装飾について──中国国宝展を見る
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装飾について――中国国宝展を見る



 秋半ば、異常な夏の影響で奇妙な風にくすんで見える木々の間をぬって、東博で開催されている『中国国宝展』を見に行った。今回の国宝展は中国仏教美術に力を入れたものということで、その方面に関心、というか希望の芽のようなものを感じている身としては、期するところの実に大きい展覧であり、チケットを恵んでくださった前田美智子さんに対し適当な感謝の言葉が見つからない。
 展示は大まかに分けて、仏教以前の考古学系と東漸して以来の仏教系とに区別できるけれど、それは例えばヨーロッパにおけるキリスト教の制覇以前と以後のごとき徹底的な峻別の印象をともなうものではない。何度かにわたる廃仏運動の形跡はあるにせよ、東漸してきた仏教というものと、受け入れた側のあいだに認められる宥和・寛容さの在り方には掬するに足る、驚くべきものがある。
 仏教東漸の始めは後漢の時代、紀元2〜3世紀の頃のことのようだが、最初は土地の神仙思想にまぎれこむ形や、呪符的な「お守り」のような形をとることが多かったようだ。ここで言う「仏教」の形跡とは、いわゆる「仏形」(仏像)のことである。最初は平たい板のうえの白描に近い描線や、陶器におけるわずかな盛り上がりでそれと見分けがつくにすぎないような仏形が、魏や斉や唐、はたまた五胡十六国に至る流れのなかで、大きく立体化し、石に彫られ、金に吹かれ、雄大にあるいは細美に、衣を翻し、図像の謎で埋め尽くされ、孜々(しし)としていとなまれる深い風の渦のように中原を始めとする大陸に満ちてゆくさまが、展示室の「順路」を行く私の目のまえに次々と展開する。しかしさっきも言ったが「それ以前」と「それ以後」に目も眩むような断絶はないというか、まるで跡の残らない癒着みたいなこの変わりなさはどうしたことか。
 なるほど、山東省出土のあの息を呑むほど麗しいみほとけたちのかんばせと、さまざまな醜怪なけだものを模したと思しき青銅器の思想とは目も眩む隔たりがあるかに見える。しかし青銅器時代に先んじ、かつすぐに接する(玉(ぎょく)に対する精神的執着という点では見事なまでの連続性を示す)長い長い石器時代の、玉板に彫られた放射状の矢車みたいな光の文様と、石英で出来た腕輪や玉製の匙の「完璧」な立体的精緻・優美(それらの製作に金属は一切用いられていない)の関係は、みほとけの光背や袈裟を埋め尽くす象徴的な図像と、彼女たちのおもだちの立体的優美そのものとの関係に、そっくりそのまま置き換えることができると思う。
 顔や形の立体的優美・洗練は技術的にはまさにこの時代であってよかったし、また別の時代であっても(石器時代でも、例えば孫文の中華民国の時代であっても)じゅうぶんに「可能」ではあろう。一万年や二万年では人間はそうたいして違ったことを、出来るわけでも考えるわけでもないのだから。私が注目したいのは、そういった具象に類する事柄より以上に、玉板における輪と放射状の線条からなる、ある思想をあらわしていると思しき図像のほうだ。解説を引く。

(…)中央に8つの先端をもつ星形を表わし、その周囲を円で囲む。その外側に矢の羽根のような文様と放射線を8本ずつ刻み、その周囲をさらに円で囲む。その外側に4本の矢羽のような文様があり、玉板の隅に向かって伸びる。玉板の周囲には多数の孔(あな)がうがたれており、この玉板が何かに縫いつけられていたものと想像される。/中央の星形を太陽とみれば、太陽の光がまさに四方八方に伸びているさまを表わしたものともいえよう。それだけではなく、東西南北の各方位への祭祀に関係するものとみることも可能であろうし、何かの占いに用いられた可能性も考えられる。(図録P.20~21)

 かくのごとき象形が「何」をあらわしているかは別として、いずれひとつの思想であることは間違いなく、それが同時に石英の完璧な丸(リング)や、玉の匙の完璧な薄曲面を可能ならしめているモチベーションたるに疑いないことに驚きがあるのだ。
 仏形ということで言えば、インド出自の仏像にはいろいろな約束事があるようだが、みほとけ本体の頭頂部とか眉間白毫とか印契(いんげい)とか衣とかのほか、光背の炎や蓮華座の相が必ず出現する。また「楼閣形」とされる中国独特の仏塔には、釈迦にまつわるいろんな説話が彫り込まれて、仏形本体のほかにさまざまな装飾的な文様が施される。これが隋仏や魏仏になって発展してくると、大きく取られた光背の空間やほとけのお体そのものに、複雑かつ精緻な図像がみっしりと描き込まれる。
 これらはもともとは石に彫られいまここに現前しておわしますみほとけの、その存在を理由づけている思想であり、象徴であり、そしておなじことだがその讃歎でもある。ここではフィジカルな展覧がほぼ不可能である、石窟寺院における仏教美術がいかなるものであるか、ほんの断片しか出品されていないが、その伎楽天や火頭明王の色鮮やかな具体性を目の当たりにするとき、隋仏魏仏の図像がいかに抽象的であるか、言い換えればいかに象徴的なものであるか(かつ論理的であるか)気づかされることになる。時代は極端に異なることはないけれど、こんなところに、甘粛省麦積山という西方と山東地方という東方との違い、仏教が中国を「東漸」するということの一つの傾向が見て取れる。
 話が逸れた。私が関心のあるのは、玉板の文様と、仏を象徴的にあらわしている図像とのあいだに見られるある種の共通性である。繰り返しになるが、それらは明らかにある思想の文様化であり図像化である。そういう点で、その現実的な線の屈曲や反復のことごとくには幻のように「意味」が付属している。より厳密に言えば、そのことごとくの描線は「無意味」ではない。これを立体の仏像にあてはめてみれば、瓔珞や水瓶、袈裟や印契などの形状は、ある思想をあらわすということで一般的に言う「意味」をひめているけれど、その形状自体のほんとうの直接的「意味」というのはむしろ、トルソとしての仏像の、立体的具象的な統合に向かう観点で言われるところのものなのである。仏像の、例えば片手の中指と親指で環をつくる印契はある思想をあらわしていると言えるが、その形状の現実そのものが喚起する第一の「意味」は、ヒトに似せたみほとけの(思想ではなく)肉体としての「手」の具象性に収斂されてゆくのである。
 言い換えれば、印契そのものは直ちにある思想をあらわすが、印契を結ぶ仏像の当の「手」となると、まず立体的に象られたある空間を媒介してからでないと、有意の思想をあらわすことができないのである。つまり、ほんらい無媒介であるべき印契と宇宙の関係に、空間が介在することになるのだ。
 玉板の文様もそうだけれど、仏教美術における図像もキリスト教の十字架と同じく、ある精神性というものを、われわれの心にひとつの直接性をもって刻み込む印象がある。仏像や仏画の具象を現出させているいま言った空間という「意味」は、やがて芸術へと赴くけれど、仏教で言えば卍形などがあらわす「意味」というもの、精神性というか心にとっての直接性が赴くところは何かといえば、それは装飾ということになるのだと私は考える。ヒトがする装身具、服飾、化粧などといった類の根底には、自らを超え、自らを支える「思想」に対するヒトの態度というものが存在するような気が、私にはする。
 冠、アイシャドー、頬紅、口紅、イヤリング、ネックレス、指輪、ブレスレット、アンクレット、マニキュア、ペティキュア、そしてウエア……これらは現代、モードと言われる急流のなかで鎬を削る運動を見せているが、それは例えば半年前の装飾はもう使えないという可変性を示すものだとしても、いま列挙したのとおんなじ「装飾」それ自体の形態はすでに新石器時代には現代と比べても、ほぼ不変の完成形を見せているのだ。
 思えば山東地方出土の、ほとんどギリシャの微笑みを湛えたみほとけたちを飾っていた、多くのタイや宝冠や宝玉付きのベルト、ブレスレットは、大光背に燃える炎や竜の無時間、化仏や飛天の舞う象徴的な空間と同じく、荘厳された世界への扉を開ける鍵のようなものではなかったか。装飾品とはまさに「あちら」の世界を、もっとも簡約に現世の言語に翻訳した、手に取れる具体物であり、心にとっての直接性である。たとえある具体物が精密に象られているにせよ、それは精密さを鑑賞するためではなく、「精密である」という側面を持つ思想を身に装うためなのである。この意味ではナイキのロゴマークも、青銅の鼎に施された空間恐怖めいた文様の密集も、仏の瓔珞も同じく、以下に引く世界の消息を伝える媒体にほかならない。

 琮(そう)とは四角柱に大きな丸い孔を縦方向にうがった玉器である。のちの時代にも作られたが新石器時代の良渚(りょうしょ)文化でとくに流行した。側面の縦方向の稜を中心にして顔のような文様を表わすのが普通で、しかも顔が何段にも積み重なった状態を表わすことが多い。/この琮は顔が4段に積み重なっているが、小さい円の両側に切れ目を入れた眼をもつ小さい顔と大きな眼をもつ大きな顔の組み合わせを、2回繰り返していることがわかる。この顔は、ナンバー9の柱形玉器に表わされた神人獣面文を簡素化したものである。したがって柱形玉器と玉琮には、同一か、あるいは同じ系統の神が表わされていることがわかる。(図録P.25)

 この神の顔は新石器人がそのまま目の当たりにしたものでは、恐らくあるまい。彼らが何ものかを目撃したとして、彼らはそれを神人獣面という言語に翻訳しているのだ。このとき言語は一義的でなく、複層的暗喩的であると言える。このときヒトは神を描写するのでなく、象徴のなかで神と出会ったのである。そうして今でもヒトは、そのときの「あちらがわ」の空のきらきらとした記憶の破片でもって装って、大きな森のような街のなかに入ってゆくのではないか。


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