けっきょくはいただく形になってしまったのだが、久しぶりに自分が欲しいと思った作品集をもとめ、読み、堪能した。そんなにたくさんではないけれど、恵与されることのある詩集のなかにこれは、と感じるものは数少ないながらあるにはあるのだが、自分からもとめる気になってつてを探り、得た詩集を読んで、堪能する、という在り方は、ずいぶん長らく経験していなかったと確実に言える(恐らく五年十年ぶりどころの話ではない)。
読後感を感動、と言ってしまえば、いっそ八月にやればことはダモクレスの剣みたいに焦点を結ぶのに、厄除けにもならない初詣をしたどこやらの首魁の口吻にも似るので避けておく。それならばここに置きたいのは、この詩集の「あとがき」における次のごとき言葉であるべきだろう。《同世代と思われる養老孟司氏は、塩野七生氏の言葉を引いて、われわれの世代は「夢もなく、怖れもなく」生きる世代であると述べているが、私には「怖れ」だけはあったようである。》そしてつづけて、世界に満ちる理不尽な暴力による死者たち、ニューヨークの、パレスティナの、イラクの、その彼ら彼女らを葬るべき儀式もなく、指導者たちは続々と新たな死者を生み出すべく準備していると書く。ここで言われている「怖れ」とは個人的な、ほぼ怯懦に通じる意味での恐怖感ではなく、恐怖感ならヒトとしての自分が、例えば世界のすべてであるときに感ずるであろう恐怖感、「恥と怖れを知れ」という意味での畏怖の感情ではないかと私は思う。
ひとつの崩落を見た者として、それらの死者に無関心ではいられない、と詩人はつづけるが、崩落とは彼の体験である、一九四五年八月九日、長崎市民に対しておこなわれた原子爆弾による、万の単位に及ぶ大量殺戮という蛮行のことを指す。かつて、核について、それは人間の科学的な達成によってもたらされたものであり、生み出した人間の科学的水準の高さによって、核の諸矛盾は必ずや解決されると語った老思想家がいたが、八〇年代当時の政争の具としてもみくちゃにされた核問題の醜態の一面を、それは「記述」するものではあっても、問題の本質に光を当てているものとは私には到底思えない。愚者が同時に最高度の文明の王であることが珍しくないのは、有形無形の多くの史実に、その興亡とともに明白なところである。それどころか、いろんなことがめちゃくちゃになって来始めて、いよいよわれわれの生存さえも危ぶまれる事態の接近がこうまで具体的に感じられるようになると、ほんの十年まえくらいの暮らしまでが、ありえなかった夢まぼろしのように思えてくるから不思議だ。そのことを詩人は、おとなしやかな挙措でそっと、しかし鋭利なメタファーで示すのだが。
作品集は4部に分かたれ、作者によればこのうちパート1と4とが近作で、いわばこの詩集の中心的な軸をなしているが、私見ではもっともシリアスで力のこもった重厚な作品群といえる。そして2と3の中核を形作っているのは、(シリアスでないというのではない)いわば喜ばしい、作者の積年の技倆と、おそらくはそれ以上の才が然らしめている、みごとな佳什の花々である。この1から4まで、少しずつ、覗いてみたい。
この詩人としてはいわば籠手調べにすぎないのだが、例えばミラノで遭遇した雨はこんなふうに描かれる。《おおい 天が抜けるぞ――/すると スフォルツア城からダンテ通りを/白いしぶきが 轟音とともに駆けてくる/おおい 天が――/街が一瞬にして暗くなる/広場に面した土産物屋の店先で/濡れてさがる旗》ぜんぶを言い切っているというのではない。が、このうえもなく正確に、そのときの音、光、匂い、大気の感じまで伝わってくる。一般的な雨、というものは存在しない。それは必ずsomewhereにおける、特定の時間のなかでの雨である、という意味で、詩人の描く雨は言語や文化や地誌歴史、季節をふくんだ具体性としてここに立ち現れているといえよう。こういう顕現は詩集『精霊たちの夜』のいたるところでスパークしているのであって、ちょっと憂鬱症らしい詩人の文明批評的な側面は、こういう喜ばしさ、唸らされる技に嬉遊するもうひとつの側面に裏打ちされたものであることは、気づいておいていいのではないか。この作品「歩廊(ガッレリア)」に加え、「サルヴァトーレ」「ソンブレロ星雲」の3作品を、私はひそかに「ラテン三部作」と呼んでいて、こういう向日性がシリアスさとはまた違った高さに通うものであることは、ある種、平安期の歌や江戸前期の俳諧にも繋がるものではないかと、これもまた私はひそかに忖度しているのである。
文明批評といえば、まるで箴言のような犀利な詩行の数々を、ここで眺めておいてもいいのではないか。《扉はいつも前触れもなく叩かれ/世界はいつもこなごなに砕かれる》(「儀装帆船の夜」)、《ユダヤ人だから助けたわけではない/この村だけが助けたという話でもない/そう言って 村人は口を閉ざす/あたりまえのことをしたのだ/夕餉の支度をするように》(「白い道」)、《突然の惨劇に襲われたマンハッタン/の空へ/理不尽に放り出され/世界中の刷りたてのグラビアの谷間を/男は今も墜ちつづけている》(「墜ちる男」)、《ユビキタスなんてはしゃいでいるうちに/世界には新しい帝国が生まれ/指をちょっと立てるだけで/ひとつの国をつぶしてしまう》(「シーマ」)、《破れ傘(註:キク科の多年草の名)が消えた日/森に/きれいな舗装道路ができた日から/凹面鏡でのぞいたように/世界はすこし歪んでいる》(「破れ傘が消えた日」)……。
これらは、憤激であり、悲しみであり、祈りでさえある言葉の数々なのだけれど、それを詩人はみごとな工芸品みたいなコンポジションのうちに発現させる。これを詩人の(作品のための)冷徹や自負のあらわれと見るのは、たぶん、当たっていない。逆に、これらの言葉のテクニックは、言わんとするところを読む者に狂いなく、確実に届かせるためのやいばであり、それを鋭(と)くさせる砥石であって、憤激や悲しみや祈りを深い湖みたいに湛えた詩人のこころから見るとき、私はこれらにむしろ含羞のあらわれという表現をこそあてはめてみたい。
1における諸作がこの作品集の冒頭にある、というのはやはり理由のあることだと思う。さっき、いろんなことがめちゃくちゃになって来ていると言ったが、そういった焦眉の、医療や行政や計数にかかわる、ほんらいは詩のテーマとはなじみにくい領域のことどもがある裂け目として(これは、文学的な言い方ではない)、全世界的に、普通の生活に接近してきているということ、そしてそれが詩の世界を歴然と覆いはじめたテーマとなってきたこと、こういうことはここ五十年百年のスパンをとってみてもありえなかった事態なのではないか。1の作品群をひらくとき、そういったテーマの数々が、二十世紀の入口で例えばフランツ・カフカが目撃した悪夢にも通じる、粟立ちを覚えるまでの達成(そう、言い切ってよい)として、静かに差し出されているのを私は見る。けっして声高ではない。だが、やいばと砥石は極限まで研ぎ澄まされ、メタファーは作品の全体に溶融して、夜の深い闇のなか、アレルギーを患う男がつるつるの絶壁に、てのひらと革靴の両足だけではりついていたり、果てしない海に女が浮いて、男に何事かを呟いてまた沈んでいったり、被爆して死んだ兄の背に埋め込まれた「白い光の毒」を、死んだ母が銀色のピンセットでたんねんに抜いていたり、あるいは水鳥で有名な三番瀬から望む、「年ごとに ひどくなる」沖――だがこれらは単なる無色の幻ではなく、沈黙なら沈黙の手触りや冷気までが伝わってくる、驚嘆すべきリアリティを持った悪夢なのだ。
そしてこの詩集のタイトル詩「精霊たちの夜」。作者によれば、このタイトルは年を重ねるのにしたがって身近にみまかる人が多く、彼らを見送る思いを込めてつけたという。この、精霊の読みは詩人の出身地を考えると、セイレイではなくショウロウではないかとも考えられるが、藁の舟に精霊を乗せ、満天の星の下、少年だった詩人が沖まで泳いで舟を押してゆくところから詩ははじまる。家紋付きの提灯や黄ウリ、西瓜とともに精霊たちはにぎやかに沖へ行く。だがいまふるさとに満天の星空はない、と詩人は書く。《ひとびとは ことさらに巨大な精霊の舟を作り/紙吹雪のように爆竹をばらまき/銅鑼を鳴らし 暗い天に向かって/ひたすら花火の銃弾を打ち上げるのである/街中を練り歩いたあと 舟たちは/すべて人寂びた浜辺に座礁し/夜をこがして あかあかと燃え続ける》この最後の連は、現在の池山氏が故郷で見るところの精霊流しの光景かも知れないが、少年池山吉彬が満天の星の下で体験した、祭礼の終わりの実景と二重写しになっていると、読むこともできるのではないか。宗教それ自体に向けられた祈りというものはあり得ない(E・M・シオラン)。それと同じように、祖霊が、神が不在の精霊流しは、厖大で果てしなくむなしい蕩尽にほかならない。いま全世界的な規模でこの蕩尽は粛々とおこなわれつづけている。だんだんと無意味なものとなりつつある、人間がするあらゆる行為、手段、目的などを、座礁し燃えつづける精霊舟に譬えることももちろんいいけれど、詩人はこのむなしい炎という骸(から)のまえで、少年の日に見たうつくしい幻影でも見るみたいに、もはや陶然と立ち尽くしているかのようでもある。
*一文は田川紀久雄氏主宰「漉林」第一一七号に掲載の、川島洋氏による『精霊たちの夜』書評が契機となったことをお断りしておく。
ゆぎょう 十一号 2004・1月
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