Oct 28, 2008

村上春樹、河合隼雄に会いにいく

sirakaba

 しずかに時間の物語が語り継がれながら、過ぎてゆくような深い秋の日々です。人間の誕生がそれぞれであるように、そこから「死」に至るまでの物語もそれぞれにあります。はるか昔のわたくしの誕生の日、それはすでに「死」と抱き合わされたものであったのでしょう。あるいはわたくしの誕生の時に、いのちをおとされた人たちがいらしたにちがいない。そのような想念から、日々逃れることができません。
 自分自身でもわかりにくいこの想念に、わたくしは「童子」と名付けました。それは大江健三郎の小説「取り替え子・チェンジリング」「憂い顔の童子」「さようなら。わたしの本よ!」の三部作から、透明な粘土が手渡されて、わたくしなりの「童子」をこころのなかに創ることができました。でもそれでも人間の寂しさは変わることはありませんが、形を整えられたことはおおきな前進だったと思います。

 さて、前置きが長すぎたようです。この本は「河合隼雄」と「村上春樹」との二夜に渡る対談です。第一夜は「物語で人間はなにを癒すのか」、第二夜は「無意識を掘る”からだ”と”こころ”」。「前書き」は村上春樹が、「後書き」は河合隼雄が書かれて、一冊の本となっています。一気に読み終えました。同じ時期にわたくしは「童子」をテーマにした詩を書いていましたので、この「物語」をテーマにした対談と重なりつつ、交錯しつつ、という精神状況で読み終えました。

 以下、引用です。「物語で人間はなにを癒すのか」より。

村上:芸術家、クリエートする人間というものも、人はだれでも病んでいるという意味においては、病んでいるということは言えますか?」
河合:もちろんそうです。
村上:それにプラスして健常でなくてはならないのですね。
河合:それは表現という形にする力を持っていないとだめだ、ということになるのでしょうね。それと、芸術家の人は、時代の病いとか文化の病いを引き受ける力を持っているということでしょう。ですから、それは個人的に病みつつも、個人的な病いをちょっと越えるということでしょう。個人的な病いを越えた、時代の病いとか文化の病いというものを引き受けていることで、その人の表現が普遍性を持ってくるのです。


 「無意識を掘る”からだ”と”こころ”」より。

村上:ぼくは小説を書いていて、ふだんは思わないですけれども、死者の力を非常によく感じることがあるんです。小説を書くというのは、黄泉国へ行くという感覚に非常に近い感じがするのです。それは、ある意味では自分の死というものを先取りするということかもしれないと、小説を書いていてふと感ずることがあるのですね。
河合:人間はいろいろに病んでいるわけですが、そのいちばん根本にあるのは人間は死ぬということですよ。おそらくほかの動物は知らないと思うのだけれど、人間だけは自分が死ぬということをすごく早くから知ってて、自分が死ぬということを、自分の人生観のなかに取り入れて生きていかなければいけない。
(ここまでが引用です。)

 河合隼雄という方は、その専門分野(臨床心理学者)から身につけられたものだろうか?それとも天性のものなのでしょうか?「聞き役」の立場に立たれることの多い学者が、年下の小説家である村上春樹との対談では、均衡のとれた語り手にもなっていらっしゃいました。
 しかし、村上の「前書き」を改めて読みますと、特に厳密な方向性を持たずに始めたはずの対談が、見事な道筋を描いているのは、河合隼雄の不思議な力であったようです。この本を薦めて下さった友人も、おそらくここに「河合隼雄」の不思議な「灯り」をみつけたのかもしれません。「物語」とは、こうして人間の内面から生まれる言葉にはならないようなものを、言葉として姿を見せるということかもしれません。

 (一九九六年第一刷・一九九七年第五刷・岩波書店刊)
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Oct 21, 2008

ジーザス・クライスト・スーパースター(1973)

prado-06-6-7

監督:ノーマン・ジュイソン
製作:ノーマン・ジュイソン ・ ロバート・スティグウッド
原作戯曲:ティム・ライス
脚本:ノーマン・ジュイソン ・メルヴィン・ブラッグ
撮影:ダグラス・スローカム
音楽:アンドリュー・ロイド・ウェバー
編集:アントニー・ギブス
振り付け:ロブ・イスコーブ

 これは「ロック・オペラ」と言えばいいのか?つまりミュージカル映画でもあります。この方法で聖書の世界を描くわけで、大変複雑な思いで観ました。「序曲」はナゲブ砂漠からはじまりました。遥か遠くから砂埃を舞い上げて、一台のバスが現われます。バスには五十人の若者、衣装や小道具が積まれ、大きな十字架が載せられていました。若者たちは各々衣装をつけ始め、映画は始まりました。つまり制作過程から始まるのでした。

 イエス・キリスト役は「テッド・ニーリー」である。ユダ、使徒たち、マグダラのマリア、司祭長のアンナス、カヤパ、シモン・ゼラト、 総督ピラト、などなどこれらの複雑な人間関係は説明できない。「聖書」を全部読んでいませんので。

 この映画では、自分を慕う者たちへの心労、敵からの脅威、癩者たちの願いなどに疲れ果てたイエスがそこに在ることに改めて驚くわたくしでした。たくさんの癩者に囲まれて「私に触れてください。」「私を救ってください。」という願いに、「数が多過ぎる。」と無力感に襲われ「Leave me alone!」と叫んだシーン。。。(←ここを言いたいがために、これを書いているようなものです。恥。)

 「ヨハネ伝第十九章四十一節」を演じ終えた一座は帰ってゆく。イエス・キリストに扮した若者だけが憂い顔で。。。
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Oct 17, 2008

ジョン・エヴァレット・ミレイ展

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↑は、一番わたくしが気に入った作品。「初めての説教・一八六三年」&「二度目の説教・一八六三年・一八六四年」です。この二枚の絵が並んでいました。そこにしばし佇んで、にこにこ。。。「ミレイ」の画家としての思想なんぞ、どうでもよろしい。ひたすらにかわいい(^^)。下記の⑤「ファンシー・ピクチャー」の最初に展示されていました。

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 《ローリーの少年時代・一八六九年・一八七〇年》

 さてさて、秋晴れの十五日午後に、渋谷Bunkamura・ザ・ミュージアムにて、「ミレイ展」を観てきました。平日の昼間でしたのに、チケット売り場では少しだけ時間がかかりました。展示会場もゆっくりと観るのには、ちょっとだけ辛い状況でした。多分今回の試みは日本では初めてのことだったからでしょうか?

 ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829~1896)は、イギリス領ジャージー島にうまれました。この島に領地を擁するミレイ一族の歴史はながく、ノルマン人のイギリス(イングランド)征服時代にさかのぼり、十一世紀からの歴史となる。
 こうした裕福な家の次男として生まれ、少年時代から才能を開花、九歳のミレイ少年は、ロンドンに出て、当時のロイヤル・アカデミー(王立美術院)会長であった「サー・マーティン・アーチャー・シー」の指導を受けることができました。そして一八四〇年、十一歳という記録的な年齢で「ロイヤル・アカデミー・スクールズ」への入学許可が下りました。

 この幸福な天才画家は、生涯に渡って陽のあたる道を歩き、たくさんの家族にも恵まれていたようでした。この画家の生涯を通しての全点とはいかないにしても、七十三点の作品が一度に観られるということは、幸福な時間でした。作品は年代順に、「ミレイ」の画家としての軌跡を追う形で展示されていました。

①ラファエル前派・・・(一八三八年~一八五四年)
②物語と新しい風俗・・・(一八五二年~一八六二年)
③唯美主義・・・(一八五八年~一八七二年)
④大いなる伝統・・・(一八六九年~一八九四年)
⑤ファンシー・ピクチャー・・・(一八六三年~一八八九年)
⑥上流階級の肖像・・・(一八七〇年~一八八六年)
⑦スコットランド風景・・・(一八七三年~一八九二年)

 一八四八年(ミレイ十九歳)に、ハント、ロセッティーらと共に「ラファエル前派兄弟団」を結成、革新的芸術運動の中心的役割を担います。そこからはじまった「ミレイ」の上記の時間の経過のなかでは、「ミレイ」の思想的な変遷ももちろんあるのでしょうが、わたくしは美術評論家ではありませんので、ここは書けません。

Millais-2

↑は有名な「オフィーリア」。ここには十一種類の花が描かれて、それぞれの花言葉に意味を託しているようです。またこの絵には留学中の夏目漱石が出会っていまして、それは「草枕」に書き残されていますね。

『ミレーはミレー、余は余であるからして、余は余の興味を以て、一つの風流な土左衛門(!!!←これはわたくしの付け足しです)。を書いてみたい・・・』と。。。

 「オフィーリア」の花についての詳細は「Talk Room 」の方でご紹介します。

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Oct 14, 2008

生きるとは、自分の物語をつくること 河合隼雄×小川洋子

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 河合隼雄は二〇〇七年七月にご逝去されました。小川洋子にとっては、ここに掲載された二つの対談「魂のあるところ」「生きるとは、自分の物語をつくること」だけで終わってしまいました。そのために小川洋子は最後の章では「二人のルート・少し長すぎるあとがき」を「弔辞」として書かれて、この一冊はできあがりました。
 ユーモアとやさしさにつつまれたお二人の対談は、読み終わる頃には、「生きる」ということの矛盾、困難、そしてそれらがあればこその「それぞれの物語」があるのだということを、旱の地が雨を吸い込むように自然に受け入れることができました。

 「魂のあるところ」の章では、小川洋子の小説「博士の愛した数式」の、河合隼雄による読み解きと感想が対談のメインでした。書き手である小川洋子の意図した小説展開よりも、臨床心理学者である河合隼雄の読み解きが超えていたように思えます。一冊の小説が読者によって大きく育てられてゆくことの幸福を垣間見た思いがいたしました。さらにこの「博士の愛した数式」誕生には、数学者藤原正彦という理解者もいらして、この小説はとても幸福な一冊ではないかと思いました。

 「生きるとは、自分の物語をつくること」の章では、『人は、生きてゆくうえで難しい現実をどうやって受け入れていくかということに直面した時に、それをありのままの形では到底受け入れがたいので、自分の心に合うように、その人なりに現実を物語化して記憶してゆくという作業を必ずやっていると思うんです。小説で一人の人間を表現しようとするとき、作家は、その人がそれまで積み重ねてきた記憶を、言葉の形、お話の形で取り出して、再認識するために書いているという気がします。』という小川洋子の発言がありました。

 河合隼雄は上記の小川洋子の言葉に応えて、同意し、さらにこのように語ります。

 『その感じは、もうほとんど一緒じゃないかと思いますよ。ただ小説家はずっと降りて行って、その結果つかんだものを言葉にする。だけど僕らは、人が話すのをただ聴いていて、その人自身が何かを作るのを待っているだけです。自分では何も作らない。」

 臨床心理学者のお仕事は「聞き役」に徹底的になりきることのようです。その上「マニュアル」も「分類法」もないのですね。「ガンバレ」も言わない。しかし時には生身の人間同士として言い合いになる場合もあるそうです。ただ河合隼雄が患者さんに対して、決して失望しないのでした。人間はそれぞれが違う物語を生きているのですからね。そして河合隼雄が患者さんから聞いたお話はどこにも口外できません。それでは記憶がパンクするのではないかと、意気地なしのわたくしは緊張します。しかし河合隼雄は、ご自分は「アース」なのだとおっしゃいます。そこを通して、記憶は「地球」が全部覚えていてくれるのだと。そして忘れた記憶は、必要に応じて「地球」から芽吹くように出てくるのだと。ふぅ~すごいなぁ~。

 このお二人の対談は、わたくしの小さな小さな「地球」のどこかで記憶の芽を出しました。それは、過去に読んだ「物語と人間の科学・河合隼雄」と、「物語の役割・小川洋子」の二冊でした。

 河合隼雄は「ジョーク」の名人でした。書き出せばきりがないほどにおもしろいお話がありましたが、ここではカットします。機会があれば「Talk Room 」の方でご紹介します。

 (二〇〇八年八月・新潮社刊)
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Oct 13, 2008

謹告

 このブログのコメント欄に表示されている「文字列」は大変読みにくくて、わたくし本人ですら、コメント送信に失敗しています。これは多量のスパム対策のためですので、ご理解くださいませ。コメントを下さる方は、前もって本文をコピーしてから送信されることをお薦めいたします。

 スパム以外は、どなたもアクセス禁止はしておりません。


moziretu
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Oct 12, 2008

オニババ化する女たち 三砂ちづる

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 前記の「アンチ・フェミニズム」から思い出したものを書いてみました。これは過去に書いたものですが、「サイト内検索」ではうまく出ませんので、再掲いたします。

 この著書の感想を書く前に、まず申し上げておきます。女性には「子供を産まない。」「結婚しない。」と主張する人生と、「子供を産めない。」という喪失の人生があります。後者の女性にとって、これはまことに残酷な著書だと思えます。この著書の趣旨は「女性よ、性をできうる限り幸福な営みとして受け入れ、子供を産みなさい。それもできるだけ早期に。」というものなのです。これはまさに酒井順子の著書「負け犬の遠吠え・講談社・2003年刊」の対極にあるかのようだが?

 さて、女性が仕事を持ち、自立できる時代が来たことは、おおいに喜ぶべきことです。しかしここでいつも問われるのは「母」と「子供」の問題なのでしょう。「母」が自立するために「子供」の存在は大問題となってしまった。まず今の出産適齢期にいる女性たちは「子供を産むか否か?」を考えるようになり、その後で「出産と育児の困難さ」に直面し、そして「仕事との両立は可能か否か?」という構図で考えるようになってしまったようです。

 しかし本来「子供」が産まれ、育ってゆくことは原初から引き継がれたものであり、特別なできことではない。無意識下にあった自然ないのちの営みを、女性の生き方の「大テーマ」として考えなければならない時代になってしまったということではないだろうか?元より「子供の生誕」と「女性の現代の生き方」とを並列して考えることには無理があるのではないだろうか?

 わたくし個人の過去の体験を思うとき、みずからのからだに内包されていた「人間の原初」を見たという鮮明な記憶があります。そして赤子は、母親の胎内で人間の進化の永い歴史を十月十日でやり遂げて、その時代に産まれてきたのです。口元に触れてくるものを「吸う」という記憶行為だけを母親の胎内からたずさえて……。そしてその行為の力強さも驚嘆に値するものでした。さらに四足歩行から二足歩行のいきものに変わるまでには約一年の期間があり、それらの過程は母と赤子の「蜜月時間」となるわけです。この相互の関わりが母と子供とのいのちの連鎖を自然に取り結ぶのではないでしょうか。そこは「フェミニズム」も「ジェンダー」も介在できない「アジール」的な世界なのではないかと思われます。

 この著書にはさまざまな事例が挙げられていて、列挙することは到底無理なことですが、「京言葉」についての事例のみご紹介いたします。わたくしにとっては一番興味深いところでもありましたので。「おいど」は通常「おしり」と解釈されていますが、実は「肛門、膣、子宮、外性器」全体を表現する言葉だそうです。また「おひし」は「女性性器」を表わす言葉で、お雛祭りの「菱餅」はこの「おひし」に由来するもの。ですから上方では「正座しなさい。」は「おいどをしめなさい。」となり、正座を崩すと「おひしが崩れますえ。」というお叱りを受けることになります。このなにげない日常の躾が、実はとても大切な女性の身体性を強靭に育てあげる教訓だったのですね。

 また、著者はさまざまな提言の根拠として、世界各地での母子に関する取材や保険活動の現状や統計報告もたくさん提出しています。また著者自身の「気付き」にすぎないものも記されています。この混在がこの著書の「生煮え」状況をつくっていることも否めません。この著書は「ジェンダー」「フェミニズム」の流れに「投げられた小石」の一つだと受け止めます。

「オニババ」を三砂ちづるはこのように定義しています。性と生殖にきちんと向き合えないまま、その時期を逸してしまった女性を昔話の「山姥」や「オニババ」に喩えたにすぎません。子供を持たぬ女性たちよ、早急に解釈して憤怒するなかれ。女性が「子供を産まない自由」について考えることのできる今日に至るまでには、過去の女性たちの永い永い歴史があるのだと考えてみてはどうか?ということなのではないでしょうか?

(光文社新書・2004年刊)
Posted at 17:19 in book | WriteBacks (0) | Edit

Oct 11, 2008

アンチ・フェミニズム??

Morisot

 フェミニズムとは、女性の社会的、政治的、法律的、性的、経済的な自己決定権を主張し、男性支配的な文明と社会を批判し、改正しようとする思想運動。十九世紀から二十世紀初頭の欧米諸国を中心とする女性参政権運動の盛り上がりを第一波。一九六〇年代以後の「ウーマン・リブ」に代表される動きを第二波と区別することが多いようです。

 「青鞜」は、上記のほぼ第一波に当るのでしょうか?それは一九一一年(明治四十四年)から一九一六年(大正五年)にかけて発行された女性だけによる文学誌です。当時の家父長制度から女性を解放するという思想のもとに、平塚らいてうが創刊。誌名は生田長江の命名。当時のヨーロッパで知的な女性達がはいていた靴下が青かったことから「ブルー・ストッキング」と呼ばれたことに由来する。

 同誌第一巻第一号に平塚が著した「元始、女性は太陽であつた。」という創刊の辞は、日本における婦人解放の宣言として注目され、多大な影響を及ぼしました。一九一三年四月、文部省の提唱する「良妻賢母」の理念にそぐわないとの理由により、発禁処分を受けました。一九一五年一月号より、発行人が平塚から伊藤野枝に交替。一九一六年二月に無期休刊となりました。

 この重い歴史に反論するつもりは全くないのですが、これによって「家の外で働く女性」の歴史の基礎が築かれたのだろうと思います。ここからは打ち寄せる波のごとく、女性運動は拡大、拡散してゆくことになりますね。その流れはどこまで行くのやら。。。

 わたくし自身は、この流れにおかまいなく、「外で働かない女性」を生きてきました。育児、家事、老親の看取り、これは重い労働でありながら、社会的評価は低い。「最初」の育児、最後の「老親問題」は、まず働く女性には出来ない。子供を持った働く女性は、身内の援助や、「育児」の賃金をどこぞに支払って、「育児」負担を減らしただけにすぎない。「老親問題」は「仕事が休めない。」という理由で免除されてきた。(←誰に?)こうして「外で働かない女性」が担ってきた役割は大きい。

 お次は「まごまご問題」です。こういう時代の若い母親の育児期間の憂鬱は、深刻な社会問題です。これをなんとか助けるのは、またまた「外で働かない女性」の新たな仕事となるわけですね。なんとまぁ。充実した人生でしょう♪
 それでも、世の中では「働く女性」は、それだけで世間からは高い評価を受けるのですよ。ごくろうさまです。乞う反論(^^)。
Posted at 02:18 in nikki | WriteBacks (7) | Edit

Oct 08, 2008

父母の手記

fm

 手前味噌のようで恐縮ですが、2004年までにほぼ完成させたこのようなサイトがあります。自分自身、完成させてからあまり覗くことはなかったような気がしますし、ここを見つけて下さったのが「憲法九条の会」の方々であったことも、あたりまえのような気もしますが、わたくし自身にはそのような意識は皆無でした。今は亡き父母が書いた拙い記録を入力し、残しておこうと思ったことがきっかけで、それ以上の意識はなかったように思います。

 しかし、親しくさせて頂いている方が、ここに気付いて読んで下さいました。「ご両親の手記は初めて拝読しました。文章力とか表現力とかを越えて、《事実》のみがこれほど強く人を打つのか(言い換えればそれほど強烈な事実だったのだ!)とオイオイ泣いてしまいました。」というお言葉を頂いて、あらためて読みかえしました。

 実はこの時、わたくしも初めて泣きました。そして入力しながら「これほどに、父と母の記憶のずれがない。」という驚きの気持は、今回も同じことでした。父母はともに文筆家ではありません。このような長い文章もめったに書かなかったと思います。
 わたくしが大きくなってからの母はわがままでした。父はそれを許し続けていましたので、一度だけ父にたずねたことがありました。「大陸にいた頃には、お母さんに苦労させたからな。」と答えるのみでした。苦労したのは父も同じことだったと思います。海を渡った花嫁だった母への謝罪だったのでしょうか?
Posted at 23:20 in nikki | WriteBacks (8) | Edit

Oct 01, 2008

日本・日本語・日本人  大野晋・森本哲郎・鈴木孝夫

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 この本は、2000年に上記の三人の方の三回の対談を単行本化にしたものです。その対談の間には、三人の言葉に対する短い論考もはさみこまれていますので、対談の散逸性を整える役割と、対談では表出されにくいであろう、それぞれの個人の意見も読めました。

 《論考ー森本哲郎》
 森本哲郎の論考は「はじめに」と題されて、序文の役割もしています。森本氏は旧約聖書の「創世記」の「バベルの塔」を例にあげて、人間の築く文明と文化の原点が、なによりも「言葉」にあることを示しています。言葉は単なるコミュニケーションの道具ではないと。。。

 《論考ー大野晋》
 大野晋は、日本の弥生時代に「水田耕作」「金属使用」「機械」という複合文明が一挙に北九州から始まったのは、日本人が輸入して真似たものだと言う独自の説をおっしゃっています。その文明とともに「言葉」の輸入先は、南インドのタミル地方にある。たしかに「アゼ=畦」「ウネ=畝」などの共通した言葉があるのですね。賛否両論あれど、これが大野晋説でした。これは中国の漢字よりも、日本の外から来た言葉としての歴史は早いのですね。

 《論考ー鈴木孝夫》
 鈴木孝夫は日本における英語教育の背景と歴史に触れています。戦後の日本は米国の植民地と同質だったわけですね。米国のお仕着せの立法にはじまり、歴史、英語、思想教育、すべては米国の支配下にあったわけです。ここから日本と日本人と日本語の混迷が始まったわけですね。

 *   *   *

 日本人の歴史の常態は「戦争」ではなく「国内安泰」が永いという特色があります。その弱点が「敗戦」と共に、独立戦争も内乱もない戦後を招き、米国のもとで生ぬるい植民地状況を作ったわけで、この世界に類のない国に起きた「言葉」の混迷でもあったのでしょう。

 これを読む途中で、下記のようなニュースがはいりました。これは常用漢字をまたまた削除するというニュースです。

「常用漢字:見直し修正案」

 奈良時代に漢字が日本に入ってきてから、漢字文化は最高の教養とされてきたわけです。しかし、戦後になってアメリカの支配下において、ローマ字と片仮名文字が隆盛をきわめました。漢字撲滅が次々に行われたわけです。
 大野晋は国語審議会委員をお辞めになりました。(1966年(昭和41年)から3年間)その大分後に鈴木哲郎も腹に据えかねてお辞めになりました。(6年間)鈴木哲郎が辞任の時に、文部省の庶務課長が「勲章対象から外されることをご存知ですか?」と訊ねたそうです。ここで芥川龍之介の言葉が引用されています。「勲章なんかぶら下げて喜ぶのは子供と軍人だけだ。」

 「小学校時代のローマ字教育は、なんの意味があったのでしょう?」←独り言。

 (2001年・新潮社刊)
Posted at 22:37 in book | WriteBacks (0) | Edit
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