Feb 27, 2009
生活と芸術―アーツ&クラフト展(続)
東京都美術館における、この展覧会には、ウイリアム・モリスが、1859年に結婚した時に建てた新居「Red House」の写真が展示してありました。それを模倣して建てられたという、金沢の「ステンドグラス美術館」に数年前に行きましたが、それと全く同じ外観でしたので驚くというか、嬉しかったというか?……というわけで、過去ログから写真を探し出してみました。モリスの壁紙が貼られ、大小の窓がすべて宗教画のステンドグラスで出来ていました。小さな教会のような美術館でした。生活と芸術―アーツ&クラフツ展
東京都美術館にて、観てまいりました。ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館との共同企画で約280点が展示されていました。
19世紀後半にイギリスの「国策」という背景をもったデザイン運動「アーツ&クラフツ運動(美術工芸運動)」は、ウィリアム・モリスを中心とするイギリスのウィーン工房からヨーロッパへ、そして日本での民芸運動にまで影響を与えました。
ウィリアム・モリス(William Morris, 1834年~1896年)は19世紀イギリスの詩人、デザイナー、マルクス主義者。「モダンデザインの父」と呼ばれている。
ヴィクトリア朝の時代、産業革命の結果として大量生産による安価で粗悪な商品があふれていました。モリスはこうした状況に対して、中世の手仕事に帰り、生活と芸術を統一することを主張した。モリス商会を設立し、装飾された書籍(ケルムスコット・プレス)やインテリア製品(壁紙、ファブリック、テーブルウェア、家具、食器、カーテン、タピストリー)、ステンドグラス、さらに服飾、封筒&葉書、ポスターにまで及ぶ広範囲な製作をしました。
しかし、庶民のわたくしが思うに、モリスの運動は結局高価な製品を作ることになって、裕福な階層にしか使えなかったのではないか?と思う。生活と芸術を一致させようとしたモリスの思想は各国にも大きな刺激を与え、アール・ヌーヴォー、ウィーン分離派、ユーゲント・シュティールなど各国の美術運動にその影響が見られるということではありますが。。。
また日本の柳宗悦もモリスの運動に共感を寄せ、1929年、かつてモリスが活動していたケルムスコットを訪れたということではあるが、モリスの影響をどのように受けたのかは作品からはよくわからない。柳宗悦はトルストイの近代芸術批判の影響も受けているらしい。ますますわからないなぁ(^^)。
柳宗悦らが昭和初期に建てた「三国荘」の再現展示が目玉のようです。柳宗悦の収集品や若き濱田庄司、河井寛次郎、黒田辰秋らの作品で飾られた室内を見ることができます。
・・・・・・と、言いつつ「マグ・フェチ」のわたくしの今回の収穫はこれでした(^^)。
Feb 22, 2009
プロヴァンシアル(田舎の友への手紙)「第16の手紙」・パスカル
この本との出合いはここから始まった。
天声人語 2009年1月20日(火)
短いコラムを書きながら言うのも気が引けるが、ものごとを簡潔に述べるのは、そう簡単ではない。長い文より苦心することも多い。「今日は急いでいるので長い手紙になってすみません」。そう断って書き出した西洋の賢人がいたのを思い出す▼スピーチにも似たところがある。「1時間の話なら今すぐ始められるが、10分の話は準備に1週間かかる」と、これは米国の28代大統領ウィルソンが言った。ノーベル平和賞を受けた人で、なかなか雄弁家でもあったらしい▼さて、オバマ次期大統領の就任式が明日(日本時間)に迫り、かの地の盛り上がりは最高潮のようだ。祝祭的な華やかさは戴冠式を思わせる。そして就任演説を、米国だけでなく世界が耳を立てて待つ。その演説は長いだろうか、それとも短いのだろうか▼長きがゆえに貴からずの模範は、オバマ氏が仰ぐリンカーンのゲティズバーグでの演説だ。「人民の、人民による……」で知られる不朽の演説は272語、わずか3分だったと伝えられる▼直前に登壇した弁士は2時間の大演説をぶったが、こちらはとうに忘れられた。短さゆえというべきか。リンカーンの言葉は言霊を宿したかのように聴衆をゆさぶった。オバマ氏も十分意識しているに違いない▼あのケネディもリンカーンをお手本に就任演説を練り上げた。「私は」ではなく「我々は」を多く用いた若々しい15分は、歴代で何番目かに短く、名演説の誉れが高い。世の憂さはしばし忘れて、これも歴史に残るであろう明日の演説を興味津々待つとする。
このアサヒ・コムの「天声人語」に、思わせぶりに書かれた「西洋の賢人」 とは誰なのか?気になっていろいろ調べたり、友人に尋ねたり・・・とうとう1月24日の 午後、アサヒ・コムに直接問合せしました。お返事は以下のとおりです。早い対応で した。感謝いたします。
朝日新聞をご愛読いただきありがとうございます。
アサヒコム・読者窓口へいただいたメールですが、
朝日新聞社の窓口である東京広報部から返信いたします。
賢人は「パスカル」です。「プロヴァンシアル」(田舎の友への手紙)の中の「第16 の手紙」に書かれております。これからも朝日新聞をよろしくお願いいたします。
朝日新聞社 東京本社広報部 2009年1月24日-16:18
さて、ここから本さがしが始まりました。
「田舎の友への手紙―プロヴァンシアル―:森有正訳:白水社」というものが県立 図書館にあることをネットで探しあてて、地元の図書館に回送して頂きました。2月7 日、わくわくしながら受け取ってびっくり!昭和24年の本で、セピア色になった本で した。よくぞご無事で。。。しかしながら、この本は原文を翻訳したものではありま せんでした。「森有正訳」ではなくて、全文彼の解説と考察でした。ううむ。もう一 度仕切り直しです。記念写真を撮っておきました。「第16の手紙」はこのようなもの です。
友人が教えて下さったことを頼りに、2月12日に「パスカル著作集・第4巻・プロヴ ァンシアル・教文館:1980年6月刊」をやっとつかまえました。お隣の市立図書館から まわってきました。この「第4巻」に「第16の手紙」が収録されていました。奥付を見 ましたら「配給元・日本キリスト教書販売株式会社」というものがあります。「発行 所・株式会社教文館」とも。「配給元」と「発行所」はどう違うのか?それは出版専 門家にお任せするとして、この手紙は「ジャンセニスム(パスカル)」対「イエズス 会(ジェジュイットの神父たち)」との宗教論争であることから、少しは察しがつく ようだ。
アサヒ・コムでは「書き出し」に置かれていたような表現でしたが、実は手紙の最 後の部分に書かれているのでした。この手紙の最後にはこう書かれています。
「尊敬します神父さま、わたしの手紙がこんなに間なしに出されることも、こん なに長くなってしまったことも例のないことです。わたしにわずかな時間しかなかっ たことが、このどちらの原因でもありました。この手紙がいつもより長くなってしま ったのはもっと短く書き直す余裕がなかったからにほかなりません。急がなければな らなかった理由については、あなたがたの方がよくご承知です。(以下略)」と いうことでした。
手紙は「パスカル著作集」の第3&4巻にわたり、19通の手紙から構成されています が、10通までは「田舎の友への手紙」となっていますが、パスカルが11通からは「田 舎の友への手紙の作者が、ジェジュイットの神父がたにあてて書いた」という前書き の付された手紙となっています。そのなかで最も長い手紙が「第16の手紙・1656年12 月4日」だったということでした。「ジェジュイット」による「プロヴァンシアル」弾 圧を予想しつつこの手紙は書かれています。
「ジャンセニスム」は17世紀以降流行し、カトリック教会によって異端的とされた キリスト教思想。「ヤンセニズム」ともいわれる。神学者コルネリウス・ヤンセン (1585年-1638年)の著作『アウグスティヌス・1641年』の影響によって、特にフラン スの上流階級の間で反響を呼び、その人間観をめぐって激しい論争をもたらした。
パリ郊外の女子修道院「ポール・ロワヤル修道院」が「ジャンセニスム」の拠点と なり、これにイエズス会員たちが反論したため、以後、ジャンセニスム対イエズス会 という図式が出来上がっていく。当時のフランスで「ジャンセニスム」に傾倒した著 名人の中に「パスカル」がいて、彼は「ジャンセニスム」への批判に反論して1656年 に「プロヴァンシアル」を執筆しているということです。その後「ジャンセニスム」 は歴史のなかで幾度も激しい論議の元となり、歴史のなかを彷徨うことになるようで すが、そこまではとても書きつくせません。
訳者の「あとがき」には・・・・・・
『異国の、それも300年前の特殊な時代的背景の前で展開される宗教論争であるが、 (中略)パスカルのいきいきとした筆づかいにのせられて論争の渦中へ身をおいてみ ると、わくわくするようなおもしろさに次々におそわれずにはすまないほどである。 強大な権力をわがもの顔にふるっている、尊大で、しかつめらしい連中が「落ちた偶 像」の醜態をさらすのは、いつの世でも大衆から拍手喝采をもってむかえられる。ジ ャーナリスト「パスカル」はそういう読者大衆の野次馬心理をちゃんと心得ている。 パリの一般市民が、出版のつど「プロヴァンシアル」を争って読んだのは、いうま でもなく著者の卓抜な才覚の思わくにはまったからだ。」・・・と書かれています。
* * *
「パンセ」より。
☆ 隷従は迷信に通じる。このどちらもが宗教を破滅に導く。
☆ 真理が破壊されているときに、平和のうちに安らっているのもまた罪であることは明らかである。
《追記》
「教会こそ、イエスがそれに反対して説教し―またそれに対して戦うことをその使徒たちに教えたもの、まさにそのものである。」 (ニーチェ・「権力への意志」)
Feb 12, 2009
青春のロシア・アヴァンギャルド
埼玉県立近代美術館にて、観てまいりました。ここは北浦和公園(旧埼玉大学跡地)のなかにあって、樹々と美しい「音楽の噴水」という楽しみもあるところです。「モスクワ市近代美術館」所蔵の、およそ100年前のロシアの若き画家たちの作品70点(うち、ニコ・ピロスマニの作品は10点、特設コーナーとなっていました。)の展示です。
(農婦、スーパーナチュラリズム:カジミール・マレーヴィチ:1020年代初頭)
さて、「ロシア・アヴァンギャルド」とはなにか?
20世紀初め、帝政への不満からロマノフ王朝の崩壊、ソ連誕生という革命の機運の高まる時代にあって、若きロシアの画家たちは西欧のマティス、ピカソに学び、さらにその先を行く前衛芸術を目指したものの、スターリンの登場とともに衰退する。亡命する者、この運動の代表的な画家であった「カジミール・マレーヴィチ」は具象に戻る。「いずれにせよ、画家たちは政治と無縁ではなかった。」とは、トルストイの言葉である。
ではこの「ロシア・アヴァンギャルド」に、何故グルジアの画家「ニコ・ピロスマニ」が登場するのか?その時期の若きロシアの画家たちがピロスマニに夢中になったのは、そのボヘミアン的生き方への憧憬と尊敬があったのではないか?モスクワ市近代美術館は、1999年に開館。「ロシア・アヴァンギャルド」の作品を中心に収蔵、展示。初代館長を務めたグルジア出身の彫刻家、ズラーブ・ツェレテーリ氏が海外から買い戻した個人コレクションが基になっている。この初代館長のもたらした幸運だったのか?
(小熊を連れた母白熊:ニコ・ピロスマニ:1910年代)
ニコ・ピロスマニ(1862年~1918年)は19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したグルジアの画家。彼はグルジア東部のミルザーニの村で生まれ、後にトビリシに出て、グルジア鉄道などで働いたが、その後、独学で習得した絵を描くようになる。
彼はプリミティヴィズム(原始主義)あるいは素朴派(ナイーブ・アート)の画家に分類されているが当人にはいかがなものであったのか?彼はグルジアを流浪しながら絵を描いてその日暮らしを続けた。一旦はロシア美術界から注目され名が知られるようになったが、そのプリミティヴな画風ゆえに非難もあった。
失意の彼は1918年、貧困のうちに死去したが、死後グルジアでは国民的画家として愛されるようになり、ふたたびロシアをはじめとした各国で注目されることになる。
「百万本の薔薇」という歌をご存知の方も多いことでしょう。このモデルとなった画家が「ニコ・ピロスマニ」であり、フランスの女優「マルガリータ」が彼の町を訪れた時に、彼女を深く愛したピロスマニは、その愛を示すために彼女の泊まるホテルの前の広場を花で埋め尽くしたという。この実話はロシアの詩人アンドレイ・ヴォズネセンスキーの詩によって有名になり、ラトビアの作曲家が曲をつけ、モスクワ生まれの美人歌手が歌い、世界的にヒットした悲恋の歌です。日本では「加藤登紀子」によって歌い継がれています。
Feb 11, 2009
ジョージア・オキーフ 人生と作品
著者:チャールズ・C・エルドリッジ翻訳:道下匡子
(夫の写真家「アルフレッド・スティーグリッツ」撮影)
作品も当然わたくしを魅了しましたが、アメリカを代表する女性画家である「ジョージア・オキーフ」のうつくしい姿と、その潔い生き方に引き込まれる思いが致しました。出会いはどこぞのテレビの美術番組でしたが、すぐに図書館を検索して、この大判の重い本を借りてきました。いつでも「女性画家」というものは同性として気になる存在ですが、魅了して下さる条件といえば、その「潔さ」かもしれません。
「ジョージア・オキーフ」は1887年、ウィスコン州のサンプレリーの酪農家に生まれる。ここはアメリカ西南部の平原で、ウィスコンシン州内での代表的な祖先グループは、ドイツ系 、アイルランド系 、ポーランド系 、ノルウェー系、イギリス系、ハンガリー系、オランダ系など、さまざまです。彼女は、アイルランド、ハンガリー、オランダを先祖にもち、決して豊かではない、子沢山のなかで育ちます。
マディソン(おおお。懐かしい映画、クリント・イーストウッドの「マディソン郡の橋」を思い出す。)で高校時代をすごした後にシカゴ美術研究所で絵画を学ぶ。更にニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学、ウィリアム・メリット・チェイスに師事した。ニューヨーク滞在中に将来の夫となる、写真家で画廊主の「アルフレッド・スティーグリッツ」に出会っている。短い夫婦生活ではあったが、夫は妻を育てたという功績は大きい。また「ジョージア・オキーフ」はフェミニズム活動家でもあり、この時代の女性をリードする存在でもありました。
長い画歴のなかで、作品はほとんど風景、花、そして砂漠の動物の骨だけをテーマとして描きつづけた。どれも色彩は美しく、雄大なものです。これらの作品を生んだ風土は、ニューメキシコの砂漠地帯、サンフェタなど、さらに旅も多く、夫との生活は空白が多く、孤独だった夫の「アルフレッド・スティーグリッツ」は、妻を残して1946年に逝去。その後「ジョージア・オキーフ」は40年を一人で生きて描き続けることになります。都会を離れ、荒涼たる土地にアトリエを置いて、作品は膨大に描かれました。彼女は忘れ去られることすら恐れない生き方を選びながらも、めったに開催されない展覧会では、多くの観客動員がありました。またいざ展覧会を開くことになりますと「彼女の展覧会にはプロデューサーはいらない。」という定説ができるほどに、彼女のこだわりには強い意志が貫かれていました。
そして「ジョージア・オキーフ」のこの言葉が心に残り続けています。
『私は自分の作品を人には見せたくないのです―私の言っていることは矛盾しています―人々が理解しないことを恐れ、そして彼らが理解しないことを望み、そして彼らが理解することを恐れるのです。(1915年)』
「ジョージア・オキーフ」1986年3月、98歳で逝去。
(河出書房新社刊)
Feb 07, 2009
モーターサイクル・ダイアリーズ
監督:ウォルター・サレス
製作総指揮:ロバート・レッドフォード
脚本:ホセ・リベーラ
音楽:ホルヘ・ドレクスレル(ウルグアイ人)
《キャスト》
エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ : ガエル・ガルシア・ベルナル
アルベルト・グラナード : ロドリゴ・デ・ラ・セルナ
この映画は、キューバ革命の指導者「チェ・ゲバラ(本名:エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ)」と、友人アルベルト・グラナードの若き日の南米旅行の著作「チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記」をもとに、ロバート・レッドフォードらによって2004年に制作されたもの。
1952年、本でしか知らない南米大陸を、自分の目で見たいという思いから、アルゼンチンに住む23歳の喘息持ちの医学生のエルネストは、7歳年上の友人のアルベルトと共に1台のバイク(ポデローサ号)で、12,000キロの南米旅行へ出かける。故郷のブエノスアイレスを出発しパタゴニアへ。さらに6000メートルのアンデス山脈を越え、チリの海岸線沿いに南米大陸の北端を目指す。マチュピチュ遺跡、アマゾン川など、ロードムービーとも言えるこの映画は南米独特の風景が美しく哀しい。最下層の労働者やハンセン病患者らとの出会いなど、さまざまな出来事を通して、南米社会の暗い現実を若者の目で見ることになる。後にキューバのゲリラ指導者となった若き日のチェ・ゲバラの生涯に大きく影響を及ぼした旅行ともなった。
この映画のなかで、最も心に残るシーンがありました。ハンセン病の方々は川向こうで集団生活をしています。日本での「強制隔離」と同じものを見た思いがしました。そこでは農業、養豚などなど、さまざまな自立生活が行われ、そこを支配しているのは尼僧たちでした。その尼僧の最高位にいる方の方針では「朝の礼拝に来ない者には食事を与えない。」という冷酷なものでした。 その対岸には病院があり、医師は舟に乗って往診に行くのですが、その時に「エルネスト」と「アルベルト」は同行します。医師はゴム手袋を二人に渡しますが、「何故、その必要があるのか?」と若い二人は質問します。医師の答えは「尼僧からの命令だ。」と答えますが、それを拒む二人の若者に無理に手袋を渡すことはしませんでした。そして二人は川向こうの人々と握手を交わして、彼等の生活に溶け込んでゆくのでした。
サレス監督は2人の旅程を実際にたどり、またアルベルト本人やゲバラの遺族に面会するなど、リサーチに2年をかけたという。さらにゲバラの医学生としての専攻学科はどうやら「ハンセン病」だったらしい。
Feb 03, 2009
詩に映るゲーテの生涯 柴田翔
もちろん柴田翔の考察による「ゲーテ」を知りたくて、この本を開いたのですが、わたくしにはこの著者「柴田翔」には特別な思い入れがあるのです。この方はドイツ文学研究者ではあるのですが、芥川賞作家でもあります。その小説「されどわれらが日々―」が「文学界・・・だったかな?」に掲載された時には、わたくしは高校生、姉は大学生となって家を出て、東京で一人暮らしをしていました。その姉から送られてきたのがこの雑誌でした。これによってわたくしはその時代の姉たち大学生の実態を知りました。さらに、それまでのわたくしはリアルタイムで書かれた小説というものを知らなかったのでした。この2つのカルチャーショックを与えて下さった方でした。
柴田翔のこの著書は、1994年4月~1995年11月の間に「学鐙」に連載したもので、ゲーテの詩を読みながら、飛び飛びに彼の生涯を辿ってみようとした試みでした。それがこの一冊の新書版にまとめられたものです。
読みながら、あああ、じれったい。ドイツ語が読めない哀しさよ。「この詩は美しい頭韻をふんでいる。」と著者&翻訳者は書いていらっしゃるのですが、ご本人ですら邦訳すれば、それは表現できないとおっしゃる。柴田氏がゲーテ詩の翻訳する過程を脇から覗きこみながら、わたくしはなんとか日本語で頭韻をふんで書くことはできないものかなぁ、などと無茶苦茶な希望を持ってしまいました。傲慢な望みだと言わば言え(^^)。
アンテピレマ(語りかけ三たび)
敬虔なる眼差しで
永遠なる織女の傑作を見よ。
足をひとたび踏めば千の糸が動き
左へ右へ杼(ひ)が飛び
糸と糸とが出会い流れる。
ひとたび筬(おさ)を打てば千の織り目が詰められる。
織女はそれを物乞いして集めたのではない
彼女は経糸を太古の昔から機に張っていた
永遠の巨匠が横糸を
安んじて投げることができるようにと。
ゲーテ(1749年~1832年)が1818年~1820年に書かれたこの詩は、「パラバーゼ(人々への語りかけ)」「エピレマ(再びの語りかけ)」とともに3部作のようになっています。1814年は「ナポレオン退位」「ウィーン会議」、1816年は、妻クリスティアーネの死。大きな歴史の転換期であり、ゲーテの周囲の人間関係も大きく変化した時期でありながら、何故このような明快な詩が書かれたのだろうか?ゲーテには謎が多いようだ。「あとがき」によれば・・・・・・
『ゲーテは19世紀後半のドイツ・ナショナリズムの昂揚のなかで国民的大作家と評されるようになったのだが、それとともに当時の偽善的道徳律によって飾り立てられた〈ゲーテ像〉も作り上げられて行った。(中略)私がこの本で願ったのは、そうしたゲーテ像を解体し、ヨーロッパの大変動期に生きたゲーテという作家の魅力を読者に感じ取ってもらうことだった。』・・・・・・とある。
また、このようなことも書かれています。『フランス革命のあとの内的危機の時代、ゲーテは自然ではなく歴史の正義を信じるシラーを必要とし、彼との硬い盟約を結んだのだったが、その時期はもう終わっていた。それは、あえて言うならば、殆どシラーの死を――もとよりゲーテが、ではないにせよ――ゲーテのなかの自然の力が、待ち望んでいたかのようである。』・・・・・・この「自然の力」というものが、ゲーテの創作の困難、職務への勤勉性、人との別れ(晩年には「死」という別れもある。)などなどからの開放と忘却のために、何度もゲーテを救い出した考え方ではなかったのか?
青年「ハインリヒ・ハイネ」が老詩人「ゲーテ」に会った時を回顧しつつ、「彼は美しいアポロのようだった。但し、それは生命を持たぬ、冷たい石造りのアポロだった」と述べている。ゲーテは移ろいやすい人間(あるいは自己)というものを、不朽のアポロとして刻みこもうとしたようだった。それは中年から晩年まで、さらに最晩年まで執拗に続いた創作の作業だったようだ。それを支えたのは、「ロッテ」「アウグスト」「シュタイン夫人」「クリスティアーネ」などではなくて、ゲーテ独自の「エゴイズム」ではなかろうか?
ゲーテ26歳の時に書かれた「ファウスト」の初校以来、「ファウスト」は彼の全部の経験を伴走し、「ヴィルヘルム・マイスター」と「ファウスト」とが、ゲーテの生きたすべてを、美しく描き出したと言えるのだろうか?ゲーテの生命力の驚くべき強さは、そのまま創作&執拗な推敲、書き直しへの力ともなった?あるいはそれがゲーテの生命力となった?「死して生きよ。」・・・・・・苦しみを忘却し、深く眠り、暗闇を憎み、輝く時を求め続けたゲーテ・・・・・・「もっと光を。」だったね。
ハーフィズの詩集を携えて
老いたゲーテは故郷の風景のなかに帰る
歴史の谷間にあったわずかな平和の日々
休息日のない言葉のはばたく音が聴こえる
留まることのない言葉の流れ
死して生まれる言葉 繰り返されて・・・・・・ (高田昭子)
《あとがき》
以上は無学ゆえの気楽さで書いたものです。お許しあれ。乞う、ご教示。
(平成8年・1996年・丸善ライブラリー)
Feb 02, 2009
マラソン
2月1日、地元で「ハーフマラソン大会」が行われた。娘(地元在住)と息子(横浜在住)が揃って出場することになった。娘は大学時代から「ホノルルマラソン」をはじめとして、国内外のマラソン大会の経験は大分積んでいて、それなりにタイムもよくなっていました。息子は仕事の疲労は、精神的なものだから体を動かすことで解決しようと、趣味程度で走っていただけで、大会には出ていなかったのです。
あ。どっちにしても「趣味」の域は出ていないです。
娘のマラソン大会をこの目で見たことがなかったし、その上息子も一緒ということもあって、母はゴール地点に早目に行って待機することにしました。しかししかし、マラソンが行われると、市内の道路の交通規制が始まるのです。わたくしの体力では、家からゴール地点まで自転車で行くのは無理。歩くのももちろん無理。車は交通規制のために、もちろんダメ。どうしましょ?
まず、いつもの近所のバス停留所からS・M駅までのバスは動く。S・M駅からM駅までM線で2駅、そこからT線に乗り換えてM・T駅まで1駅。そこからならゴール地点まで歩いて20分。市内なのに回り道してゴール地点まで辿り着く。走っている我が子たちも大変でしょうが、スポーツ無縁のこの母も苦労しました(^^)。二人とも元気で完走。娘は35歳以下女子の部で「6位」となり表彰台に。息子は残念ながら。。。
娘の走る姿の可愛いことよ。走り終えた息子の額に流れる汗が風のなかでみるみる塩になってゆくことの、人間のたくましい生命力よ。みんなきれいな光景だった。
すべて終わってから、ビールとワインとランチで乾杯。昔のさまざまなことを思い出すきっかけともなりました。わたくし自身が2度死にかけた子供でしたので、小学校の朝の通学、遠足、体育の授業、すべてが辛くて、幼くして「生きることとはこんなに困難なことなのだ。」と内心感じつつ生きていました。この記憶はなかなか根強くて、それは我が子の育児に反映したようでした。「健全な精神は健全な肉体に宿る。」とまで高い次元で考えたわけではありませんが、健康な体さえあれば人間はなんとか普通に生きてゆけるだろうというのが基本でした。特に英才教育などしない。(所詮はわたくしが産んだ子供ですから。。。)その結果をこの日に見たような気がしました。嬉しい一日でした。
母も頑張りました。寒い大風の日に。。。
君たちも健康に生きていって下さい。