Jan 15, 2007

辻  古井由吉

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 まずはじめにお断りしておきます。この「辻」は本当は「しんにょう」に「点二つ」の「つじ」ですが、わたくしのパソコンでは入力できませんのでご容赦くださいませ。

 この本を読み出した頃から、季節はすでに「真冬」という季節に入っていました。「寒さ」はその源郷としての「眠り」も連れてくるものだと思うのはわたくしだけだろうか。それともこの本のせいなのか?この本には「辻」をはじめとした十二編の短編小説が収録されています。初出は「新潮」に二〇〇四年七月から二〇〇五年九月までに掲載されたものです。「辻」という短編は一編だけですが、十二編全体に「辻」というテーマは少年期の原風景のように在りました。それは父との暗い決別を象徴していると言えばいいのでしょうか。

 「辻」・・・それはひととき佇んで、あるいは考える暇もなく、選びとってしまった一個の人間の生きる道筋へのプロローグであり、引き返すことのできないものとしての象徴だと言えばいいのでしょうか。引き返すとしても、「辻」がどのあたりであったのか、思い出すことのできない場所でもあるのでしょう。また主人公が現実に立った「辻」は、そのまま夢の暗部へのもう一つのプロローグにもなっているようです。ここに「眠り」が導きだされているように思えるのです。これらの小説に登場する人間たちはほとんど青春期を過ぎた男女あるいは老人です。

 まず「男女の出会い」という普遍的な人間ドラマを、作者はこの「辻」を起点として書いてゆきます。またその「辻」に辿りつくまでの男女の生きてきた過去の道筋が、背後の影のように常にあります。ある長い時間を生きてきて、もう充分に大人といえる男女の出会いがあったとする。その互いの人格に「光」と「影」を与えた者は過去のさまざまな人間たち、あるいは死者たちではないだろうか。それらは男女が互いに向きあった時に、お互いの背後に立ちあらわれるのではないか。どうにもならないその状況が、最も深く現在を支配している。時間の止まったものに対して、生きつづける人間の思いが超えることができるのだろうか。生きている者の敗北すら思わずにはいられない。


 古井由吉は一九三七年生まれ。これらを書いた時期は六十代の終わりと思える。「人間の老いあるいは死」ということを考える時、ふたたび人間はみずからの「辻」を思うのではないか。後半の短編になると老人問題がテーマとなってくる。老いの道は「辻」へ戻る道でありながら、そこからは異界へのプロローグにもなるのだ。この「老い」を身近なものとして見つめているのは中高年世代ですが、そこにもまた彼等が踏み込む「辻」があるのでした。

 ちょっと奇妙な表現かもしれませんが、これらは中高年男性の「ファンタジー」小説とも言えるのではないだろうか。ここに登場する人々は人並みはずれた人生を生きたわけではない。適切な時期に女性を愛し、結婚し、子供を育て、次第に老いてゆく人々の生活です。「辻」にさしかかる毎に少しづつ生じてくる心の歪に、かすかに沁み込み続ける狂気や夢が現実との境界をあやうくする。そのような生活。。。
 「ドッペルゲンゲル現象」「ちいさな失踪」など、現代の中高年サラリーマンの抱いている、慢性的な心労が引きおこす心の病など、一つの社会問題提起とも言えるのかもしれません。それにしても、主人公はすべて男性であり、補助的存在として女性は表現されている。この高齢にさしかかった男性作家の造り出した人間構造には、読了後には拭いきれないような疲労としてわたくしのうちに残るのだった。。。

 (二〇〇六年・新潮社刊)
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