Aug 31, 2006

現代詩手帖九月号を購入。

特集は恒例の「現代詩の前線」
例によって最も有名だと思われる詩人の新作が満載です。

まず掲載された詩作品を通読。
印象に残ったのは、巻頭に掲載された谷川俊太郎さんの「詩人の墓」、
粕谷栄一さんの「もぐら座」、井坂洋子さんの「性愛の笑劇」、
城戸朱理さんの「失題」、和合亮一さんの「ゴールド・ゴールド・ゴールド」。
あと平田俊子さん、野村喜和夫さんなどは一目見てこの作者とわかり、
やはり読まされますね。
投稿欄では近藤弘文さんと広田修さんが良かったです。
また、小特集「いま、この詩集」では、ベテランによる濃厚な論考に加え、
若手による新鮮な論考が目を惹き、読み応えがあります。

さて、大量の詩を一気に読んだのですが、
何故このテーマを書くのに、詩という方法を選んだのだろうと疑問に思う作品が幾つかありました。
寧ろ詩よりもエセーや論文、小説などの方法で表現した方が適切なテーマなのでは?
という作品を読むと、複雑な気持ちになります。
詩人ですから、どんなテーマであろうと詩で表現するのが一番やり安いのだと思います。
しかしそれが詩で書くべきテーマでないのなら、それに適した表現方法で書くべきか、
あるいは書かないべきなのではないでしょうか。

とは言え、誰もがそんなに器用に書分けられる筈はなく、大体言ってる私自身がそうです。
また詩人が書いた、殆ど詩としか思えないエセーや論考も、実は面白いと思います。
しかしその場合、例えばエセーで書くべきテーマを詩で書いたなら、
それは詩ではなく、エセーとして発表するべきではないでしょうか。
せっかく数少ない詩の専門書なのですから、他紙では決して味わえない、
詩でしか表現出来ないことを表わした作品をより多く載せて欲しいところです。
実際、今回掲載されている人の多くは、詩手帖以外にも書く場があるであろう方々ですので、
エセーで書けるものは、他の場に発表して頂いて、ここではど真ん中の「詩」を発表して欲しいものです。

ここまで書いて、ふと画家フリーダ・カーロのつけていた日記のことを思い出しました。
それは絵日記であり、発表するつもりなど毛頭なかったのでしょう、
鬼気迫る絵で日々のあからさまな心情が描き殴られた物凄いもので、
この日記こそカーロの最高傑作と言う人もいます。
しかしあれは画家の書いた、あくまで日記です。
絵画に分類するべきではありませんし、日記として見た時、真の凄さがわかるのでしょう。

…さてさて人のことより、私も詩でしか表現出来ない詩を書かなくては。
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Aug 27, 2006

おおっ。

夜が涼しい!!

遅ればせながら、最近話題の小説家、伊坂幸太郎を読んでます。
今のところ、「オーデュボンの祈り」「ラッシュライフ」「重力ピエロ」
「陽気なギャングが世界を回す」の四冊。
大体、書いた順に読んでいる形です。
というのは、一番最初に読んだ「オーデュボン…」の解説に、
そのあとの作品とリンクする部分が出てくると書いてあったので。

まず著者の実質的なデビュー作「オーデュボンの祈り」(新潮社)ですが、目茶目茶面白いです。
一応ミステリと言っていいと思いますが、ほかにもさまざまな要素が絡まり合っていて、
純文学や青春小説、SFなどの読者にも問題なく薦められます。
とにかく仕掛けがいっぱいなので、あまり詳しくは書けませんが、
とりあえず、案山子と島と殺し屋が出てきます。
ほかにも曲者が山ほど登場して、目まぐるしく話が展開し、飽きさせません。
とりあえず、この作品を読んで面白くなければ、あとの作品は読まなくていいと思います。
お次は「ラッシュライフ」(新潮社)。
このタイトルを見ると、ジョン・コルトレーンの曲が連想されますが、
ずばりその曲から取られているようです。
しかしそれだけではないところから、物語が広がっていきます。
様々な人生が入り混じって絡み合って繋がってくる、言わば群像劇でしょうか。
その緻密さが見事で気持ちいいです。
一応ミステリと言うことで、殺人が出てきますが、決してそれが中心ではなく、
あくまで様々な人生の交錯が描かれています。
そして上にも書きましたが、前作の登場人物がひょいと顔を出したりして楽しい。
次は「重力ピエロ」(新潮社)。
これは放火事件を中心に話が展開します。
著者はこの作品で直木賞候補になりました。
タイトルもまた秀逸ですね。
この著者のプロフィールをみると、出身は千葉県のようですが、
小説の舞台はみんな仙台なんですね、何故か。
仙台という街を通じて、みんな何処かで繋がっているのです。
しかしこう立続けに読んで行くと、だんだん作者の手のうちが見えてきて、
先の展開が読めてしまうのはちょっと残念です。
ミステリと言う要素から、ここら辺は仕方ないのでしょうが。
しかしそれだけではない小説なので、充分読み応えはあります。
最後に「陽気なギャングが地球を回す」(祥伝社)。
これは今年映画化もされたようですね。
ずばり痛快クライムノベルです。
演説の達人の喫茶店マスター、天才すり師の若者、相手の嘘を全て見抜ける男、
天才的な運転技術を持つ主婦、この四人が組んで銀行強盗チームを組みます。
ほら、もうなんか痛快っぽいでしょ。
もちろんここでも著者一流のトリッキーな展開が存分に発揮されて、
一気に読み尽くせます。
この作品はどうも著者の処女作を改編したもののようですね。
ですから、この中では一番最初の話と言ってもいいかもしれません。
ちなみにこの作品で起こる事件なども、やはりほかの三作品に微妙に関係しています。
・・・という事で、なるべく内容に触れないように紹介しました。
とにかく「オーデュボン…」あるいは「陽気な…」から、紹介順に読んで行く事をお勧めします。
この四作品までは既に文庫本になっていて、リーズナブル。
私はいま「アヒルと鴨のコインロッカー」を読んでいるところ。
全作品読破したら、また紹介します。
今日はお酒を飲んだ頭で書いたので、文章がだらだらしてしまいました。
ん、いつもと大して変らないかな。
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Aug 23, 2006

がーん。

パソコン壊れました。
なんか黒くて四角い部品が火を吹きました。
電源、入りません。
入院です。
ううう。
ここだけの話、やっぱ激安パソコンは危ないっすよ。
お金の許す限り、メーカー品を買うことをお薦めします。
…で、いまは昔使っていた98を引張り出してきて書いているのですが、
このパソコンも、いつ止まるかわからない…。

高田昭子さんが、灰皿町のご自身のサイトの中に、
私の詩集への贈答詩を書いてくださっています。
http://www.haizara.net/~shimirin/blog/akiko/blosxom.cgi/greeting
このように、私の書いたものからインスピレーションを得ていただき、
新しく作品が出来上がるのを見ることは、とても嬉しいです。
書いてくださった詩の中には、私が書いた詩の言葉が散りばめられてて、
とても幸せそうにしています。
是非、一読のほどを。
ちなみに高田さんには事前に連絡を頂き、私が承諾した上で掲載されています。

先日の日曜はPSPの合評会でした。
夏と言うこともあってか(?)、さらっとした作品が多かったような気がします。
ちなみに私も、いつもの半分ぐらいの長さの詩を持って行きました。
今回感じたこと。
詩は自己表現であり、言葉を使ってそれを実現しようと言うものですが、
詩を書き、推敲し、詰めていくと、
なかなか自分が表現しようとする感覚に届かなくて苦心します。
最後のほうになると、
あとひとつ完璧な言葉が出れば完成するのに、それがどうしても出てこない、
なんてことになります。
逆に失敗作だと諦めていた詩が、ふと浮かんだひとつの言葉によって、
いきなり完成してしまうこともあります。
こういうことを見ると、最初の直感と、最後の一押しで、
詩が詩足り得るかの大方が決まってくるような気がします。
この二つのことは、技術的と言うよりも、奇跡に近い類のことでしょう。
同時に詩を書いていて、一番恍惚とする瞬間でもあります。
「ああ、俺って天才…」なんて。
勘違いなんですけどね。
そんなことを日頃感じながら、合評会に参加して参加者の作品を拝読すると、
「ああ、ここにあと一言、最高の言葉が入ったら」とか、
「もうちょっと突っ込めば最高の詩になるのに」とか、
そんな感想を持ってしまうことが多いです。
PSPの参加者は優れた書き手の方ばかりですし、
もとより作品の完成度は非常に高いので、
余計に読み手として、そんな贅沢かつ、過酷な要求を感じてしまうんですね。
無理難題とはわかっていながら。
もちろん、その要求は結局自分にまともに返ってきて…。
たかが詩、されど詩、と言うところでしょうか。
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Aug 19, 2006

このブログも盆休みでしたが、

そろそろ再開することにいたしませう。

斎藤恵子さんの第二詩集「夕区」(思潮社刊)を読みました。
前詩集の「樹間」より、斎藤さん独特の世界がはっきりと姿を現してきた作品です。
その世界はなんとも静かで不可思議であり、
空気には薄い悲しみが溶けて漂っているようです。
心象風景ともいえるフィクション性の高い世界ですが、なんとも奇妙な魅力があり、
また、不自然さが全く感じられないのは、著者の筆力の高さを再確認させられます。
その世界で詩人の魂は色々と姿を変えながら、様々な事象を経験し、
その不可思議さの奥に向って、言葉を触手のように伸ばし、何かを掴もうとしています。
フィクション性の高い世界でありながら、そこには確かなリアリティがあり、
なので読み手も知らず知らずのうちに、一緒に手を伸ばしてしまいます。
掴もうとするものは、生まれたときに失ったもののようでもあり、
また渡されなかったもののようでもあり、
あるいは…と、自分の内にあるものを探しながら、色々と思いを馳せさせられます。
このあたりの、読み手の心をさりげなく動かしていく手腕も見事です。
さらにこの詩集では、詩のスタイルのバリエーションも豊富になり、
詩集内の小宇宙を立体的に確立することに成功しています。
自分の世界を持っている人の作品は、読んでいてとても安心できます。
わざわざ強い言葉を使わなくとも、その世界を描くだけで、
著者の思いが伝わってきます。
なかなか読みにくい詩集と言うジャンルの中で、作品集として明確な姿を持ち、
受け入れやすく、かつ内容に深みがあるこの詩集の存在は貴重です。
なにより読んでいてとても面白い。
繰り返し読める詩集としてお薦めします。
Posted at 00:05 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Aug 13, 2006

盆休み

ですねー。
皆さんどうお過ごしでしょうか。
私はいつもの週末と変わりません。

池井昌樹さんの新詩集「童子」を読みました。
私は池井さんの詩集は前詩集の「一輪」だけしかもっておらず、
それ以前の作品は殆ど読んだことがありません。
正直、「一輪」の大部分を占めている七五調のリズムに、
私はなかなか慣れることが出来ませんでした。
今回も「童子」でも同じく七五調のリズムが下地となっていますが、
しかし意外にも読みにくさはほとんど感じられませんでした。
これは私が池井さんのリズムに慣れたというよりも、
書き手の中でこのリズムを血肉とすることに成功したのだと思います。
最早池井さんの詩の世界の中で七五のリズムは、風や水と同じく自然な要素としてあり、
特別意識されなくなると、そこは読み手にとって非常に心地よい空間です。
また、派手さはなくても、否応なしに覚えさせられてしまう魅力的な言葉があちこちにあり、
一度読んだだけで、もう随分長いこと繰り返し読んできた詩集であるように錯覚します。
この詩集からは、ふわりと浮いたイメージを感じました。
例えば鳥が空に向って勢いよく上昇していって、
ふと羽ばたきをとめて空中に静止状態になり、
あたりをくるりと見渡しているような、そんな印象。
この詩集の中で詩人は、何処へ行こう、何を見ようという意識よりも、
空中にしばし静止してあたりを眺めているといった様子です。
そのとき詩人は、確かにある程度の年齢を重ねてきたひとだとわかるのに、
瞳だけは今まで経てきた年齢を自在に行き交えるように、
あらゆる視点を回遊しながら現在からの眺めを見渡しています。
勤め人として夫として父親としての一日、そんな個人的な風景のそれぞれの場面が、
詩人に吐かせた言葉は人肌のように柔らかく、
様々な生活をする人へと届いていくのではないでしょうか。
読み進めていくにつれ心が静まっていく、とても読み心地のいい詩集です。
Posted at 00:52 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Aug 08, 2006

すっかり真夏ですね。

高校野球、私の地元の横浜高校はいきなり派手に負けてしまいましたが、
夏はまだ当分続きます。

高橋順子の「時の雨」を、高田昭子さんにお借りして読みました。
いまから10年ほど前に上梓された詩集です。
内容の多くの部分に、当時49歳にして結婚した夫車谷長吉が関わってきます。
しかし到底新婚さんの詩集などとは呼べません。
車谷長吉は直木賞も受賞した私小説作家であり、よって非常に変わり者です。
多分夫婦でなくても、親しく付き合うにはしんどい相手であると思われます。
加えてこの夫が結婚して2年4ヶ月後、強迫性神経症という病気を発症します。
私はこの病気を詳しくは知りませんが、
近くで生活する者に多大な負担をかけるものであることは間違いありません。
そういった連れ合いを真横において、この詩集に収められた作品は書かれていきます。
生活が、膜を破って詩人の聖域に押し入り、どす黒く膨らんだ言葉をぼとりと落としていく。
しかし高橋順子は、そういった状況でも、不思議な距離感をもって、
自らの生活を見詰めています。
そこに連ねられる言葉は、明るさすら伴ったもので、
読み手に生活の生々しい色や辛さを押し付けるものではありません。
例えば旦那のことを、ひたすら男と書きますし、自分のことを女と書きます。
強迫神経症、と書くとき、まるで看板に書かれた字を読み上げるように、
淡々としています。
しかしそれが逆にリアルさをかもし出して、引きずり込まされます。
私は最近、「高橋順子詩集成」もまた高田さんにお借りして読んだのですが、
そこに収められたどの詩よりも、「時の雨」は読みやすく書かれています。
読んでわからない詩はありませんし、考えることすらせずに読み進められます。
本当の現実に対面したとき、こぼれ出す言葉は、技術を通り越して、
読み手の内まで滑り込む力を持っているようです。
…なんてくどくど書きましたが、一言で言ってしまえばこの詩集、文句なく面白いです。
まるで自分の不幸をネタに笑い話をしているよう、夫婦漫才の雰囲気すら感じさせます。
実際には非常に辛い時期だったのでしょうが、
狂った男と、それにくっついてパタパタと走り回る女、
というような絵が見えてしまって、あちこちでくすりとしてしまいます。
目茶目茶大変な目にあったとき、泣いてなんかいても仕方がない笑ってしまえ、
という感じでしょうか。
余計な説明など不要、できればここに全文を書いてしまいたいくらいですが、
無理なので、どこかで見つけたら手に取ってみてください。
読売文学賞も受賞している詩集ですから、ここを読んでくださっている方々にすれば、
何をいまさら、という感じかもしれませんが、もし読んでいない方が居られたら、
是非お薦めします。
特に詩はよくわからないと感じている方、つまらないと感じている方にお薦めです。
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Aug 04, 2006

現代詩手帖8月号を購入。

特集は台湾現代詩。
副題として「アジアのクレオール文学」とあります。
詩手帖では現在、<クレオールな詩人たち>と題された連載が進行中で、
とりあえずこれのアジア版ということでしょうか。

<クレオールな詩人たち>では南米の、
普段は読むことのできない詩人たちの作品に触れることができるので、
個人的には好企画だと思って読んでいました。
ここで紹介される詩人たちは、私たちとは全く違う環境で育ち、
全く違う価値観の中で生きてきた人たちです。
その人たちが描こうとするもの、その書き様は、私たちとは随分違って見えます。
そういう作品を読んでいると、詩は差異そのものなのだなあと、改めて感じます。

詩は散文などより自由であるぶん、共感を求めるよりも、
自分が他の人と違うことの証を表現することが多いと思います。
そういうものが書かれますから、他人が読むと、非常にしんどい。
これは、詩を読むという行為が、
人と人の差異を越えようとする行為そのものであるからだと思います。
男が女のことを本当に理解することは難しく、またその逆もそうです。
同じく人種や宗教などの様々な差異を理解することも、大変難しく、時間を要する行為です。
まして個人を丸ごと理解することなど、夫婦や肉親ですら困難なことです。
(しかしそこらへんを上手く誤魔化し(?)ながら、私たちは社会生活をしています。)
ですから個人そのものが表現された詩を読むことがしんどいのは、当たり前なのでしょう。
ある意味、詩を読むという行為は、一種の挑戦にも似た行為と言えそうです。

<クレオールな詩人たち>などに出てくる異国の詩人たちの作品を読むとき、
一度自分の価値観を完全にオフにして読んでみると、意外と読めることに気付きました。
もちろん完全に理解することは難しいのですが、その差異を感じることの魅力も発見されます。
また「ああ、これはわかる」と感じられる部分も逆に増えて、すると結構楽しいです。
そこで日本で書かれた、所謂難解と言われている詩の方にシフトして、
同じように読んでみると、これも意外とすんなり入ってくるものがあることがわかりました。
すると、難解と言われている詩の中にも、
自己を表現しようとして正面からぶつかっているものと、そうでない、
単なる真似事にしか見えないものがあることに気付きます。
何故か今まで、全くわからない、と思っていたものほど、面白く思えてきます。

私が詩を書くとき、差異そのものをストレートに出すことは避けてきました。
もちろん差異を書きはするのですが、読者を意識するとき、
それを正面からぶつけるのではなく、なんとなく紙飛行機のようなものに乗せて、
読み手がもつであろう、自分とは別の差異へ放り込んで、そこで新しく作用すればいいなと。
今でもその考えは変わりませんが、しかし正面からそれを表現できないのは、
その勇気がないからかもしれません。
詩を書くということは、大変勇気がいる行為です。

しかし、詩を読むのがしんどいのは当たり前、と限定してしまうと、
また戸惑いがあることも事実です。
やはりしんどさを感じずに読める作品も必要だと思いますし、
私はどちらかといえばそちらに属していたい。
軟弱な物言いかもしれませんが、やはりバランスなのでしょうか。
一方が重量を増しただけ、もう片方にも重量が必要。
どちらかが重過ぎれば、滑り堕ちて行ってしまうのかもしれません。

あら、全然詩手帖の感想になっていませんでしたね。
あしからず…。
Posted at 00:28 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Aug 01, 2006

昨日は月イチ恒例の合評会。

今回は比較的シンプルな作品が多かったような気がします。
暑さの所為でしょうか(笑)。

今回自分の出した作品は少々長い作品で、
反省すべきは細かな言葉づかいへの注意を怠ったことでした。
詩の中の言葉は、たったひとつでも大きく全体を左右する力を持ち、
そこに的確な言葉を持ってこれるかで、
その作品が、作品足り得るかを決定するほど重要です。
私は今回それを複数の箇所で決めきれず、
結果として全体をうまく束ねることが出来なかったようです。
思い切って言ってしまえば、詩の言葉は奇跡がないと成立しないと思います。
実際素晴らしい作品に出会うと奇跡のような力を感じますし、
それを感じたときに、読み手の心はぐっと開かされるのだと思います。
だいたい詩のような短いテキストで何かを言い尽くすのには、
奇跡のような力が働かないと成されないとも思います。
そして言葉には、その奇跡を呼び込む力があるものだと思います。
自分の作品は勿論ですが、他の人の作品を拝読していても、
ここにもっと凄い言葉を持ってこれたら、とか、
最後の一行がもっと良ければ、これは奇跡のような詩になるのに、
なんて思ってしまったりします。
もちろん、それは恐ろしく難しいことなのですが。
しかしやはり、自分の表現したいことを表現しきるためには、
たったひとつの言葉にも全身全霊で対峙しなければならないことは確かだと思います。

二次会では、今回もTさんと大激論!!
「違う!それは全くの誤解!」
「だからその先を言えって!」
「新鮮であることと新しいと言うことは…!…!!……!」
別に喧嘩しているわけではありません、念のため。
平和主義の私はなかなか本音をぶつけられる相手がいないので、
Tさんは貴重な存在です。
仲いいんですよ。
次回また激論できるのが楽しみです。
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