そりゃあ 座じゃな 九十歳をこえるおばあがいう もどろぎの座じゃあ やまにはい くつもあろう すがすがしく きよげな場所じゃったろうが われらがそこにすわっても いのちがきよめられるがな ただ座は怖いぞな 座は ただひとりだけのためにあるんじゃ 山に魅入られたもののひとりさ
(『麻生知子詩集』のうち「もどろぎ」より)
坂井信夫の新詩集『黄泉へのモノローグ』冒頭、「あれから百年かけて」で「おれ」が山の頂の舞台を「もどろぎ座」と名づけたのは偶然ではないと思う。
「もどろぎ」の語義自体を穿鑿するならば、京都・大原に還来(もどろぎ)神社というのがあり、それは京の鬼門にあたるこの場所で都を邪霊から封じるための社だという(逆に邪霊を封印するものともいえる)。また斑(もどろ)くとも表記する思想と関係するものでもあるようだ。斑くとは、マダラにする意から物事を乱れ惑わして、それがまがごとならその霊力を他に逸らす意義があるようである。例えば景行紀に「身をもどろけて」とあるのは刺青をすることであって、恐らく古代以前から日本人に特徴的なタトゥーという習俗は、そこから身を逸らすにせよその力を借りるにせよ、霊力という思想と無縁ではなかったはずである。
坂井信夫の『黄泉へのモノローグ』では踏襲される一定のパターンがある。すなわち何かの予感のように「おれ」がめざめて身を起こし、いろんな衣装に身をやつした「おまえ」が音楽(ほとんどシャンソンだが)に合わせて舞踏するのを見、過去の映画館で上映された古い映画(ほとんどフランス映画)を観て「人間でなかったころ」の「おれ」から「恥を知る人間」になった「おれ」が何かを叫び、闇や草やさまざまな天象に呑み込まれた「おまえ」が「舞台」から消える。そしてさいごに「おれ」は決まって煙草を吸うけれど、煙草の本数はきっかり一箱分の二十本、つまりこの詩集の二十作品の数に対応している。内容が同じなのではない。形式が同じなのだ。これは、それぞれの音楽や歌や舞踏、映画そのものを表現したのではない。あえて言うならこれは「おれ」の二十日にわたっておこなわれた祭祀と、そのなかでの祈りに似ている。祭祀は聖別された山の頂の「おまえ」の身体そのものに宿ったようなカラマツ林においてでなければいけないし、春から冬にかけて、「街」とは異なった、厳粛な季節の移ろいの「山」の時間においておこなわれなくてはならない。黄泉の国にいる「おまえ」をまえにした、魅入られて黄泉の影へと半身をくぐらせた「おれ」にとっては少し怖くて懐かしい、それは「もどろぎの座」なのだ。
作品自体に目を向けてみると、個々のディテールとか映像は喩の論理でうごくというよりは、寓意の複雑な入り組みで出来上がった、例えばファン=アイクとかヒエロニムスとか大ブリューゲルの絵画のごとき論理を感じさせる。もどろぎ、カラマツ、二十本の煙草、百年という時間、「おまえ」の扮するさまざまな衣装、楽曲、映画など、踏まれる時間と空間の形式にはすべて、何らかの意味が込められている。その強迫的なまでに意味・寓意に満たされた作品世界に、私はある種感動の色を帯びた驚きさえ覚える。この仮託はいったい何なのか、この一見虚無の面貌で自らを曝し出している仮託は。
冒頭作とさいごの三作を除く十六篇は執拗なまでに同じ構造の作品であること、それは今さっき述べたとおりであるけれど、その構造の単調さは作者のつよい意志でもあるようだ。しかしその単調な構造の内容はけっして単調なものではなく、多彩だ。そこにはさまざまな歌の、胸を締め付けられる映画の、そしてなによりもかつてあった東京の夜の濃密な匂いが匂い立っている。新宿、神田、池袋、渋谷の街を「百年前」の若かった作者がさまよい歩いた夜々、スクリーンのなかでのように、たしかに「おれ」は「おまえ」に「ギャランス!」と叫び、「ス・ネ・パ・ス・ソワール(今夜は、だめだ)」と血を流しながら囁いたことがあったはずだ。カミュやサルトルが神であった時代、懐かしんで言うわけではないが、夜はもっと深く、きらめきに満ちて、いまと違って性や暴力や革命がある種の聖性をもって(まるで恋を語るように)語られていた時代を、『黄泉へのモノローグ』の世界は髣髴させるのだ。
ところで「もどろぎ座」では女のほうも徐々に変容を遂げてゆく。夜会服、赤いポロシャツ、つなぎの労働着、浴衣の少女、農婦姿、割烹着、そして「しろい麻の着もの」……。これはそれぞれの「おまえ」の現実の時間を諷喩するものだといえる。それは「おれにはおまえのすべてが視えるが、おまえにはおれの姿はみえ」ないという関係のうちで、「おれ」によって凝視された長い長い「おまえ」自身の終焉に至る幻の姿でもある。「おれ」はみつめることしかできない。「おまえ」が死者となって初めて、「おれ」と相まみえることの出来た束の間、女の行為は舞踏の所作から劇(ドラマ)の言語へと転回してゆく。その言葉を聞くことは「おれ」にとってしびれるほど懐かしくそして恐ろしいものであるとしても。
作品番号18から20にかけて、作者はいわば壮大なコーダを用意する。作者は女に『ガラスの動物園』(T・ウィリアムズ)の、『欲望という名の電車』(同)の、そしてこれが決定的なことだが『夕鶴』(木下順二)の台詞に仮託して、彼女自身の想いをまるで言葉の点綴のように語らせている。それは必ず、実際の台詞とかさなりながらそこから逸してゆく部分を持つものだ。
すると、おれによく似た半袖シャツの男が近づいて声をかけた──ローラ。おまえは微笑しながら応えた──ひさしぶりね、ジム。
「眼ざめると、おれは」
《私、強い女にはなれなかったの。》《見ず知らずの人に身をまかせること以外に、うつろな心を満たしてくれるものはないように思われた……》《もう潮風の匂いがする。これから先、私は生涯海の上で生きていくわ。死ぬとき も海の上。》
「朝めざめると、おれは」
《与ひょう、あたしの大事な与ひょう、あんたはどうしたの? あんたはだんだん変って行く。》《与ひょう、あたしを 忘れないでね。あたしもあんたを忘れない。》《あたしはもう人間の姿をしていることができないの。》
「寒さで眼がさめた」
とりわけて二番目の作品で用いられている台詞は、「霧のなかに朝日のさす一瞬あたしは海を棄てたことを忘れている」(麻生知子「山間から」より)という詩句をつよく思い起こさせる。だがそれよりもこの三篇で顕著なことは、女が言葉を発する存在に変容するにつれて、「おれ」の眼には彼女が「狂った」モノに映るようになってゆくことだ。台詞が少しずつ狂い、女の眼が空洞に変わり、髪が抜けてゆく。それもことわりのあることで、女は現世から少しずつ逸してゆく、つまり、あちらがわの論理のほうへ現世をもどろいてゆくのだ。このとき仮託は亀裂を見せる。彼我の境を超えた痛烈な相聞が、一瞬成立するのを私たちは目撃することになる。
このように、いちばんさいごで頂点を迎えるこの連作は、「おまえ」がついに鳥に変身し、「おれ」がさいごの煙草を吸い終えて山を下りるところで長いお話を終える。水と煙草だけで空腹を覚えなかった「おれ」が右の三作品のまえ、17番作品のさいごのところで「はらわた」に「締めつけられるような飢え」を感じるのは象徴的だ。「もどろぎ座」でおこなわれていたのは二十日にわたる服喪の祭祀であったのだ。山を下りるのは生きている者として当然のことである。そこは生者が長く留まることを許さない「もどろぎの座」なのだった。驚くべきことにこれは、ことし六十三歳になる坂井信夫という詩人にとって初めての、痛切な恋愛詩集なのである。
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