キャベツ畑から飛び立つもの ──『奇妙な仕事を終えた夕暮れに』随想
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キャベツ畑から飛び立つもの ――『奇妙な仕事を終えた夕暮れに』随想



 こんど出た詩集『奇妙な仕事を終えた夕暮れに』は、北沢十一の二冊目十二年ぶりの作品集だけれど、そのおおよそが、この間の彼の個人詩誌『地上』に発表されたもので、詩集を読み辿ってゆくとおのずから、処女詩集『助走』以後継続しておこなわれつづけた(創作、編集、発送その他の雑務も含めた)北沢の連綿たるいとなみを目の当たりにするという仕組みになっている。
 そこに現れているのは郷里の松山という土地柄の、明るくて凪いでいて、夜が大きく、水の匂いが絶えず立ちのぼってくるような、あるいは少し野暮で、同じだけの洗練がみとめられるみたいな「現世」であるといってよい。
 というのも、今回縁があって松山に行き、北沢十一本人とも会ってきたのだ。松山は正岡子規をはじめ赫々たる俳人の多くを輩出したところであり、今その俳句人口が目を瞠るべきものであることは周知の事柄だが、それが子規個人にのみ帰せられるべきものではないことが、行ってみて初めて判った。あそこには近世初頭以来の、連歌の、連俳の、古俳諧の伝統があったのだ。無論それには経済的に豊かな土地柄と、松山城にいる加藤の殿様の遊芸好きと、気候が育んだ穏やかな人情とが相俟って成り立つものであることは言うまでもない。俳句はそういった大本のものがもたらした一つの枝葉に過ぎないと思う。洗練はそういう要素の醸し出すものだし、野暮といえば子規に比べ(あるいは松山という土地のかなしいほどの明るさに比べ)、たとえば漱石なんかのほうがずっと野暮だ。私は松山の昔人である、たとえば文人画家の蔵沢における飄逸や夢幻の、どこか世を相対視する感じと、北沢十一の、最後の一行でそれまでの全詩行を完璧に終わらせるやり方とが、どこか深いところで繋がっているような気がしてならないのだ。実に多様でとりどりのものが原因し、生起し、帰結する。それをうつす北沢の眼はほんの少し潤んでいるかのようだ。たとえば次のごとく。

 そうしてぼくは
 胸骨の奥まで透き間なく
 この町でいっぱいになっている
 内耳のリンパ球の下を川は流れ
 川向こうには古い書店がある
 「小学館の学習雑誌は 小学館の・・・」
 とても長い看板が取り囲む二階建て
 ガラス戸の桟には求人広告
 夜風が首の温かさを抱きしめる
 川船のきしみはじっと動かない
 でも橋の向こうに暮らす人は
 橋を渡ってぼくの夜の中にやってくるだろう
 そしてこうつぶやくのだ
 「生涯とは大きなブランコが
  ひと揺れするくらいの長さだったよ」
     (開閉橋のある町)

 北沢が見ているのは今言ったように「現世」であり、そのさまざまな現象であるという意味でじゅうぶん過ぎるほどの具体性を有しているのだけれど、彼の眼にウエットに映じているその具体的な「現世」は、存在にからみついて息をもさせないような具体性というのではなく、どこか他界から眺められているようなおもむきがある。そのなつかしさは、かつてそこに暮らしていた人が、その町を彼岸から見遣っているような明滅を帯びている気が私にはする。
 これは北沢がひとりの帰還者であることと関係があるのではないか。帰還者とは、若いときに東京に学び、故郷に帰って職に就いた青年であったことを意味するほかに、詩法と思想のうえでの帰還者であることを謂う。第一詩集『助走』にはごく若書きの二篇の作品がみとめられる。私は彼がどのような学生時代を東京で過ごしてきたかを知らないが、おそらく投稿作品であろうそれらは、あきらかに七〇年代詩の余燼を匂わせて、彼があの熱狂の時代に少し遅れてやって来た青年詩人であったことをうかがわせる。そして誰もが詩法を変え、宙吊りにされた世界観のいわば落としどころを求めてさまよわねばならなかったように、彼もまた『助走』の他の多くの作品に見られるように、詩の舵を大きく転回させ、おそらくそのことと密接に、郷里で職に就き、家族とともに生きる当たり前の男として詩を書き始めることになる。
 今まできわめて多く見られたのが、こうなったとき筆を折る例である。いかにも昔風だけれど、たとえば七〇年代風に、「棺のような廃材に密閉された廃屋/瑠璃の窓には引きちぎられた呪符」ともあろうところを、そうやってそのまま筆を折ってしまうことになるであろうところを、北沢は今引用した例でいえば「とても長い看板が取り囲む二階建て/ガラス戸の桟には求人広告」とやる。青年だった北沢ならばこうはやらなかったはずだ。つづいて「夜風が首の温かさを抱きしめる/川船のきしみはじっと動かない」と微妙に変化して行くあたりがあまり凡庸ではないところだと思う。そして何物かの訪れがある。「でも橋の向こうに暮らす人は/橋を渡ってぼくの夜のなかにやってくるだろう」。他界と此岸が密かに接し合う、こんな訪れを感じ取る絶妙な位置を、北沢は故郷の場所(それはそういう世界観の据わる場所でもある)に得たのではないだろうか。それは故郷の場所に安んじているというよりは、他界からそこに初めて降りてきたまなざしで、子供に手こずり、職場で苦労し、ジョギングや自転車やバイクで辿る迷路みたいな町の一隅で、家族や親族の記憶と共に一杯やっている、煎じ詰めれば幽かな嘆きとも見まがう独特の世界の見方だ。彼はまるで泣かせるイタリア映画の決め科白における、愛する人にのこす遺言みたいに書く。「生涯とは大きなブランコが/ひと揺れするくらいの長さだったよ」と。
 そういう意味では、第一詩集『助走』以上に今作品集は、道徳臭を払拭して「人生」というものについて語りうるものとなっているのではなかろうか。

 子どもたちよ 最後にわたしは
 とりとめもないけれどあなたたちに伝えておきたかった
 すべての別れは思ったよりもはるかに早く訪れ
 なかなか終わらないのだということ
 (略)
 私たちは生きてゆく
 見えない町の小さな路地裏に隠れるようにして
 夜になればボロボロの大きな帆をあげて
 長い航海を続ける人となって
     (田園)

 暴力は暴力の中で
 勇気は勇気の中で育っていくように
 言葉は言葉の中で意味の深さを育んでいく
 それでいいのだと思う
     (奇妙な仕事を終えた夕暮れに)

 用具庫のマットの上で
 シャツを脱ぐと泣けてきた
 目的について
 悩むのは若いときだけだと思っていたのに
     (雨)

 まさに人生が語られているのだが、説教くさくもなく卑しい文学臭もない。百年二百年どころではない、家族を持つすべての男が多かれ少なかれくぐってきた、避けることの出来ないかなしみの門ともいうべきものをこれらはあらわしていて、私たちは世界には理法が在るということを仄かに感得することになる。「普遍性」とは若いころに考えていたような高い抽象ではなくて、文字どおり「遍きもの」として、誰にとっても首肯しうる、「セ・ラ・ヴィ」という具体性でなくてはならないと思う。十二年前の現代詩手帖月評で福間健二は北沢の『助走』を評して、もはや「『うまい詩』を書こうとしていない」「それをどこかで疑って」いて「卒業している」と書いたけれど、この十二年後の舌を巻く成熟はどうだ。その軽さ重さを自在にかつ飄逸に駆使した詩集最後の作品「キャベツ畑から飛び立つもの」のじつに湿度を含まない、明快な絶望をあらわした最終行を引いてみたい。

 今僕の机の上には
 72分の1スケールの飛行艇の模型がある
 精密なディテールが暗喩の雲の中を飛んでいる
 でも祖父の過ごした時代はどこにも流れていない
 また彼の希望したものもすでにどこにもない
 「A技師と ―1930夏ー」と書かれた
 キャベツ畑のような場所で撮った祖父の写真が
 一葉あるだけだ

 北沢に聞いたら、フィクションと現実とを微妙に綯い交ぜてあるそうだが、じじつ親類に戦前、飛行機の関係でイタリアまで留学した人がいて、『紅の豚』の世界を、彼は思い出すたび、髣髴するそうだ。「でも祖父の過ごした時代はどこにも流れていない」とあるけれど、むしろその否定形は、湿度を含まない「キャベツ畑」の晴れた空の永遠を示すものではないだろうか。

『奇妙な仕事を終えた夕暮れに』(北沢十一著・創風社出版刊・2000円)


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