May 22, 2006
草花の咲く場所
二十一日は詩の合評会でした。久しぶりに快晴、初夏のような一日でした。そこで提出される詩はさまざま、批評の基準の置き方がわからないので、わたくしは、いつでも作者に簡素な質問をして、後はみんなのお話を聞いているだけ。時々「突っ込み」の悪戯はするけれど。。。自作自註を熱心にする書き手、読者に手渡した後では「作品は一人歩きするもの。」という姿勢でいる書き手。おそらくわたくしは後者だろうと思う。
一番判断に困る作品は高名(?)な著書や宗教書の「言葉」を引用する作品である。引用された一節は素晴らしい「言葉」ですが、それが作品を生かしているのかどうか判断に困る。作品がその言葉に依存しながら成り立っているとしたら、それは決してよいこととは思えない。
それから、ある出来事から受ける「感動」や「共鳴」をどのように詩としての言葉に変換できるか?どのように読者に届けるのか?「届かなくてもいい。」というのは詩の書き手として傲慢すぎる。わたくしは好きな詩に出会ったら、その「続きの詩」や「贈答詩」などを書きたいとも思う。
この日の作品では、わたくしが少し前に撮った写真を思い出したのでアップしてみます。これは歩道のアスファルトの隙間、ガードレールの下あたりに長い行列をなして咲いていた「スミレ」です。偶然にもお二人の作品にそれを発見しました。過ぎていった春の記念に。。。
私はガードレールの上に残され
混沌としている
と。
いつかの花が
アスファルトを破って咲いている。
(消去・小川三郎・・・より抜粋)
午後2時
足下に雑草が吹き出している
コンクリートの割れ目から
緑の槍のように
太陽は
尖った命を沸騰させようとしている
(処方箋・柿沼徹・・・より抜粋)
May 17, 2006
国家の品格 藤原正彦
この本は講演記録をもとにしているために、話し言葉に品がなくて(ご当人のお言葉です。念の為。)大幅に加筆したもののようです。ご当人のお言葉を拝借すれば、「品格なき筆者による品格ある国家論という極めて珍しい書」とのことです。たしかに。。。「品格」の有無はともかくとして、この本の文体そのものが文章と話し言葉との境界線をあいまいなものにしてしまったという感は否めないと思います。なにか、この本を早く出版しなくてはならないというような意図が背後に働いているのではないのか?という懸念がかすかにありました。とはいえ、藤原正彦の主張は明快なものですので、充分に読み取れるものではありました。
藤原正彦はさまざまな例を出し、かなり乱暴な論法を駆使して、自らの考え方(論理とは言わない。)を押し出していました。藤原いわく「論理というものだけでは、国家、民主主義、平和、戦争、自由、平等などをくみたてられるものではない。」ということのようです。
『論理とか合理を「剛」とするならば、情緒とか形は「柔」です。硬い構造と柔らかい構造を相携えて、はじめて人間の総合判断力は十全なものとなる、と思うのです。」
この「柔」の要素として、藤原は日本独自にあった「武士道」と、日本文学の永い歴史の底流をなしてきた「情緒力」や「もののあわれ」を差し出しています。一瞬「時代錯誤か?」といういぶかしい思いがありましたが、読み続けるうちに、それが決して古いものではなくて、時代を超えて相通じるものであることは納得できました。つまり藤原は日本人が真の国際人になるためには、「英語力」ではなくて「日本独自の言葉の文化や伝統」を内部に育てるべきだと言うことかな?こうしてやっとやっと「国家の品格」は浮上するのかもしれません。
『民主主義にはもちろんきちんとした論理は通っていますが、「国民が成熟した判断ができる」という大前提は永遠に満たされないこと、その本質たる自由と平等はその存在と正当性のために神を必要とすること、という致命的とも言える欠陥があります。』
この本を読みながらしきりに思い出していた一編の詩がありました。ルーパード・ブルックは若くして戦死した軍人でした。そしてこの詩はイギリス国家の戦勝祈願として使われたらしいという経緯はありますが、詩人が意図したものはそのようなものではなかったのではないかと、わたくしは思っています。
軍人(The Soldier) ルーパード・ブルック(1887~1915・イギリス)
(田中清太郎 訳)
万一ぼくが死んだなら ぼくのことはただ次のようにだけ思ってください、
どこか異国の野の片隅に
永遠にイギリスである場所が存続するということを。
そこの肥沃な土の中には もっと肥沃な土くれがかくされているはずだ。
その土くれと化した肉体はイギリスが生み 形を与え 意識をもたせたものだった。
かつてはそれに 愛するようにと花を さまうようにと小道を 与えてくれたのもイギリスだった。
それは イギリスの空気を呼吸し
川の水で洗われ 故郷の太陽によって祝福されたイギリスの肉体だったのだ。
そしてまた 次のようにも思ってください。すべての邪念を洗い流したこの心が
不滅の心のなかのこの鼓動が 同じように
イギリスから与えられた数々の思いを どこかにお返ししているのだと。
イギリスの風景と響き 昼間と同じように楽しいイギリスの夜の夢
友達から学んだ笑い そしてまたイギリスの空の下にある
平和な心の穏やかさを どこかにお返ししているのだと。
(二〇〇五年初刷―二〇〇六年八刷・新潮新書)
May 14, 2006
詩人の目―大岡信コレクション展
(駒井哲郎・岩礁にて「At Rock Seashore」・一九七〇年)
これ↑は、展示作品のなかでわたくしが一番好きな作品でした。
十三日は寒かった。さらに雨と風。心がけの悪い奴等(?)だ。
しかし約束通り三鷹駅で待ち合わせて、駅前の三鷹市美術ギャラリーへ「詩人の目―大岡信コレクション展」を観にゆきました。美術館が駅前にあるというのは市政の心根の良さを感じますね。埼玉県の草加市(だったかな?)では駅前に大きな図書館があって「いいなぁ。」と思ったこともありましたが。。。
一九五六年、大岡信は「美術評論・パウル・クレー」を書いたことから出発して、一九五九年、(この時、大岡は二十八歳。)かつて日本橋にあったという「南画廊」において、さまざまな美術家と出会うこととなり、その歳月のなかで蒐集された作品の紹介であった。作品が予想以上に多かったことに驚きましたが、一点づつ割合丁寧に観ました。
それは大岡信の詩に触発されて描かれた絵や作成された立体的な作品であったり、絵に触発されて書いた大岡信の詩で(直筆もある。)あったり、あるいは本の装丁であったり、というような作品が多かったので、詩に関わる者としてはとても楽しいものでした。大岡信の交友関係の広さにも驚かされましたが、夢みたいな詩と美術との交歓はつくづくと羨ましい。ただし抽象的な作品ばかりですのでわたくしには作品の評価は皆目わかりませぬ。好感か不快かで分ければ「不快」な作品はなかったと思います。また、俳人との「書」による連詩(連句?)の試みなどもありました。
「絵本詩集」を試みたり、「連詩」や「相聞」などを試みることに大きな興味があるわたくしとしては、この「贈答」の作品たちに心動かされることが多いのでした。またいつか新しい詩集を作ることなどを想像しながら観ていますと、さらに夢はふくらみます。予想以上に楽しかったです。
もちろん南画廊主から「これは詩人の大岡が持つべきだ。」と言われて、大岡自身が購入した高価なオディロン・ルドンの銅版画九点などもありました。これは、シャルル・ボードレールの「悪の華」の挿絵となった作品でした。
その後は荻窪に行って、「ささま書店」で古本あさり。これも見ていればきりがない。買うには書棚と経済との限度というものがある。雨だから書籍が痛むだろうし、すでに頂いた詩誌や三鷹ギャラリーで買った画集が重いしで、悩みつつ最低限に抑える。お初の下見なのだからまた行けばいいのさ。。。
May 12, 2006
目覚め
目覚めるといつも私が居て遺憾 池田澄子
この句は清水哲男さんの「増殖する俳句歳時記」の今日の挙句です。
ううむ。実感。。。
クスリでどうやら夜を眠って、ひどい低血圧の朝の目覚めの時には、ほとんど絶望的な精神状況です。それでも「よっしゃー!」と一日生きる。面白い本に出合ったり、なんとか気に入った一編の詩ができればシアワセというもの。
明日はお出掛けです。そういう日は目覚めてから、ちょっぴりシアワセ(^^)。
(たましいの話・二〇〇五年刊所収)
May 09, 2006
人形と情念 増渕宗一
「人形を愛する」ということは、ひとが老いて醜くなってゆくこと、あるいは日常のなかで、次第に汚れてゆき、あるいは撓んでゆくものからの回避ではないのか?それは時間を止めることではないのか?という思いがわたくしのなかから抜けてゆかない。
もう一つ思い浮かべることは、俳人「小西来山・1654年(承応3年)大阪産まれ。」が1708年(宝永5年)に書いた俳文「女人形記」の下記の一文です。これは一種のエゴイズムではないのか?
『(前略)ものいはず笑はぬかはりには、腹立ず悋気せず、蚤蚊の痛を覚ねば、いつまでもいつまでも居住居を崩さず。留守に待らんとの心づかひなく、酒を呑ぬは心うけれど、さもしげに物喰ぬてよし。白きものぬらねばはげる事なし。四時おなじ衣装なれども、寒暑をしらねば、此方気のはる事更になし。(中略)愛のあまりに腹の上に置時は、呼吸にしたがいてうなずくうなずく、細目してうなずく。』
(一)
『人形は、人間の愛と憎しみのための試金石である。』
さてしかし、この本はこのわたくしのそのような問いかけには応えて下さらなかったようだ。一章がこの本の表題となっているのだが、ここに頻出する「情念」という言葉はあまりにも重い。。「愛」「嫉妬」「呪い」「憎悪」「孤独」の身代わりとしての人形。あるいは「災い」を背負わされるために作られ、すぐに流される人形たちだった。。。
また人形は「ヒトカタ」あるいは「カタシロ」と言われ、「ニンギョウ」と訓まれたのは1477年の「おゆとのの上の日記」がはじめとされているらしいが、この訓まれ方の変遷はきっと人間と人形との関わりの変遷でもあるのだろう。
(二)
『存在者から神性を抽象すれば、それは彫刻の形式と結びつき、情念を抽象すればそれは人形の形式と結びつくといってもよいのである。』
ここでは「彫像」が中心となっているようだが、古代の仏像や神像、ロダン、ピカソ、盲人などの作品、高村光太郎、和辻哲郎の彫刻と人形(この想定の差異も大きいが。。。)論、さらに「こけし」「姉さま人形」など多岐に渡るために、ややとりとめない人形美学論となっている。
(三)
『人形の衣装は、(中略)もっとも純粋な偽装の祝祭である。』
『人間と衣装との結びつきは始原的なものである。』
『人形はエロス(恋愛)にかかわる場合、衣装なき裸身と結びつくことが多い。』
ここでは「衣装」のお話になるのですが、ファッションショーとモデル、スタイル画、お化け、宗教画における衣装、徒手体操、フィギア・スケート、トランポリン、サーカス、果ては裸のキューピー、動物のぬいぐるみまで及び、とりとめのなさは果てしない。筆者の頭のなかではおそらくどこかへ着地するまでのあてどなく拡散してゆく思索の道筋なのだろう。読者としてついてゆくのは大変困難なことだ。
(四)
『人は、人形に人間の中の人間を求め、ロボットに人間の機能面での代替物を求めているのである。』
ここでは、ロボット、ピノキオ、ビュグマリオン伝説、からくり人形、おさな児のおしゃぶり、などなど、さらに話題は拡散してゆく。このなかの「ビュグマリオン伝説」には、わたしなりの異見を差し出しておきたい。美しい象牙の女性像に恋をした男は、神にその像を生きた女性に変える願いをする。願いは叶えられて、像はぬくもりを持つ女性の肉体となり、その男の子供を産む。永い歴史のなかで処女性を失った女性は「穢れ」とされてきた。今の時代でも「人形愛」の世界ではこの「穢れ」は排除されているのではないかと思うが、筆者は子供の誕生を幸福な愛の結果としている。これはおおきな矛盾ではないか?
(五)
『人は、みずからの住む家をたてると同時に、神の家をたて、人形の家をたてる。』
なるほどね。ここでは神殿にまつわるお話、ドールハウスの歴史、雛壇の歴史などに触れている。「人形の家」と聞くと、わたくしは「ノラ」に反応してしまうので困った。「人形の家」は人間生活の動かぬ縮図であり、それゆえの愛らしさなのだろう。
(六)
『人形も、愛玩動物も、共に、人間の熱愛憎悪の相関者である。
愛玩動物は、人形と同様、人間の伴侶であり、人間と愛憎を共にし、また寝食を共にしている。しかし愛玩動物には、いつか死がやってくる。つまり、愛玩動物には生物学的な生死があり、死を契機に、愛玩動物は人間の同伴者たりえず、ある他のものに転落してゆく。これに対して人形は、人間の同伴者として、つねにあらたである。』
ここでこの本からの引用はおわり。はじめの章と最後の章で、どうやらこの筆者である「増渕宗一」の論点は呼応しているようであった。中間部のほとんどはここに辿り着くための「拡散」だったのだろう。
「人形論」からはずれますが、この筆者の文章には「、」が多いなぁ。それから漢字で書いてもいいような言葉を平仮名で書くというところも何度かあって、奇妙に気にかかったなぁ。
では最後に、わたくし自身の人形との関わりの歴史を考えてみよう。病弱で学校へ通うことすら苦痛であった少女期の遊びのほとんどは「人形遊び」だった。布の端切れで人形の衣服を作り、きれいなお菓子箱などを集めて、それで人形の部屋を作り、大日さまのお祭りの機会には、セルロイドで出来た家具などを買い揃え、旅行に出る大人たちへのお土産のおねだりは必ず「小さな食器」だった。
大人になったわたくしは、見惚れるほどに可愛い(マジである。)女の子を授かった。しかしこの可愛い生き人形はウンチもオシッコもする。オナラまでする。食べ物が気にいらなければ吐きだす。夜泣きが1ヶ月以上も続くなど、この愛らしい泣き人形はほとほと若かったわたくしを困らせた。しかし幼子のもつ愛らしさがこうした困難を乗り越えさせるものだったのだとしか思えない。次には、これまた美しい王子のような男の子(マジである。)を授かった。
その期間にわたくしはおそらく「無意識の子供時代」をもう一度生きたのだろう。言葉のはじまりに立会い、子供の玩具を買うことに同行したり、ままごとの相手をしたり、絵本を見たり、遊園地や海や雪山に行ったり、かくしてこの生き人形はまたたくまに育ち、わたくしの手から離れていったのである。実感として、わたくしに残った感覚は「小さきものだけが持ちえる愛らしさ」の魔法のような力だけだったと思う。
この本のテーマである「人形美学」は未開拓な分野であって、世界に類を見ないものとされている。この本の出版年が一九八二年ですから、その後も引き続きそうであるのかはわたくしには確認できません。
(一九八二年・勁草書房刊)
May 06, 2006
MY SONG BOOK 水の上衣 清水哲男
風薫る五月である。ある偶然から懐かしい詩集を出してきました。わたくしが二十代、詩人清水哲男三十代・・・・・・大昔の詩集となる。(ごめんなさ~い。)そしてそれは「革命」や「青春」という言葉にかげりが見え始めた季節ではなかったろうか?実はこの詩集のなかに「美しい五月」という詩があるのです。まず全文をご紹介します。
美しい五月
唄が火に包まれる
楽器の浅い水が揺れる
頬と帽子をかすめて飛ぶ
ナイフのような希望を捨てて
私は何処へ歩こうか
記憶の石英を剥すために
握った果実は投げすてなければ
たった一人を呼び返すためには
声の刺青を消さなければ
私はあきらめる
光の中の出会いを
私はあきらめる
かがみこむほどの愛を
私はあきらめる
そして五月を。
この詩のなかに隠されているものをわたくしはおそらく正確には把握できていないだろう。「愛」は友人に向けたものか、人間すべてに向けたものか、あるいはたった一人の女性に向けたものかで、この詩の全体の解釈は大きく変わる。全部でいいんじゃないのとも思うけれど。。。
「五月」はおそらく一九六八年(昭和四十三年)のフランスの五月革命ではないかと思うが、また青春の終末期の予感のような悲しみが降ってくる季節であるとも言える。最後の六行は、そのままそれぞれの心の歴史にも投影されてくる。ひとはこのような季節を繰り返しながら生きてきたのではないのだろうか?エリオットは「四月はいちばん無情な月」なんて言っていたけれど、ある時間の区切りに「言葉」を与えるということは、次の季節へのいざないではないだろうか?
美しい詩である。
(昭和四十五年・限定二五〇部・非売品・・・編集正津べん?)