Aug 29, 2008
恋人たちの食卓
脚本・監督: アン・リー
制作:シュー・リーコン
製作国: アメリカ、台湾
アン・リー監督が「推手」「ウェディング・バンケット」に続く「父親三部作」の第三弾として、父と娘とのそれぞれの生き方を描くホームドラマです。名シェフの父親が主人公となっていますので、多種多様の豪華な中華料理が登場します。
舞台は台北。一流ホテルの名シェフ「チュ」は、男手一つで三人の娘を育ててきました。長女の「チアジェン」は高校の教師、次女の「チアチエン」は航空会社に勤めるキャリア・ガール、三女の「チアニン」は、アルバイトに忙しい大学生です。
日曜日には家族全員が集まり、父親の特製料理を囲むのが姉妹たちが小さな頃からの習慣でしたが、姉妹たちは次第に大人になってこの晩餐が重荷になってきます。ある日曜日、かつてシェフへの希望を父に反対された次女は、父の味覚が衰えたと非難します。名シェフの父は味覚を失う病気になっていたのでした。
やがて三姉妹にも恋の季節がやってくる。まず三女はボーイフレンドのクオルンと「できちゃった婚」、長女は新任のバレーボールのコーチのミンタオと家族への報告なしの結婚、父親は隣家に住む子持ちのチンロンと結婚する。さらに数カ月後に、恋人関係を友人関係に変えて、アムステルダムヘ支社長として旅立つ次女。ここで一つの家族は解散する。永年家族がともに暮した家が売りに出される前に父親は、その家で次女の料理を初めて食べるのだが、そこで父親の味覚は戻る。
ざっとこのような物語です。わたくし自身が三姉妹の末娘でしたので、姉妹それぞれの生き方の違いが実感として理解できました。同じ親を持ち、同じ家で育ったはずなのに、姉妹の生き方というものは、異質と言えるほどの違いがありました。誰が一番幸福だったのか、計りようもありません。父母が幸せな生涯であったのかもわかりません。それは誰にもわからないことでしょう。
ただ愛した人がいた。あるいは今いる。どのように愛するか?そして住む家があり、食べ物がある、生きることとはそのようなものではないか?名シェフの父親の生き方の最後の選択をみれば、それは痛いほどにわかる。「チュ」はおそらく、孫ほどの少女とその母親と共に「家族の晩餐」を改めて出発させたのではないのか?
「恋人たちの食卓」・・・・・・このタイトルに改めて戻ってみますと、家族すべての恋は、この食卓で語られ、騒ぎを起こし、そしてそれぞれの生き方を見つけたのですね。
Aug 20, 2008
崖の上のポニョ
原作・脚本・監督:宮崎 駿
プロデューサー:鈴木敏夫
作画監督:近藤勝也
制作: 星野康二
声の出演
ポニョ: 奈良柚莉愛
宗介: 土井洋輝
リサ(宗介の母): 山口智子
耕一(宗介の父): 長嶋一茂
グランマンマーレ(ポニョの母): 天海祐希
フジモト(ポニョの父): 所ジョージ
ポニョのいもうと達: 矢野顕子
主題歌
「海のおかあさん」歌: 林正子
作詞:覚和歌子 宮崎駿
作曲・編曲: 久石譲
「崖の上のポニョ」歌: 藤岡藤巻と大橋のぞみ
作詞:近藤勝也 補作詞:宮崎駿
作曲・編曲:久石譲
海に棲む少女(少魚?)「ポニョ」の生い立ちはすでにこの物語の展開を予感させるものでした。母親は人魚の「グランマンマーレ」、父親は「グランマンマーレ」に恋をして、汚れた人間界を捨てて海を選んだ男「フジモト」。しかし海洋汚染も進んでいる。海底に特殊なコロニーを作り上げた父親は、そこで「ポニョ」とたくさん(!)の妹たちを育てていました。「グランマンマーレ」は多産な人魚ですね。「木花之佐久夜ひめ」のようだと思いました(^^)。
その海とそれを抱いている小さな町が舞台です。その町の海辺の崖の上の一軒家に住む五歳の少年「宗介」は、ある日、クラゲに乗って海底のコロニーから家出した「ポニョ」と出会う。地引網にかかって浜辺近くで困っていたところを、「宗介」に助けてもらったのだ。この「宗介」の名前を決めたのはもちろん監督の宮崎駿ですが、この名前が、夏目漱石の「門」の主人公からとったものだそうです。
一目で宗介のことを好きになるポニョ。宗介もポニョを好きになる。「ぼくが守ってあげるからね」という可愛い約束は二人の大きな試練となる。「ポニョ」が人間になりたいと願ったため、海の世界は混乱に陥り、「宗介」の父親の船を含めて、海上の船は難破する。人間の町に大洪水を引き起こすことになるのだが。。。
どんな時代であれ、五歳の少年から見た世界は美しく生きるに値する。
この映画のなかに監督が盛り込んだメッセージは、微細でありながら非常に多くのものがあります。例えば海の中の描き方です。古代魚も含めて魚類の豊富さを示していたこと。そして洪水という海の怒り、地引網漁の海底破壊など。
また「宗介」の通う保育所「ひまわり園」はデイケアサービスセンター「ひまわりの家」に隣接していること。これはすでに行われているシステムですね。ここで老人と子供の人間関係を育てようという試みです。そしてこの「ひまわりの家」に働いているのが「宗介」の母親です。毎朝二人は崖の上の家を車で下りて、通っているのでした。
大洪水の後で「ポニョ」は人間の少女として、グランマンマーレ(ポニョの母)から、リサ(宗介の母)に託されます。これは海や空から託された願いの姿だったのでしょう。この物語が特異と思えるのは、映画鑑賞中に目を被いたくなるような「悪役」がどこにもいないことでした。大洪水の犠牲者もいなかったのでした。
(おまけ)
ポニョのたくさん(!)のいもうと達の声を担当したのが「矢野顕子」だったと後で気付きましたが、これほどの適役は他にはいなかったことでしょう。にこにこにこ。。。
Aug 13, 2008
成熟と喪失 ”母”の崩壊 江藤淳
《アメリカ絵本作家モーリス・センダック「まどのそとのそのまたむこう」より》
これは息の長い著書である。河出書房新社より昭和四十二年から版を重ね、函入り上製本、カバー装普及版、さらに講談社文庫にもなっています。わたくしが手にしたものは、カバー装普及版にあたります。
この著書の主題は、かつての農耕文化のなかで果たされてきた「母」なるものの役割の崩壊でしょう。それはわたくし自身の極論から言えば、母なるものの「忍従」の上に育った文化であり、一見「自然」「源郷」に見えてきたものは、無言で耐えた「母」の築いた文化ではなかったのか?と思います。
それが時代とともに、西洋文化が徐々に浸透してゆく流れのなかで、「母」のなかにしまいこまれていた「女性の娼婦性」あるいは「母性の放棄」、「ジェンダー」が徐々に表出しました。それが一気に表出した敗戦後の時期に登場した「第三の新人」たちの小説群への、江藤淳の丁寧な批評と言えばいいのだろうか。
主に「小島信夫・抱擁家族」の主人公である「三輪俊介」とその妻「時子」の米人男性との恋という事件を発端とした夫婦の崩壊を主軸にしながら、江藤淳は「妻=母」なるものの崩壊を見つめようとしています。その筋道に沿って、以下の小説にも触れています。
まずは「安岡章太郎・海邊の光景」では、敗戦後、戦場で罹った結核の夫(獣医・・・つまり軍医ではなかったということか?)を世間的に恥ずかしい存在だと思う母親に精神的に頼られている息子「浜口信太郎」の苦悩について書かれています。ここでは妻ではなく、「父の崩壊」が引き出した「母の崩壊」について考えられています。
さらに「谷崎潤一郎・刺青/痴人の愛/鍵」、カソリック作家である遠藤周作「私のもの/沈黙」、またその以前の時期に書かれた「夏目漱石・行人/明暗」、「志賀直哉・暗夜行路」なども比較として取り上げられています。
さて崩壊しない「母」とはなんでしょうか?
そのわたくしの疑問を置き去りにして、江藤淳は、こうした男女や母子関係の束縛への嫌悪から「孤独」を選んだ男の小説に移行します。主人公がいずれも「作家」という共通性はあるものの、時代、生き方は著しく相違していますが。それは「永井荷風・ぼく東綺譚」と「吉行淳之介・星と月は天の穴」でした。
江藤淳が最後に取り上げた小説は「庄野潤三・夕べの雲/静物」でした。そこには死期に近い「眠り続ける母」、「棚に放置された、子供たちの遊び相手の終わったぬいぐるみ」、「結婚以来いつでも心ゆくまで眠りたがっていたかに見える妻の、突然の長い眠り」などのシーンが象徴的に書かれています。
そこに「母」はすでに存在しないのかもしれません。人間は「個人」であることを余儀なくされて、そこから書かざるを得ないものが生まれるのでしょうか?
(昭和六十三年河出書房新社刊・新装版)
Aug 06, 2008
オリバー・ツイスト
製作年度: 二〇〇五年
監督:ロマン・ポランスキー
原作:チャールズ・ディケンズ
オリバー・ツイスト:オーディションで選ばれた十二歳のバーニー・クラーク
舞台は第一次世界大戦後のイギリス。九歳の戦争孤児「オリバー・ツイスト」は救貧院で労働に従事していたが、夕食の席で「おかわり」を求め、救貧院を追放されてしまう。奉公先でも理不尽に虐められ、遂に飛び出す。放浪の旅の末、ロンドンにたどり着き、倒れた彼を助けてくれたのは、元締めの老人と暮らす少年スリ集団だった。彼らのアジトに温かく迎えられたオリバーは、初めて家庭的な温かさを知るが、盗みや万引きに馴染むことはできない。汚い服や靴、暗く汚れたアジト、そうしたなかで「オリバー・ツイスト」の顔立ちはいつでも白く美しい。この環境では生きられないことを主張するかのようでした。
そんなある日、偶然に書店主の老人に出会い、助けられ、面倒を見てもらうことになる。しかしまたアジトに連れ戻される不運もあったが、命がけで密告したアジトの女性のおかげで、アジト全体は警察に包囲されて、「オリバー・ツイスト」には、書店主の子供としての幸せな日々がようやく訪れる。明るい庭で読書する少年の姿は美しい。この風景のなかに坐るために生まれてきたような少年だったのではないか?一人ぼっちの少年が生きてゆくことは危ういこと。しかしそれを支えたのは大人たちでありながら、そのもっと根底にあったものは「オリバー・ツイスト」の汚れのない心ではなかったのか?
* * *
この映画を観ながら、ふと「これはチャールズ・ディケンズの自伝ではないか?」という思いがうかび、調べてみましたが、やはり彼も困苦の少年時代を送っていたようです。「チャールズ・ディケンズ・一八一二~一八七〇) の家は中流階級の家庭であったが、父親ジョンは金銭感覚に乏しい人物であり、母親エリザベスも同様の傾向が見られた。そのため家は貧しかった。濫費によって一八二四年に生家が破産。ディケンズ自身が十二歳で独居し、親戚の経営していたウォレン靴墨工場へ働きに出される。
さらに借金の不払いのため、父親がマーシャルシー債務者監獄に収監された。家族も獄で共に生活を認められていたが、ディケンズのみは一人靴墨工場で働かされ、しかもこの工場での仕打ちはひどく、彼の精神に深い傷を残した。「チャールズ・ディケンズ」の前期の作品では、主人公は多く孤児であり、チャールズの少年時代の体験が影響している。
晩年の作品は、次第に社会的要素に取り組んだ、凄惨な作風へと変化していく。一八七〇年「エドウィン・ドルードの謎」を未完のまま死去。
Aug 05, 2008
白馬へ。(その4・浅知恵・・・笑。)
(左下に見えるのは、冬季オリンピックのジャンプ台です。)
「白馬」は山岳文化を中心に栄え、古くから、山間の信州と越後を結ぶ交易路である「塩の道」があり、さらに戦国武将たちの合戦の場であったことは(その1)で書きました。標高の高い山に囲まれたこの土地が豊かな農村地帯であったとは思えない。
今夏の「白馬村」には青々とした稲が真っすぐに立った田んぼや野菜畑もあちこちにありましたが、その反面ではここのかなりの部分は別荘地帯ともなっていますので、どの家が農家なのかは見分けがつかないのでした。その村を散歩しながら、ふと山崎豊子の「大地の子」を思い出しました。その主人公の中国残留孤児の両親は長野県出身でした。この主人公の幼い時代のかすかな日本での記憶に、両親が朝の農作業の始めに「信濃富士」を拝むという光景が刻まれていたのでした。この主人公の両親も、貧しい農民が満蒙開拓団に夢を託した一家だったのではないでしょうか?そしてこの開拓団には長野県出身の農民が一番多かったそうです。
この村を歩きながら、自分が何故「山岳信仰」をふいに思い出してしまったというのも、そのようなさまざまな条件が重なったからでしょう。この「山岳信仰」について書けるほどの力はありませんが、全国には「富士」を付けた山の名前が多いですね。それは「郷土富士」と呼ばれるもので、「信仰」の意味がどこまであったのかは、地域によるでしょう。
(その1)で「白馬」の由来について触れましたが、あらためて。。。
白馬岳の雪が融け始めると、山肌に「代掻き馬」の「雪型」が現れるそうだ。それを麓の村人は田植え時期の目安(農事暦)にしていた。「代掻き馬」が「代馬=しろうま」に転じ、のちに「白馬=はくば」と変わった。村の名前は「はくば村」と呼ばれているが、山の名は「しろうま岳」と呼ばれている。
《追記》
滞在中、毎日快晴でした。霧には出会ったが雨には降られませんでした。
日頃の心がけのよいことの証明でした(^^)。
Aug 04, 2008
白馬へ。(その3)
その次の提案は「栂池自然園」でした。またゴンドラ乗り場まで車で送っていただきました。ここは「尾瀬」に似ている。入口では靴の泥を落すマットが敷いてあって、外来種の侵入を防いでいる。こちらも標高は高い。「お花畑」の位置でもあった。たくさんの花々、高度に耐えて立っている樹木。ここまで高いところに来れば、人間というものは何かが変わる。それがはっきりとわかる。ただ小さいだけではないのか?
人間関係の困難さ、日常の重さ、そのようなものに押しつぶされそうになっていた小さな自分が見える。見えてしまえば軽くなる。黙々と集中して歩き慣れない木道を用心深く辿っていくと、どろどろとしたものが洗い流されてゆくのがわかる。涼しい風。やわらかな霧の移動。空の色、山の色、木々の色、草花の色などなど。。。
Aug 03, 2008
白馬へ。(その2)
しかし、無欲でいれば事はうまく運ぶものだ。朝ごとにホテルの奥様が行き先を提案して下さる。そしてご主人がその決めた行き先の入口まで車で送って下さる。あとはゴンドラやリフトを乗りついでゆけば、体力不足のわたくしでも、この標高の高い山岳地帯をどうにか移動できて楽しめる。標高の高い山々は神々しいほどにうつくしい。霧はそれをさらに神秘的に演出していました。まずはじめに行ったところは「八方尾根自然研究路」、これは最後のトレッキングコースは断念する。岩だらけの山道である。装備もないし、体力もない。その上少々故障気味のからだなので。。。
そこに立つと周囲の山並みが見渡せる。そこから農民たちの「山岳信仰」の意味が理解できる。
「山」は動かない。そして時として人間に最も冷酷な仕打ちもする。それが「信仰」ではないかしら?
《おまけ》 クマ除けのベル(^^)。
Aug 02, 2008
白馬へ。(その1)
「白馬」の旅から帰る。あちらでは鶯の谷渡りの声をよく聴いた。ベテランもいれば下手もいた(^^)。帰宅してからのわたくしの耳を歓迎してくれたのは「みーんみーん」の蝉の合唱。数日の留守の間に蝉の声がふえていました。
さてさて、夏休みなるものを久しぶりに思いたった。それにしても行き先がなかなか決まらない。旅慣れた友人の薦めがあって、まずは宿は「北安曇野郡白馬村」のホテルに決めた。小さな可愛いスイス風のホテル。その先を考えていない。いろいろなことに疲れてしまっていて、何も考えられない。ホテルで寝て暮そうと思って旅立つ。本は一冊も持っていかなかった。
それにしても「白馬」の由来はなんでしょう?春になって、白馬岳の雪が融け始めると、山肌に「代掻き馬」の「雪型」が現れるそうだ。それを麓の村人は田植え時期の目安(農事暦)にしていた。「代掻き馬」が「代馬=しろうま」に転じ、のちに「白馬=はくば」と変わった。村の名前は「はくば村」と呼ばれているが、山の名は「しろうま岳」と呼ばれている。
「白馬」は後立山連峰の麓に位置し、山岳文化を中心に栄えてきました。古くから、山間の信州と越後(現在の長野県塩尻市から白馬村・小谷村を経由し新潟糸魚川市)を結ぶ交易路である「塩の道」があり、さらに戦国武将たちの合戦の場となりました。「敵に塩を送る」の語源は、上杉謙信が塩不足に悩む宿敵甲斐の武田信玄に義援の塩を送ったことに由来する。
着いた日は白馬駅周辺の探索、観光案内所で情報入手。それからホテルで一休み。夕食までの時間は近所の散歩。「散歩だけでも楽しい。」という友人の言葉を思い出しつつ、山並みを見上げながら。。。ああ~喉が渇いてビールがおいしかった(^^)。