Jan 30, 2006
現代詩手帖2月号を購入。
特集のひとつは「日欧現代詩フェスティバルin東京」それに伴って欧州の詩人の作品が多数載せられています。
そのうちジャック・ダラス氏とジャン・ポルタント氏の二人の訳を、
有働薫さんが手掛けられています。
取り上げられたどの詩人も、
普段はなかなか作品を見ることが出来ない方ではないでしょうか。
日本語しかわからない私のような者には、
こういう企画は結構嬉しいです。
有働さんは表紙にもお名前が出てますね。
久谷雉さんはいつもの映画評のほかに、
「「詩」を保証するもの」というエセーを書かれています。
現代における、詩とその書き手の距離の変容についてなど、
やさしい言葉で鋭いことを書かれていて、必読です。
詩誌月評には海埜今日子さん参加の「hotel 第2章」、
PSPの竹内敏喜さん参加の「紙子」が登場。
「hotel 第2章」からは「鳥窓」が、そして「紙子」からは竹内さんの「白日」が
全篇引用されています。
竹内さんと話したところ、「いや、短いから載せてくれたんでしょう」
なんて笑ってましたが、私はとてもいい作品だと思います。
最終行の「花は失せた、闇がめくれた、しみついた」なんて、ぐっと来ます。
先週末は、同人誌「ル・ピュール」をお世話になった方々にお送りしました。
早速メールにて届いたことをお知らせ頂いた方々、どうも有難うございました。
1号の時は送る人がいなくて寂しかったのですが、
今回はたくさん送る人がいて楽しい作業でした。
しかし梱包するたびに、
「送られたら迷惑に思うだろうか」
と一抹の不安を感じずにはいられない自分がいます。
送りつけられた方、私のは後回しにして、
他の同人の方の作品を読んでみてください。
特に2号はいい作品が揃っていると思いますので。
それから私がお送りした方の中で、
「もう別の人からも貰ったよ」と言う方がもし居られましたら、
良さそうなお友達に分けてあげてください。
年末に思潮社さんの営業の方にお願いしていたこともあって、
先週あたりから、地元の大型書店、Y堂とK書店に、
拙詩集を置いてもらっています。
特にY堂は驚きの10冊平積み!
…いや、そんなに置いていただいても売れないと思うのですがね。
なんだか申し訳ない気分。
一冊ぐらい売れたのだろうか?
はたまた一冊たりとも売れていないのか?
二度ほど様子を覗いてみましたが、後者の可能性が大のようです。
まあ、置いてもらえただけでもこの上ない幸せ。
その後のことは、考えないことにしましょう。
Jan 27, 2006
先週の土曜日、
関東地方には雪が降りましたが、その日、私は高円寺へ行きました。
灰皿町の住民でもある白井明大さんの詩の朗読舞台
「ナマエハナンデモイイ」を見に行ったのです。
白井さんは一昨年、詩集「心を縫う」を上梓した詩人さんです。
「心を縫う」は、生活を共有する男女の、
ふとした意識の接点が描かれた作品集で、
私も時折無性に読み返したくなる一冊です。
その世界は繊細で、耳をじっと澄まさなければ聴こえない音、
目をじっと注いでいなければ見えてこないものなどを、
白い糸でそっとその形をなぞるように写し取っています。
会場はビルの地下にありました。
恐らく10メートル四方ほどの部屋の手前に客席、
奥には白く塗られた小さめの舞台があり、
そこに机と、二脚の椅子だけが配され、
机の上には白い食器が置かれていました。
この清潔な舞台の様子は、
白井さんの詩が持つ世界にぴったりです。
ここで「心を縫う」の収録作を中心に、
白い衣装で統一した6人の俳優さんが、
それぞれやわらかく詩を演じられました。
詩を言う形態は様々で、
あるときは男女が向かい合って詩を発しあい、
あるときは椅子に座って朗読する女性の言葉に、
別の男女がゆっくりと共鳴して動き、
またひとりで客席に向って詩の言葉を発したりといった具合です。
演じられた詩の多くを私は既に活字で読んでおり、
あ、これはあの詩だな、と嬉しくなるのですが、
しかし紙の上の言葉を追うのとはまた違ったリアルさで、
それらの言葉は聴こえてきました。
俳優さんの動きと発声は非常に洗練されており、
所謂リーディングのそれとは一線を画すものでした。
さらに詩の内容を明確に理解された上で演技されますので、
演じられる内容の節々から、
こちらの内側にまで詩の「声が聴こえて」きます。
言葉が「聴こえる」というのは、気持ちのいいことなのだなあと、
改めて気付かされました。
そこで聴こえていた言葉は、雑多な日常の表面にいては聞こえてこない、
しかし生活する人たちの一つ向こうに隠れているような言葉です。
だから恐らく見覚えがあり、
こちらの内側の何処かの場所にすんなり収まる感覚で、
それがまた気持ちいいのでした。
紙に書かれた詩の言葉であっても、
声質は持っていると思います。
ですので詩の言葉を実際に声に出して表現する場合、
詩の言葉が持っている声質に忠実に発声しないと、
詩の言葉はかえって聴こえなくなってしまうと思います。
年末に見た和合亮一さんの詩の舞台では、
和合さんの詩の言葉には強い声が適していると思いましたが、
白井さんの詩の言葉には、
ちいさくぽつぽつと言われる声が適していると思います。
詩の言葉の声質は、十人十色違うのでしょう。
その点では、今回の小さな舞台で、
それほど大きな声を使わないで行われた演技は、
とてもうまくいっていたと思います。
舞台の後半は、実作者の白井さんが舞台に現れ、
始めは立って、ついで椅子に座って詩を朗読されました。
私は今回、白井さんの朗読に初めて接したのですが、
白井さん自身の声も朴訥としたいい声で、
その世界を聞き手に受け渡すのにぴったりでした。
私が感じ入ったのは「シーソー」という詩。
この詩は「心を縫う」に収録されている作品です。
男性の心のつぶやきでこの詩は進んでいくのですが、
時折、共に生活する女性の実際的な声が入ります。
その声は、明るかったり落ち込んでいたりのニュアンスを持った声で、
詩集では、行中に大きく段差をつけることによって、
そのニュアンスが表現されているのですが、
朗読では、女優さんがその声の担当をします。
劇団で活動されている俳優さんなので、
たった一言の声のニュアンスを、とてもうまく表現され、
ああこの言葉はこういう声だったのだなと、
またその声を聴いていた言葉は、こういう声だったのだなと、
胸がすくような気分にさせてもらいました。
と同時に、
活字で声のニュアンスを表現することがいかに難しいかを、
再認識させられもしました。
言葉と声から煙のように世界が立ち上って客席へと届いていく、
とてもいい舞台でした。
白井さんは今年、沢山のことを考えておられるようで、
どのような活躍が見られるのか非常に楽しみ、
既存の詩の可能性の枠を、
ぐんと押し広げてくれそうな予感が私はしているのです。
「ル・ピュール」2号に掲載された作品もその兆候を見せており、
今回の舞台は、助走の最終段階を見るようでした。
期待してますぜ、白井さん。
Jan 24, 2006
関東地方の大雪も、
一日でほぼ溶けてしまいましたが、あちこちの街角に残された雪だるまは、
まだもうちょっと頑張るようです。
昨日(22日)は、今年最初のPSPクラブの合評会の日。
いつもながらハイレベルな作品が寄せられました。
特に高田昭子さんの作品は素晴らしく、
もうなにも言うことがなくて困ってしまうほどのものでした。
高田さんは完全にご自分の世界を構築されていて、
読み手としてはなんの疑いもなくその世界に入って行け、
眺めを楽しむことが出来ます。
評するよりも、すっかり読者になってしまうのです。
そしてこの合評会から生まれた同人誌「ル・ピュール」の2号が遂に完成、
水仁舎の北見さんより各同人へと配られました。
今号は前号より執筆者が増え、
様々な世代の総勢10名が作品を競っています。
頁数も前号の27頁から39頁に増えて、読み応え充分。
作品の質もさらに上がっています。
灰皿町の方では、有働薫さん、高田昭子さん、白井明大さんが参加されています。
ちなみに表紙のデザインは、
水仁舎のホームページ「本造りの水仁舎」の、
1月23日付ブログで見ることが出来ます。
二次会からは久谷雉さんと手塚敦史さんが合流。
これまたいつも通り、
約6時間に渡って詩談議に華を咲かせました。
そして今回は久谷さんが新しい仲間、小橋みきさんを連れてきてくれました。
小橋さんはミッドナイトプレスの「詩の教室」から出た新人の方で、
今出ているミッドナイトプレス30号にも、小詩集が組まれています。
まだ19歳(!)とのこと。
にもかかわらず、すれた大人たちの遠慮のない言葉の応酬にも、
姿勢よく笑顔で対応していた姿が印象的でした。
PSPクラブに新しい風を吹かせてくれそうです。
Jan 21, 2006
朝起きてみたら、
雪ですわ。関東地方は、この冬初めての雪ですね。
しかも結構積もってたりして、
灰皿町のトップページと同じ景色になりました。
びっくりしたので、
珍しく昼間にブログを書いています。
昔は朝起きて雪だとはしゃいだもんですが、
いまは窓の外の一面の銀世界をみて、
マジかよ…と嫌な顔をしている自分がいます。
今日は都内までお出かけの予定なんですがね、
なんでこういう日に限って雪なんですかね。
それにウチは、駅まで20分も歩かなければならないのです。
バスもこんな日はあてにならないし。
駅に着くまでに、靴がぐしょぐしょになってしまう…。
それより、転ばなければいいのですが、
たしか靴の底が磨り減っていたような。
しかし日本海側の方々に言わせれば、
こんな雪は雪のうちに入らないのでしょう。
天気予報によると今日いっぱいで止むようですし。
せっかくなので、
今日は全身で雪を満喫してくることにします。
Jan 17, 2006
先日、古本屋で、
「芸術新潮2000年12月号」を買ったんですが、この号の特集は「世紀の遺書」でした。
秀吉や千利休から、藤村操、太宰、芥川、永山則夫、澁澤龍彦、手塚治虫、
2・26事件青年将校、日航機事故犠牲者、特攻隊員など、
他にも多くの遺書や絶筆の写真が掲載されており、
不謹慎ながら、どれもそれぞれに美しさを放っています。
遺書と詩は、
なんだか非常に似通ったもののような気がします。
特に陸上選手の円谷幸吉の遺書などは、
同時に詩であるとも言い切ってしまえそうな、美しいものです。
私はこの遺書を学生の時に漫画で読んで、
その文章の美しさに心打たれたました。
この遺書の言葉やリズムに、
今の私の言葉は、幾らかの影響を受けていると思います。
「お前が一番凄いと思う詩は?」と問われたら、
この遺書を挙げるかもしれません。
田村隆一が死の直前に書いた文字は、
ジョン・ダンの「死よ、おごる勿れ」という言葉でしたが、
これは、田村の全詩の終止符として、
その仕事と繋がったものであると思います。
しかし田村は、最後の言葉が他者の言葉だったとは、
なんだか不思議なような、なるほどわかるような。
詩の言葉とは遺書と同様に、
死と繋がった言葉を指すのかもしれません。
だから詩人は、死にそうな振りをしながら書いているのでしょうか。
もちろん詩を書いたからと言って、
死んでしまうわけではないですが、
私は随分長い遺書を書いているような気がします。
今どこらへんを書いているのか見当もつきませんが、
まがりなりにも書き始めてしまったからには、
この先何処かに、何らかの形で絶筆があることは間違いなく、
最後は田村のように書ければ格好いいですね。
まあ私の場合は、ぐだぐだになって仕舞いでしょうが。
死の直前とは、
当然特別な精神状態にあるのですから、
そこから出てくる言葉は、
曇りなくその人の全てを表す言葉です。
詩人はそのような言葉を生み出そうとするのでしょうが、
この本の中の、凄まじい文字の数々を眺めていると、
そこに本当の死がなければ、どうやったところで、
結局は紛い物に過ぎなくも感じられます。
あるいは詩は、
遺書の言葉に到達する手段なのでしょうか。
言葉を学ぶということは、
遺書の書き順を学ぶことである気もします。
年明け間もないのに、縁起でもない話題でした。
Jan 14, 2006
うちのあたりは、
久しぶりに本格的な雨です。今年に入って初めてかな。
私は、詩を書くのに詩を読まないタイプの人間で、
しかしあまり不勉強なのもいけないと思い、
最近は、努めて有名な詩人さんの作品を読むようにしていますが、
そんな中でぼんやり思うのは、
詩には答えが必要なのだろうか、
と言うことです。
私はなにかものを書くとき、
一応その塊の中に、行き着くところ、
つまりある種の答えを求めようとするのですが、
色々な詩を読んでいると、
特に答えを求めていない作品に多く出会います。
殆ど状況描写のみであったり、短い感覚や疑問の羅列だったり、
話の途中で放り出されていたり、
細かく見ていくと優れているようなのですが、
行き着く場所がないために、
私には、全体の形がいびつに見えてしまいます。
この場合の、答え、行き着く場所とは、別に高尚な意味ではなく、
はっきりと言葉になっていなくてもいいのですが、
私はその作品に何かしらの答えが感じられなかったとき、
つまらないと思ってしまうようです。
もちろん私の読解力が劣っているために、
答えが読み取れていないことも多いのでしょうが。
しかし答えが感じられなかったとき、
考えてみれば、詩に答えなんか必要なのだろうか、
との疑問が浮かんできます。
別に答えなんかなくても、
放り出したままだっていいのではないか。
寧ろ無理に答えに結び付けようとする方が、
不自然なのかもしれない。
しかし私は、それではどうもしっくり来ないのですね。
自分で書いているときにも、たとえ前半が会心の出来であっても、
後半を含めた全体の収まりがうまくつかないと、つまらなくなって放り出してしまいます。
自分で書いていてつまらないのに、
他人が読んで面白いわけがないと。
私にとってひとつの詩が完成するのは、
何かしらの答えが感じられたときであるようです。
繰り返しになりますが、
この場合の「答え」とは、高尚な意味での「答え」ではありません。
なんとなく雰囲気的な、全体を環として閉じるものです。
しかしそう思う反面、
それは自分を変に縛っていることではないのか
という疑問も首をもたげます。
本当は答えなんてないのに、
答えがあるように振舞っているだけではないのか、
なんていう疑問にも、またなにかしらの答えを求めていたりして、
性なんでしょうね、こういうのは。
結局は、感情だけで行動できない臆病者なだけかもしれません。
と、まとまらない答えを偽造したところで、
今日はこの辺で。
Jan 11, 2006
風邪をひくにはひきましたが、
特に熱が上がるでもなく、ただ喉が痛いという程度におさまり、
日常生活にはなんら支障をきたすことなく、
年始の日々を過ごしております。
ちょっと報告が遅れましたが、
ネットポエトリーマガジン「リタ」の最新号に、
桐田真輔さんが「人形詩逍遙」という、
人形を題材にとった古今東西の詩に焦点をあてたエセーを書かれているのですが、
その中で私の「糸」という詩を取り上げてくださいました。
考えてみれば、これがネットで全文が読める私の唯一の作品なんですね。
だからどうだということもないですが。
このエセーでは、人形を題材にした沢山の詩を読むことが出来ます。
もちろん、それについての桐田さんの考察も歯切れよく冴え渡って、
長文であるにも関わらずぐんぐん読ませられてしまいます。
未読の方は是非どうぞ。
桐田真輔さんのトップページの一番下から行けます。
そして、今出ている「詩の雑誌midnightpress」30(2005年冬号)に、
私が参加している詩の合評会PSPクラブの発起人、
竹内敏喜さんの小詩集が組まれており、
「徳利」「原色」「嬉々」の三作品を読むことができます。
三つとも私は以前に読む機会に恵まれており、
特に「徳利」と「嬉々」は、とても面白くていい作品だと思いますので、
是非読んでみてください。
私の方も、ぼつぼつと詩を書いております。
私の信条はジジ臭く「継続は力なり」というものですから、
とにかくゆっくりでも絶えず書き続けていれば、
そのうち一個ぐらいいいのが出来るだろう、
つまり「下手な鉄砲、数撃ちゃあたる」という感じで、
止まらず走らず書いています。
しかし、ブログをネットサーフィンしたり、
最近頂いたりするようになった同人誌など見ていると、
皆さん精力的に書かれていますね。
殆ど「量産」と言っていいぐらいの方もおられて、
のんきな私は、恐れ入るやら焦るやらです。
年末年始も、休みの間は結構書いていたんですが、
あとで見直してみると、箸にも棒にもかからぬものばかり。
中には詩を書いていたつもりが、
いつの間にかショートショートみたいになっちゃったりして、
仕方がないから、そのままショートショートにしちゃったりして、
どちらにしても人様に見せられるようなものではなく、
こりゃ、お蔵入りですな
それでもたまに「うまくいった」と自分なりに思えるものが出来たりすると、
俺もなかなか捨てたもんじゃないな、
なんていい気分になったりして、
しかしそれを人に見せると、
あんまりいい反応が返ってこなかったり…
うまくいきませんね。
そういえば、
私の今回の詩集に「四季」という作品が収録されているのですが、
実はこの詩、
当初は入れるつもりではありませんでした。
初校が戻ってきて、
作品の順番を入れ替えたりなどしているときに、
なんか詩集の真ん中らへんが窮屈に思えたので、
力の抜けるような場所が欲しいなと、
言わばバランス合わせのようにして入れた作品だったのですが、
意外にも「いい」と言って下さる方が多くいらっしゃいました。
この作品、
自分としては気に入っていたのですが、
あまりにも平坦でシンプルなため、
人に見せて反応があるものではないだろうと外していたのです。
嬉しい誤算というのでしょうか。
やはり書いた本人が見るのと、他の人の見るのとでは違うようですね。
そんなわけで、もしまた詩集を作ることが出来るとしたら、
作品を客観的に見てくれるプロデューサーみたいな人がいてもいいかな、
なんて思います。
Jan 08, 2006
去年は一度も
展覧会というものに行かなかったことに気付きました。一昨年は幾つか行った気がするのですが。
私は展覧会で絵を見るとき、
その横にある解説文のようなものを読みません。
あれを読むと余計な先入観が出来てしまって、
絵を純粋に見られなくなってしまうのです。
絵描きさんは、
解説文と一緒に見てもらうようには絵を書いていないはずです。
絵描きである限り、
絵だけで伝えるべき全てを表現しているはずですから、
その絵が完成しているのであれば、
付け足すものなど何もないはずです。
だから一切の説明なしにその絵と対峙するのが、
私は正しい鑑賞法だと思うのです。
そして私は一枚の絵を見るごとに、
その絵から自分なりに何かしらの言葉や感情、
また物語のようなものを引き出さないと、
気がすまないたちなのです。
ですから一枚の絵を鑑賞し切るまでにかなりの時間を要し、
展覧会を全て見終わる頃には、へとへとになってしまいます。
最近展覧会から足が遠のいているのは、
体力的な所為もあるかもしれません。
二十代の頃は展覧会のはしごもしていたのですが、
最近はその気にもなりませんね。
そういえば、前は一年に一度か二度は必ず行っていた「川崎市岡本太郎美術館」にも、
去年一昨年と行っていませんでした。
あそこに行くと、なにか自分の中で澱んでいたものが、
全部洗い流されるような気がします。
素人とはいえ、表現などというものをしていると、
いっちょ前に行き詰まりのようなものが出てくるのですが、
そんなものも太郎の絵は、ひょいとリセットしてくれるのです。
岡本太郎の絵については、多くの見方があると思いますが、
私は単純に美しいと思います。
この言い方を太郎は絶対に拒否すると思いますが、
いつもそう感じてしまうのだから仕方ありません。
太郎の絵は無造作に描かれているようで、
しかし実はものすごい技術の上に成り立った無造作であることは明白です。
鮮烈な黄の一線を描き出すために、画面全体にその色を際立たせる色が、
天才的に組み合わされて広がっていたり、
描き出された物体の質感も、寧ろ現実よりも生々しい、
本質的な姿で画面に浮遊していたりします。
それを、見るものに「上手い」という印象を与えず突きつけられるところが、
まずは太郎の凄いところでしょう。
太郎は「下手でいいんだ」と言いますが、
それは完全に血となり肉となった技術と勘を持つ者だけが、
口に出来る言葉ではないでしょうか。
と、そんな面倒臭いこととは関係なく、
太郎の絵は見る者にパワーを与えてくれます。
改めて見回してみれば、
そういう絵は世界的に見てもそうはないのではないでしょうか。
などと書いているうちに、またあのどでかい画面で、
太郎の絵が見たくなってきました。
やはりあの絵は、実物でないと意味がありません。
「川崎市岡本太郎美術館」は、
小田急線の「向ヶ丘遊園」駅下車徒歩約20分、
生田緑地公園内にあります。
まだ行ったことのない方は是非どうぞ。
癒されるのではなく、息を吹き返させられますよ。
Jan 06, 2006
新年二発め
ということで、意気込んで書こうと思ったのですが、
なんだかうっすらと風邪をひいているようで、
ぼうっとしています。
寝込むほどではないのですが、
なんだか喉がいがいがするし、
熱も少しあるのかな。
それでも新年二発めだし、
何か書こうとしてはみたのですが、
文章がまったくまとまらずに諦めました。
この次はちゃんとしますから、今夜はご勘弁を。
みなさん風邪には気をつけてくださいねー。
Jan 03, 2006
新年明けましておめでとうございます。
ちょっと遅かったか。元旦は一日ぐうたら。
今日二日(すでに昨日)は、都心に出て大きな本屋など回ってきました。
目的は自分の詩集が置いてあるのを見に行くため。
まだ置いてあるうちに見ておかねばなりません。
自分の書いた本が本屋に並んでいるなんて、
もうこの先一生ないかもしれないんだから。
新宿紀伊国屋本店と、池袋「ぽえむ・ぱろうる」では、
嬉しいことに平積みにして頂いていました。
新宿紀伊国屋南館と池袋ジュンク堂では、
一冊だけちょこんと本棚に収まっていました。
並みいる詩人さんの詩集に囲まれながらも、
健気に頑張っているわが息子の姿に涙。
いい人に貰われていくことを祈るばかりです。
「ぽえむ・ぱろうる」には初めて行きましたが、流石に品が揃っていますね。
静かな店内には、いかにもといった容姿のお客さんがじっと本棚を見詰め、
詩の聖域というにふさわしい雰囲気をかもし出していました。
広告や名前でしか見たことのなかった詩集や、同人誌の類も多く見られ、
ここで手に入らなければ、何処に行っても手に入らないといった感じ。
そんなところに私の詩集が平積みされているのは、
なんとなく申し訳ないような場違いなような。
こうなると普通なら詩集の一冊や二冊買っていくのが道理ですが、
罰当たりな私は散々棚から色々な詩集を出して眺め倒したにもかかわらず、
結局は何も買わずに退散し、
別の売り場で、2000年に亡くなられた写真家植田正治さんの作品集
「植田正治写真集・吹き抜ける風」を買ってしまうという体たらく・・・。
植田正治は前からすごく好きだったのですが、
なかなかまとまった作品集がなくて困っていたので即買いでした。
最近出たばかりのこの写真集はボリュームも充分、
どっぷりと「植田調」の世界にはまれそうです。
植田正治の写真には詩がありますね。
世界がぴんと沈黙していて、
そこから耐え切れないように言葉が噴出してくる予兆がひしひしと感じられます。
写真集も詩集も、やはり読んでいてわくわくするものでないといけませんね。
いっぺんに見ると勿体ないから、ゆっくり少しずつ見ることにします。
というわけで新年一発目は、他愛のない雑記にて終了。
今年もよろしくお願いします。