Jan 17, 2006
先日、古本屋で、
「芸術新潮2000年12月号」を買ったんですが、この号の特集は「世紀の遺書」でした。
秀吉や千利休から、藤村操、太宰、芥川、永山則夫、澁澤龍彦、手塚治虫、
2・26事件青年将校、日航機事故犠牲者、特攻隊員など、
他にも多くの遺書や絶筆の写真が掲載されており、
不謹慎ながら、どれもそれぞれに美しさを放っています。
遺書と詩は、
なんだか非常に似通ったもののような気がします。
特に陸上選手の円谷幸吉の遺書などは、
同時に詩であるとも言い切ってしまえそうな、美しいものです。
私はこの遺書を学生の時に漫画で読んで、
その文章の美しさに心打たれたました。
この遺書の言葉やリズムに、
今の私の言葉は、幾らかの影響を受けていると思います。
「お前が一番凄いと思う詩は?」と問われたら、
この遺書を挙げるかもしれません。
田村隆一が死の直前に書いた文字は、
ジョン・ダンの「死よ、おごる勿れ」という言葉でしたが、
これは、田村の全詩の終止符として、
その仕事と繋がったものであると思います。
しかし田村は、最後の言葉が他者の言葉だったとは、
なんだか不思議なような、なるほどわかるような。
詩の言葉とは遺書と同様に、
死と繋がった言葉を指すのかもしれません。
だから詩人は、死にそうな振りをしながら書いているのでしょうか。
もちろん詩を書いたからと言って、
死んでしまうわけではないですが、
私は随分長い遺書を書いているような気がします。
今どこらへんを書いているのか見当もつきませんが、
まがりなりにも書き始めてしまったからには、
この先何処かに、何らかの形で絶筆があることは間違いなく、
最後は田村のように書ければ格好いいですね。
まあ私の場合は、ぐだぐだになって仕舞いでしょうが。
死の直前とは、
当然特別な精神状態にあるのですから、
そこから出てくる言葉は、
曇りなくその人の全てを表す言葉です。
詩人はそのような言葉を生み出そうとするのでしょうが、
この本の中の、凄まじい文字の数々を眺めていると、
そこに本当の死がなければ、どうやったところで、
結局は紛い物に過ぎなくも感じられます。
あるいは詩は、
遺書の言葉に到達する手段なのでしょうか。
言葉を学ぶということは、
遺書の書き順を学ぶことである気もします。
年明け間もないのに、縁起でもない話題でした。
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