Jan 24, 2007
約束の旅路
監督・ラデュ・ミヘイレアニュ(フランス)
脚本・アラン・ミシェル・ブラン&ラデュ・ミヘイレアニュ
上映時間・二時間四五分
これは昨日の夜に「TOKYO FMホール」で観た試写会です。ロードショーは三月から岩波ホールで始まるようです。久しぶりというのか、あるいは初めてのことかもしれませんが、わたくしはこの映画のラストシーンで泣いていました。映画制作という点から採点するとすれば、この映画はどちらかというと未熟かもしれません。それでもこの映画制作にかけた熱意や深い愛は観る者にまっすぐに伝える力を持っていました。うつくしい叙事詩です。さて、この映画を語る前に二つの事柄について注意深く書いておかなければならないような気がします。これは思考回路がすぐに混乱するわたくしのためです。あしからず。。。
【モーセ作戦】
これは旧約聖書「出エジプト記」の「鷲の翼にのせて」・・・「乳と蜜の流れる地へ」に倣った、イスラエルの救出作戦の一つです。アフリカが旱魃に襲われた一九八四年から八五年までに、エチオピア系のユダヤ人をイスラエルへ飛行機で移送救出することでした。その難民キャンプはスーダンにあり、ここへ辿りつけなかった難民も多かったのですが、また無事救出されたユダヤ人は一日に四二〇〇人にのぼるともいわれています。イスラエルではこの救出された人々を「ファラシャ」と呼んでいます。
【出エジプト記】
この第一章、第二章では「モーセ」の子供時代のことに触れています。イスラエル人の人口増加をおそれたファラオは、産まれてくるイスラエル男児をすべて殺すことを命じます。しかし男児を産んで三ヵ月の間密かに育てた女性がいて、ある日ナイル河畔の葦の繁みに隠します。それを見つけたファラオの王女は、その母親を乳母としてその男児を預け、成長してから王女の子となります。これが「モーセ」です。この後のことは省きます。この「モーセ」の子供時代と、この映画の主人公「シュロモ」の運命には、どこか重なるものがあるように思えるのです。
さて、一九八四年のスーダンの難民キャンプに九歳の黒人少年「シュロモ」と母親は辿り着きました。二人はクリスチャンです。同じキャンプではユダヤ人の「ハナ」という女性の子供が体力尽きて亡くなりました。「モーセ作戦」でイスラエルに渡れる「ハナ」に母親は「シュロモ」を託します。「ハナ」の子供は死んではいないということとして、「シュロモ」はその時からのエチオピアのユダヤ人としての名前です。
イスラエルに無事到着後、やさしかった「ハナ」も亡くなりますが、その後に、エジプトからイスラエルへの移民である養母「ヤエル」養父「ヨラム」に愛情深く育てられますが、「肌色による人種差別」と「秘密」そして「母恋い」に苦しむのです。学校を離れ「キブツ=集団農場」に入ったこともありましたが、彼は最後はパリに出てドクターになるのでした。その十年間ほどの青春期を支えた女性「サラ」と結婚します。「秘密」は「サラ」の懐妊の時にやっと明かされるのでした。
『アダムは神の手によって土からつくられた。だから肌の色は黒でも白でもない。赤だ。』
ドクターとしてスーダンの難民キャンプで働く「シュロモ」のところへ「サラ」から電話が入ります。産まれた子供の「パパ」という声とともに。。その直後に彼はやっと歳老いた母親を見つけ出したのでした。。。靴を脱ぎ、素足で砂の上を母親へ向かって歩き、「シュロモ」はやっと「約束の旅」を終えたのでしょう。
映画の前に、監督挨拶がありました。監督のこの映画のテーマは「三人の母の愛だ。」とお話くださいました。この映画には宗教問題、人種問題、飢饉、難民問題と多くの要素が込められていますが、その底流となっていたものは、「シュロモ」を手放した実母の愛、託された「ハナ」の命がけの愛、そして養母「ヤエル」の時間をかけた愛でした。
泣いた自分に気持の整理をさせようとして、一気に書きました。宗教の面で誤りがありましたら、どなたかお教え下さると嬉しいのですが。。。よろしくお願い致します。
Jan 22, 2007
朗読者 ベルンハルト・シュリンク 松永美穂訳
最後まで読み終えて、久しぶりに良い本に出会ったと思いました。
十五歳のミヒャエル・ベルクが、学校帰りにバーンホーフ通りで具合の悪くなった時に、助けてくれた三十六歳の女性ハンナとの恋におちるところからこの物語ははじまります。ハンナは市電の車掌。彼女の勤務時間に合わせて、二人は毎日数時間を彼女のアパートで過ごす生活がはじまるのですが、ハンナはミヒャエルに愛し合う前に本の「朗読」をさせるのでした。また、ハンナが眠っている間に、黙って置手紙をして買い物に出たミヒャエルに、ハンナはひどく怒ってベルトでミヒャエルの頬を傷付けるシーンなどから、わたくしにはハンナの実像が少しづつ見えてくるのでした。おそらくミヒャエルが気付くよりも先に。。。
そしてハンナはミヒャエルに告げることもなく姿を消しました。その後の再会は法学部のゼミの学生として傍聴席にいるミヒャエルと、四十三歳になった被告人のハンナとして、「法廷」という場所でした。かつてのミヒャエルに出会う前のハンナはベルリンのジーメントで働いた後に、一九三四年秋に親衛隊に入り、収容所の看守だった。これはドイツによるドイツ国民の裁判です。裁判はハンナに不利な方向へと向かうのでした。
ここでハンナが文字の読み書きが出来ないことが明らかになる。アウシュビッツに送られる前に収容される囚人のなかから少女を選び、ハンナはやはり「朗読」をさせていたのでした。それはたった一人の少女を苦役から短期間救える方法でもあったのです。
ハンナに終身刑が下るまで、ミヒャエルは毎日法廷に通いました。その後、ミヒャエルは同じ法学生だったゲルトルードと結婚し、娘ユリアを授かりましたが、ミヒャエルの法学の道は定まりません。ゲルトルードは裁判官となり、結局三人の家族は愛し合いながら、別れることになるのです。
『決断は難しかった。ハンナに対する裁判で法律家たちが演じた役割のどれにも、自分を当てはめることができなかった。告発という行為は、弁護と同じくらいグロテスクな単純化に思えたし、裁くことは単純化の中でそもそも一番グロテスクな行為だった。』
そうしてミヒャエルは法史学教授となる。そして彼はハンナに「朗読テープ」を送り続ける。手紙は書かない。ハンナはそのテープのテキストとなった本を入手して、テープを何度も聴きながら文字を覚えてゆき、ミヒャエルに手紙を書けるようになったのでした。この生真面目なドイツ人法史学者の一貫したハンナへの思い、それに応えるハンナ、「続けること。」「繰り返すこと。」その美しさ。。。
ハンナの恩赦が決まり、身元引受人となったミヒャエルは、その準備に追われ、面会にも行ったのだが、ハンナは出所前日に縊死する。ハンナの残したお金はユダヤ人識字連盟に送られました。
戦争を繰り返す歴史のなかでは、権力者側あるいはそこにいる以外に生きる手立てがなかった人間と、それによって苦しめられた人間、その立場が逆転した時には「裁く者」と「裁かれる者」は逆転するということは繰り返されてきた人間の愚行です。そうした時代に引き裂かれた一つの愛が、生涯をかけて修復に向かうことによって、人間の尊厳と信頼の確かさをくっきりと描き出したドイツ小説でした。
(二〇〇〇年・新潮社刊)
Jan 19, 2007
「辻」・ふたたび。。。
古井由吉のこの短編集について、もう一度考えてみました。短編集であっても、寄せ集めた作品集ではなく、この一冊には底流はしっかりとあって、一編ごとに時間を追うように展開されていました。テーマがなんであるかも、初めて古井由吉の著書に触れるわたくしにも、はっきりと見えるのでした。これはわたくしの感受性の問題ではなくて、古井由吉自身の筆力によるものでしょう。これは認めざるをえないことでしたが、しかし今後さらに彼の著書を追いかけるか?と自問する時、わたくしは「はい。」とは言わないでしょう。これは不思議な読書体験でした。
この「辻」を読みながら、しきりに島尾敏雄の「死の棘」を思い出していたわたくし自身の心の動きも説明が難しい。おそらくこの二冊の小説の書かれ方、視点の置き方に、全く異なる「極」をわたくしが感じていたとしか説明のしようがありません。こんな思いを、この本を薦めて下さった方にお伝えしましたら、今度は島尾ミホの「祭り裏」を薦められました。ぎょっ!
Jan 15, 2007
辻 古井由吉
まずはじめにお断りしておきます。この「辻」は本当は「しんにょう」に「点二つ」の「つじ」ですが、わたくしのパソコンでは入力できませんのでご容赦くださいませ。
この本を読み出した頃から、季節はすでに「真冬」という季節に入っていました。「寒さ」はその源郷としての「眠り」も連れてくるものだと思うのはわたくしだけだろうか。それともこの本のせいなのか?この本には「辻」をはじめとした十二編の短編小説が収録されています。初出は「新潮」に二〇〇四年七月から二〇〇五年九月までに掲載されたものです。「辻」という短編は一編だけですが、十二編全体に「辻」というテーマは少年期の原風景のように在りました。それは父との暗い決別を象徴していると言えばいいのでしょうか。
「辻」・・・それはひととき佇んで、あるいは考える暇もなく、選びとってしまった一個の人間の生きる道筋へのプロローグであり、引き返すことのできないものとしての象徴だと言えばいいのでしょうか。引き返すとしても、「辻」がどのあたりであったのか、思い出すことのできない場所でもあるのでしょう。また主人公が現実に立った「辻」は、そのまま夢の暗部へのもう一つのプロローグにもなっているようです。ここに「眠り」が導きだされているように思えるのです。これらの小説に登場する人間たちはほとんど青春期を過ぎた男女あるいは老人です。
まず「男女の出会い」という普遍的な人間ドラマを、作者はこの「辻」を起点として書いてゆきます。またその「辻」に辿りつくまでの男女の生きてきた過去の道筋が、背後の影のように常にあります。ある長い時間を生きてきて、もう充分に大人といえる男女の出会いがあったとする。その互いの人格に「光」と「影」を与えた者は過去のさまざまな人間たち、あるいは死者たちではないだろうか。それらは男女が互いに向きあった時に、お互いの背後に立ちあらわれるのではないか。どうにもならないその状況が、最も深く現在を支配している。時間の止まったものに対して、生きつづける人間の思いが超えることができるのだろうか。生きている者の敗北すら思わずにはいられない。
古井由吉は一九三七年生まれ。これらを書いた時期は六十代の終わりと思える。「人間の老いあるいは死」ということを考える時、ふたたび人間はみずからの「辻」を思うのではないか。後半の短編になると老人問題がテーマとなってくる。老いの道は「辻」へ戻る道でありながら、そこからは異界へのプロローグにもなるのだ。この「老い」を身近なものとして見つめているのは中高年世代ですが、そこにもまた彼等が踏み込む「辻」があるのでした。
ちょっと奇妙な表現かもしれませんが、これらは中高年男性の「ファンタジー」小説とも言えるのではないだろうか。ここに登場する人々は人並みはずれた人生を生きたわけではない。適切な時期に女性を愛し、結婚し、子供を育て、次第に老いてゆく人々の生活です。「辻」にさしかかる毎に少しづつ生じてくる心の歪に、かすかに沁み込み続ける狂気や夢が現実との境界をあやうくする。そのような生活。。。
「ドッペルゲンゲル現象」「ちいさな失踪」など、現代の中高年サラリーマンの抱いている、慢性的な心労が引きおこす心の病など、一つの社会問題提起とも言えるのかもしれません。それにしても、主人公はすべて男性であり、補助的存在として女性は表現されている。この高齢にさしかかった男性作家の造り出した人間構造には、読了後には拭いきれないような疲労としてわたくしのうちに残るのだった。。。
(二〇〇六年・新潮社刊)
Jan 05, 2007
詩の履歴書 「いのちの詩学」 新川和江
この一冊は「日本のうたごえ全国協議会発行の季刊誌「日本のうたごえ」に一九九三年から二〇〇四年までに連載したものをまとめられたものです。そこではご自身の詩がどのように歌われ、どのような雑誌や新聞に掲載されたか、また詩人や編集者や音楽家との交流などが書かれています。
新川和江さんは一九二九年茨城県生まれ。少女期からすでに身の回りにはない、書物のなかにある世界や言葉に憧れを抱き、詩を書いていらっしゃいましたが、一九四四年、十五歳の時に隣町に疎開してきた西条八十に出会い、そこから新たに詩作は本格的にはじまりました。それから今日まで、絶えることのない詩作の日々を送られていらっしゃいます。
昨年の十二月に新川さんにお目にかかった折に、リルケの「マルテの手記」が話題になりましたが、とりわけ新川さんが拘り、今でも大切に抱いている言葉を改めて読みかえしてみました。新川さんが繰り返しおっしゃった言葉も同時に思い出されます。それは「たくさん読みなさい。たくさん見なさい。」でした。「マルテ」が二十八歳の時のメモを引用します。
『詩は、年若くして書いたものでは何ほどのものでもない。それには待つことが必要だ。一生のあいだ、しかもできるだけ永い一生をかけて、意味と甘美を集めることが必要だ。そうしてはじめて、まったくの終わりに、あるいはりっぱな十行の詩が書けるかもしれない。なぜなら、詩は、人々が思っているのとは違って、感情ではない(感情なら、早くにも十分持てる)、詩は体験なのだ。詩の一行を書くために、人は多くの街を見なければならない。人々や、物や、獣たちを識らなければならない。鳥たちの飛翔の仕方を感じ取らなければならず、小さな草花たちが朝開くときの身振りを知らなくてはならない。見知らぬ土地の道を、思いがけない邂逅を、おもむろに近づき来る別離を、思い起こすことができなくてはならない。――まだ解き明かされていない幼かった日々を、(中略)人は多くの愛の夜々の、一夜一夜がそれぞれに違っていた愛の夜々の思い出を、陣痛の苦しみに喘ぐ女たちの叫びや、肉の閉じるのを待ちつつ眠る、かるがると白い産褥の女たちの思い出を、(中略)しかしまた、臨終の者たちの枕辺にいたころもなければならないし、(中略)そしてそれらの思い出が忘却のかなたからふたたびよみがえる時を待つ、大きな忍耐を持たなければならないのだ。』
新川さんは近代詩の時代から詩作の出発をされて、「荒地」を中心とした「戦後現代詩」に移行する流れのなかで、戸惑いつつも、女性だけの持ちうる感性の豊かさを守りつつ、繰り返し「愛」を問い続け、書き続けていこうとなさったようでした。そしてそれは女学校が軍需工場と化し、校庭はカボチャ畑となり、勉強よりも勤労を強いられた時代からの開放でもあったわけです。
また新川さんは作詞家ではありませんが、多くの作曲家に愛されて、書かれた詩が「歌われる詩」となったことでした。また校歌作詞の依頼も多く、それもかなり自由に書くことが許された詩となっています。また少年少女雑誌への詩の連載、新聞への詩の連載など、「多くの読者へ届く詩」を書かれた詩人なのです。これはとても詩人として大切なことだと思います。街のレコード屋さんで、偶然に聴いたご自分の「歌われた詩」を聴いた時の歓び、あるいは中学校へ招かれての講演の折に、新川さん作詞の校歌を歌う会場いっぱいの生徒たちに迎えられたことの歓びなどを書かれています。
さてこのサブタイトルとなっている「いのちの詩学」は、新井豊美さんがこの著書に寄せられた六ページの新川和江論のタイトルなのです。新井さんはここでこのように書かれています。
『新川さんが「戦後現代詩」に感じた違和は、一言で言えば生きている人間の「いのち」という確かな手ざわりを欠いた、その意味で空なる「観念」の言語に対する違和であり、それに向かって彼女は「愛」という「いのち」そのもの、その全体性を提出してみせたのだ。』
さらに続いて石原吉郎の言葉が引用されています。
『新川和江にあって、愛とは地軸の傾きと同義であって、修正の余地のないものである。』
この石原吉郎の言葉は美しい。
最後にこれに触れなければ、わたくしが書く意味はありません。それは一九八三年から十年間、吉原幸子さんとともに主宰された季刊誌「ラ・メール」の存在とその大切な十年の時間です。この「ラ・メール」は「現代詩手帖」と良い意味での拮抗した存在として誕生しました。そこに集う女性たちは、ある時には赤子を負ぶって出席する方がいらして、赤子が泣き出すとあわてて部屋を出ようとするその女性を皆が引き止めるという光景があったり、フロアーで赤子のむつきを取り替えるという光景もありました。こうしてわたくしは新川和江さんから、たくさんのことを学びました。新川さんのもとから生意気にも「自主卒業をします。」と告げて離れたのは七年くらい前だったでしょうか?新川さんがわたくしの唯一の師であったからなのです。詩を書きながら今でもそばに新川さんの気配を感じます。最後にわたくしの一番好きな新川和江さんの詩をご紹介致します。
胡桃 『はね橋・一九九〇年・花神社刊』より
梨畑では梨が甘くなってゆく
葡萄園ではむらさきの房がずっしりと重くなってゆく
それらと釣り合う甘味と水気と重さを内に蓄えることが
世界と調和するわたしの唯一の方法だった
けれども深まりつつあるこの秋には
わが脳髄よ 森の胡桃のように
よく乾いて落ちることを考え 企てなさい
こまやかに山河を刻んだミニチュアの地球儀になって
草むらで この天体と同じリズムで
ひっそりと
回り続けるであろうこれからの日と夜を夢みなさい
(二〇〇六年・思潮社・詩の森文庫E08)