」にほかならない。ここでは対応そのものがひとつの現前であり、信仰の「対象」である。
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 さて、「杉山」社は上述三群のうちのいずれに加えられるべきであろうか。または、上述三群の関与がどのような形で「杉山」社の形態にあらわれているのか。結論を先にいってしまえば、私は「杉山」社の社名に「准固有」とでも名づけたい性格を感じる。それは大規模な通有性を持たず、かつまた明晰な対応の形をとってはいない。しかしそれはちいさくて濃い通有性と微弱な対応の形をともなっている(後者についていえば、現在それが地名対応であると認めうる確実な根拠はきわめて薄いと考えざるを得ず、一応社名対応で考えるのが妥当であると思う。いっぽう奉斎地区における「井田杉山町」(川崎市)の存在や、吉田社付近の「杉山」なる小字の存在は気になる。また「杉山」を普通名詞ととる見方と、固有名詞ととる見方とはリニアーには結びつけることが出来ないのであって、そこには深い時間の断絶が関与している。社名の由来ではなく、いわばその「現象」をまず追ってみなければならない)。
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 これを別面から見れば、現地名とはほとんど無縁であることによって「対応名」ではなく、その限定性によって「通有名」ではなく、また鶴見川水系周辺という割合に広いスケールで見られる数多の反復において「固有名」とはいいがたい。むろん、さらに巨きなスケールをとれば明白にひとつの「固有名」ではあるけれど。「名辞」としての「杉山」社はこれらの概念を峻拒するのではなく、いわば部分の合致を積み重ねていって、ついに「杉山」社以外の社名群が形成する一全体の内には取り込まれない。このような形態を特異であるとするなら、たとえば他の「固有名」社における個々の特殊性とはいくぶんか異なった観点からそのありようは問われなければならないだろう。もし、「原」杉山社を想定できるとして、それらがもと「一社」であるのならある時間の断絶や曲折そのものを問うことになるのであるし(それは、ほとんど〈不可能〉という言明にほかならない)、またその原初に複数を見なければならないのであれば、何故「杉山」という「一名辞」のもとにその集団が統べられたのか、という疑問を抱懐させられることになるのである。
後註)一字名の社はもと杉山社を号していたものが多いそうである。おそらく明治の制ばかりでなく戦後の節目にも多くの神社の統合合祀ということがおこなわれたことであろう(あるいは戦国乱世の時代にもそれに類した事態を想像することができる)。「節目」以前の江戸期や中世の農山村として、この都筑・橘樹・久良岐の地のことを考えると、神仏分離以前の習合的な、おびただしい神祇や権現、観音、地蔵などが満ち充ちていたミクロコスモスが目に浮かんで実感されてくる。そして港北ニュータウンでさえ過去のものになりつつあり、また新たにもう一本の地下鉄線が通じ、巨大ショッピングモールや高層マンションが陸続と「開業」している現在、「杉山神社奉斎地区」は、多分これで最後の・大規模な・決定的な、「節目」を迎えているのだと思う。

考察篇編集畢 07/05/02
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