May 30, 2008

バウハウス・デッサウ展

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 (子供椅子 :マルセル・ブロイヤー   一九二三年)

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 (一世帯用住宅の模型:マルセル・ブロイヤー   一九二七年)

 二十九日、雨の上野公園は寒かった。あたたかいコーヒーを飲んでから、東京藝術大学大学美術館へ向かいました。「バウハウス」は一九一九年にドイツ、ヴァイマールに誕生した造形芸術学校。創設者はヴァルター・グロピウス。そこでは家具、絵画、舞台芸術、食器、灯り、寝具に至るまで、さまざまな分野での教育がなされていました。その教育の最終目的は建築だったようです。校舎、学生寮、教授室、食堂、ホールなど彼等の学校環境そのものも「バウハウス」の教育思想が行き届いていたように思えます。

 「バウハウス」は、ヴァイマール、デッサウ、ベルリンと拠点を変えながら活動し、一九三三年、ナチスの台頭とともに閉校を余儀なくされました。 「バウハウス」が広く一般に知られているベルリンのバウハウス・アルヒーフに対し、ヴァイマールとデッサウは東ドイツ圏内に位置していたこともあり、東西ドイツが統一されるまで、実際の建物やその内部、活動の全容が一般に紹介される機会は多くはありませんでした。今回の「バウハウス・デッサウ展」では、デッサウ(一九二五年~一九三二年)での活動を中心に当時の文化動向や社会情勢との関わりも紹介しながら、「バウハウス」というデザイン運動の誕生の起源に迫り、当時の先端技術と芸術を融合して本当の意味での機能美、造形美を目指した作品でした。その造形の最終目的は建築だったようです。

 出品総数二六〇点余りのうち二四一点はドイツ、デッサウ市にて活動するバウハウス・デッサウ財団所蔵のコレクションであり、その内の一四六点が日本初公開となりました。日本で所蔵されていたものもありました。

【展覧会構成】
第1部 バウハウスとその時代
第2部 デッサウのバウハウス
 (1)基礎教育
 (2)工房
 (3)バウハウスの写真と芸術
 (4)舞台工房
第3部 建築

  *  *  *

 帰り道、雨の上野公園で悲しそうに空を見上げていた「青いキリン」です。

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May 19, 2008

小川洋子対話集

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 対話は総計九回、対話者は総計十二名、初出雑誌もさまざまで、語りおろしも収録されています。対話者もさまざまな分野に及び、話題は広範囲なものとなっていますので、少し散漫な印象は否めませんが、しかし「小川」のごとく目に見えない細い底流がかすかに聴こえてくるような対談でした。小川洋子のフツー的(?)感受性、少女性、しかし世界を彼女なりに捉えることのできる視線・・・・・・これらは現代女性作家のなかで、むしろ特異な存在であるように思えます。対話のテーマがすべて「言葉」であることに統一されています。


 【田辺聖子】 言葉は滅びない

 八十歳を迎えられた田辺聖子は「全集」を刊行されたばかりの時期にあたる。小川洋子にとっては、まさに田辺は先達者となるのでしょう。お二人が共に少女期に夢みたことは小説のなかで成長し結実させる、この共通項があったように思います。言葉は実るもの。そして伝えるもの。その言葉への信頼が生き生きと語られていました。


 【岸本佐知子】 妄想と言葉

 岸本佐知子は英米文学の翻訳家、エッセイスト。小川洋子と同世代であることからか、会話が女子大生のように楽しくリズミカルだった。翻訳というものは、作家が書き上げたものの源泉をもう一度捜すことから始まる。そこから辿りはじめて翻訳者は作家への、美しい共鳴音になること。魅力的で困難な仕事だと、つくづく思う。単純に外国語が出来るというだけではない、作家以上の洞察力が必要なようだ。


 【李昴&藤井省三】 言葉の海

 李昴(リー・アン)は現代台湾を代表するフェミニズム作家。
 藤井省三は東大文学部教授、中国、台湾、香港の現代文学専攻。

 李昴の海、小川洋子の海、この二つで一つの海の違いが語られる。李昴の子供時代には、中国と台湾との緊張関係が厳しく、海は彼女にとっては「戒厳令」の代名詞のようなものだった。小川洋子の海は、幼児期の瀬戸内海の小さなおだやかな海だった。この「海」に象徴されるように、二人の女性作家が背負わされた時代、国家、女性の立ち位置など、すべてが異なる。これを繋いでゆくものも、やはり「言葉」でしかないように、藤井省三の力を借りながら、二人は語りあった。


 【ジャクリーヌ・ファン・マールセン】 アンネ・フランクと言葉

 ジャクリーヌ・ファン・マールセンは、隠れ家に入ってしまうまでのアンネ・フランクの少女期の友人であり、その思い出を本にまとめています。彼女によれば、それはアンネがまだ「言葉を綴る。」ことを意識する以前の少女にすぎないのです。ジャクリーヌが知っているアンネはそれだけだったのでした。成長した作家アンネには再び会うことはできなかったということです。


 【レベッカ・ブラウン&柴田元幸】 言葉を紡いで

 レベッカ・ブラウンはシアトル在住の作家。柴田元幸はアメリカ文学の翻訳家であり、小川洋子の作品の英訳を手掛けた最初の翻訳者ともなる。柴田はいわば「架け橋」の役割を担っていることになります。この翻訳者は肩の力の抜き方のうまい人ではないだろうか?レベッカ・ブラウンの人間性ではなく、紙の上に書かれた言葉を追いかける形で翻訳する。翻訳しながら作者に意味を問わない。あるいは小川洋子作品が柴田の翻訳によって、削ぎ落とされたもの、付加されたものに当人が驚くという意外性。岸本佐知子の対話と重ねて考えると、翻訳者の対照的な姿勢が見えてくるように思いました。


 【佐野元春】 言葉をさがして

 佐野元春とはミュージシャンらしい。知らない人。ごめんね。パス。


 【江夏豊】 伝説の背番号「28」と言葉

 小川洋子の小説「博士の愛した数式」に登場する実在のヒーロー(野球選手)である。背番号「28」は「完全数」なのだった、とはご本人はご存知なかった(^^)。


 【清水哲男】 数学、野球、そして言葉

 清水哲男だけは、わたくしが唯一出会い、お話をしている方という「贔屓目」で読んでしまう危険は大きいなぁ、とは思いますが、その分を冷徹に(笑)差し引いてみても、やはり清水哲男の対話には、おだやかな流れがみえます。まさに「清水」と「小川」の言葉の自然体の合流でした。共通の話題はもちろん野球でしたが、「数学者は詩人である。」ということがよく理解できます。


 【五木寛之】 生きる言葉

 現代の自殺者の急増、それが数値で表されたところで、その実体は見えない。さらに無差別の殺人、子供や老人への虐待などなど、豊かに見える社会ではありながら「いのち」がこれほどに軽い時代は、かつてなかっただろうと思う。五木寛之はこれに心を痛めつつ、自らの「老い」がその実情を嘆いているのか?と自問する。しかしそうではない。あらためて「いのち」の重さを考え直す時なのですね。
 「生」と「死」との境界線は、簡単に越えられないものであるという根本的なことが忘れられているのではないだろうか?まずは生きてゆくための言葉が必要なのでしょう。陳腐だと思われる「人間」「愛」「友情」・・・・・・それらの言葉を、もう一度雪ぎ直すこと、こんな対話だったように思います。

 (二〇〇七年・幻冬社刊)
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May 17, 2008

ウルビーノのヴィーナス

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 十五日は快晴。二日続きの雨と冬に戻ったかのような寒さからやっと開放された日の午後、上野の国立西洋美術館に行きました。

 この展覧会では、古代、ルネサンス、そしてバロック初期に至るまでの、ヴィーナスを主題とした絵画と彫刻、調度品などが集められていました。ヴィーナスの神話が古代で一旦途切れて、ふたたびルネサンスの時代に蘇り、ほかの神々とともに美術のモティーフとして復活します。古典文学の復興と相まって、彼女は多くの美術作品や本の挿絵などに登場するようになりました。フィレンツェでは哲学的な議論を背景として、ヴィーナスは慎み深く表現されましたが、ヴェネツィアでは官能的なヴィーナスが表現されています。その代表的な作品が、ヴェネツィア派を代表する画家ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》ということなのでしょう。

 愛と美の女神であるヴィーナスは、もとは古代の女神。多くの神話におけるヒロインです。神話の一場面として、あるいは単独で表わされることもありました。そして彼女の傍らには、しばしば息子のキューピッドも登場しています。

 このヴィーナスは、絵画や彫刻の世界だけで表現されたわけではありません。婚礼の際に花嫁が持ってゆく「長持」「キャビネット」「タペストリー」「小箱」「食器」「水差し」などの調度品にも描かれていましたし、女性の装飾品のモチーフにも使われていました。この場合のヴィーナスには、「花嫁の幸福」や「子供が無事にさずかりますように。」という願いが込められていたということです。でもヴィーナスは「パリスの審判」に見られるように、決して貞淑な女神ではなかったのですけれど(^^)。。。あああ・・・・・・美しいものはひとの運命さえ変える。花嫁は美しい子供に恵まれ、幸福な母になれたのでしょうか?
 わかりませぬ(^^)。

 【付記】

 某所で、ある詩人が書いていらっしゃった言葉がとても心に残りましたので、ここに記しておきます。この言葉は「ヴィーナス」にも通じるものではないでしょうか?(……と勝手な解釈。笑。)

『イエス・キリストは表現を通じてこの世に復活する。』
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May 12, 2008

加賀乙彦の講演を聴く。

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 加賀乙彦は一九二九年四月生まれ、現在七九歳。小説家で精神科医。
 一九四五年九月、東京府立第六中学校に復学。一九四五年十一月、旧制都立高等学校理科に編入学。一九四九年三月、旧制都立高等学校理科卒業。同年四月、東京大学医学部入学。一九五三年三月、東京大学医学部卒業。

 東京拘置所医務部技官を経た後に、フルブライト奨学金を獲得してフランス留学を果たす。パリ大学サンタンヌ病院、北仏サンヴナン病院に勤務し、一九六〇年帰国。同年医学博士号取得。東京大学附属病院精神科助手、東京医科歯科大学助教授、一九六九年から上智大学教授。一九七九年から文筆に専念。一九八七年のクリスマス(五八歳)に遠藤周作の影響でカトリックの洗礼を受ける。

 講演のテーマは(仮題)という括弧付きで「ハンセン病文学」についての講演でした。「文学」を括ることはとても困難なことです。「癩」という永い歴史を考える時に、どこを切り取って語ればいいのか?加賀乙彦氏は、見えない豊かな知識の引き出しを胸のなかに抱いて、聴衆の前に現れました。時と場を読む。それからゆっくりと引き出しを開けて、語り出したという風であったような気がします。

 これらの文学の歴史的資産、あるいは資料は放置されれば散逸する。国家機関に預ければ、都合の悪いものが隠滅させられる危機があります。これらを「癩」の歴史の証言として、すべてを残すことに努力していらっしゃる方々の組織が主催した講演でした。しかし加賀氏はこのようにもおっしゃいました。「現実に療養所内に保存された図書資料も過去百年足らずのもの。しかし癩は聖書の時代からあるもの。」と。。。

 さらに加賀氏は日本の古い文献については、詳しくおっしゃることはしませんでしたが、おそらく最初の日本人の記述は「日本書紀」に「白癩」と記されたもの。「今昔物語集」にも奈良時代の僧が「白癩」にかかった話があります。要約すれば以上にようなことではないでしょうか?

 ここで加賀氏の講演の出だしについて書いてみます。それは日本という風土と人間性の問題です。それは「ぼんやり」という言葉で表現されました。「ハンセン病」に限らず、たとえば「死刑」「戦争」など、人々が国家の危機とすら思わなければならないこと、あるいは急いで止めなければならないことを、日本人は「ぼんやり」としか受け止めることができないことへの不安でしょう。いつでも認識が外国に遅れるということです。そこで、わたくしは数年来嫌ってきた言葉の意味をようやく理解しました。それはかつて友人から教わった言葉です。


  敵を恐れるな─彼等は君を殺すのが関の山だ。
  友を恐れるな─彼等は君を裏切るのが関の山だ。
  無関心な人びとを恐れよ─彼等の沈黙の同意があればこそ
   地上には裏切りと殺戮が存在するのだ。


  (ヤセンスキー著「無関心な人びとの共謀」巻頭文より)

 最後の加賀氏の希望としては、北條民雄を超えることのできる作家を待っているということでした。北條民雄の「いのちの初夜」の時代から、引き継いで次の歴史を書く優れた作家が現われなければならないということではないでしょうか?

 *五月十一日・多磨全生園福祉会館にて。
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May 03, 2008

極私的にコアの花たち  鈴木志郎康

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二日夜、新宿パークタワー3Fの映像ホールにて、「イメージフォーラム・フェスティバル2008」のDプログラムの、鈴木志郎康さんの五十分の映画「極私的にコアの花たち」を観ました。ドキュメンタリー映画と名付ければいいのか?いや、違うかな?これは志郎康さんの詩の映像化かもしれません。(←志郎康ファンとしての極私的解釈。笑。)鈴木志郎康さんは詩人であり、映像作家でもある方です。

二〇〇六年の一年間、ご自宅の中庭にある花たちの芽吹き、開花、落花、枯死を、カメラで追い続けた作品でした。この年の春には志郎康さんは多摩美術大学を退職されています。またお体を悪くされて、加圧リハビリ、骨格矯正と交流磁気シャワーの治療に今でも繰り返し通われているというお体で、制作された映画です。

ナレーションも志郎康さん。BGMは少々。ラジオやテレビの音声が挿入されたり、大掛かりなものはなにもない。一番効果的だったのは志郎康さんの呼吸音でした。

決して広大ではない庭で、花がない時には花を買ってきたり、送られてきた花が写されたり、花が志郎康さんの一年を写しているようでした。この花は全部「灰皿町南波止場1 ・鈴木志郎康のblosxom Weblog」に掲載された画像です。このブログが毎日更新されていることにも、実はずっと驚かされてきました。

この志郎康さんの「極私的にコアの花たち」の前に、短い映像作品が三つ放映され、全部放映された後で、それぞれの製作者の挨拶と制作動機、主張あるいは意図するものが語られました。最後の志郎康さんの挨拶は、これまた魅力的(^^)。

「僕は空っぽなんだね。」・・・・・・。 わたくしがこの境地に至るのはいつのことやら。。。



【おまけのおはなし】

この映画鑑賞のあとで、志郎康さんを中心に約十人のお仲間とお話する席に参加しました。そこでお目にかかったことはあっても、多分ほとんど会話を交わしたこともなかった詩人で映像作家のF氏のお話にはびっくり。。わたくしの詩集「空白期」を、ワークショップに使って下さったとのことでした。素直に嬉しいです(^^)。

詩人の講座のテキストにわたくしの詩作品を使われる方は、以前にも何人かはいらっしゃいましたが、このようなお話をお聞きする度に、わたくしの詩が、ささやかながらどのような役目をになっているのか?ということを知らされる思いがいたします。(本当にささやかながら。←ここを強調。笑。)
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