鉄斎の時間
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鉄斎の時間



 正月明け、有楽町駅から延びる通りを、冬のふるえあがるような朔風と西日を浴びながら、鉄斎展を見に出光美術館をめざした。展示のタイトルは「没後八十年 最後の文人 鉄斎――富士山から蓬莱山へ」というもので、これだけの言葉でもいろんなことを考えさせられる。
 まず、「没後八十年」をどう判断したらよいのか。時間として長いのか短いのか。これには「最後の文人」という名称が大きく関わってくると思う。百年を一世紀とする時間観からすれば、八十年前とはまた随分と遠い、十分に昔のことのような気がするであろうが、文人の概念を私なりの世界観から納得しうる範囲で(ある意味で厳密に)考えるとすれば、「最後の文人」がいなくなったのがたった八十年前でしかないとは、また随分最近のことではないかという感じである。これは鉄斎の八十九という享年の大いさとは関係があるようでいて、あんまり関係がない。
 そもそも、文人とは偉大な個性や卓絶した天才とは必ずしも相反する概念ではないが、空前絶後のひとりひとりとは全く違う、例えば帝国を興したり、大運河を開削したり、同じ手つきで一国を亡ぼしたり、あるいはひとりっきりでアパルトマンの部屋のうちに完結して終わるごとき個性とは相反する、時間によって繋がれた(これを無時間と言ってもよいが)ひとりひとりであると言うことができると思う。画にしても詩にしても儒にしても釈にしても、そのときのひとりの前には(正面から受け継ぐにしろ、否定しあるいは韜晦するにしろ)必ず誰かの後の誰かがあり、後に誰かが必ずつづくであろうそのひとりは、大きくてゆるやかな流れのなかに画然と存在するのであって、この流れを時間といい無時間と称してもかまわないけれども、それを美術史や宗教史や文学史としてくくってみても、なんとなく、どれも違うような気が、私にはする。文人というわけではないが、例えば『教行信証』や『正法眼蔵』などは確かに巍々としてたかい一冊一冊ではあるが、それをもたらした仏教二千年という法統のなかに置いてみて初めてその真価がはかられるものであろう。ではその二千年は長いか短いか。仏教史と法統の時間とは同じ範疇で考えられるべきものなのか。客観的な歴史的時間という考え方は、じつはかなり危うくて脆弱なものなのではないかという気がしてならない。
 鉄斎は自らを画家ではなく儒家として自任していたようだが、どこの御用達ということもなく、むかしの(ある種の、ほんものの)学者はどうもしかつめらしさの裏にこころの空山に嬉遊する仙術をひめていたみたいで、鉄斎もご多分に漏れず、遊びに遊んだその痕跡にすぎないものが、その描いたところの万とも言われる書画の数々であったと、私は考える。芸術は芸術なのだが、その色や線や筆致はある世界観そのものであり、宗教的に言えば祭祀のようなものであるから、必ずと言っていいほど添えられた賛(つまり、言葉だが)はその画を見るうえでけっして無視できるものではない。例えばこんな賛は鉄斎における時間観を知るうえで興味深いものがある。「流年復た記せず。但だ見る 花の開くを春と為し、花の落つるを秋と為すを。終歳、営む所なし。惟だ知る 日出でて作し、日入りて息うを。」(「漁父図」明治十五年、賛の出典が記されていないのであるいはこれは鉄斎自身によるものか)。これの大意は次のごとくである。「過ぎゆく時を一々おぼえてはいない。ただ、花が咲けば春が来たと思い、花が散ると秋になったと感じるばかりだ。一年を通して何かを成し遂げるわけではない。ただ、日が昇ると働き、日が沈むと休むばかりだ。」
「終歳、営む所なし」という言に私はあこがれる。これは以下の詩句にただちに接する世界の眺め方でもあろう。「世泰く時豊かにして芻米賤く、酒を買うに頗る青銅銭有り。夕陽半ば落つ風浪の舞うに、舟船 港に入りて 危顛無し。鮮を烹 酒を熱めて知己を招き、滄浪迭いに唱いて 乃お舷を扣く。酔い来りて盞を挙げ、明月に酬い、自から謂う 此の楽 能く僊に通ずと。遥かに望む 黄塵道中の客。富貴は我に于いて 煙雲の如し。」(「大江捕魚図」大正五年、詩は明の唐寅「詠漁家楽詩」)。
「富貴は我に于いて 煙雲の如し」とはまた、深いふかい溜息のようだ。もちろんこれは理想とするところであって、唐寅も鉄斎も当然濁世に佶屈していた、その現実のなかで思い描かれた仙境であることは想像に難くない。唐寅のことはよくわからないけれど、帝国美術院会員を拝命し、在世中に正五位に叙せられた鉄斎が、十分に生臭い世界のことに通じていなかったはずはない。けれど、鉄斎という存在のどこからも、不思議なことにどんな臭気も漂ってこないのだ。この風韻は画における色や線、書における一点一画にも充満していて、こういった感じは明治以前の、はるか明日香の石棺に描かれた文様にまで通うものでもあり、しかし江戸が終わってからこっちは鉄斎ただ独歩の観がある。こういう、時間ないし無時間のゆるやかな流れに繋がる感じこそ、鉄斎が「最後の文人」といわれる所以であろう。横山大観あたりに代表され、以後現在にいたる日本画に、宿命のように刻印されているある種鋭敏な文学性とでも呼ぶべきもの、それとははっきり無縁の哲学がそこにはある。
 いま言った「文学性」のある極みのひとつが、例えば魯山人あたりなのではないか。鉄斎との比較となれば魯山人が気の毒のようなものだが、文人と文学青年の違いくらいのことは指摘しておくべきだろう。鉄斎が非形象を表現するのに驚くほど豊富な形象をもちいるのに対し、魯山人はひとつの形象を表現するのに、かぎりなく非形象に近いともいえる形象の痕跡をもって暗示する。魯山人があるものを驚くべき豊富さを有した色と形象をもちいて表現する場合も(昭和初期の雲錦鉢、染付葡萄文鉢、椿文鉢など)、それはなにものかの痕跡という感がつよい。非形象たる哲学もまた、何かの遺構みたいな影として示されるに過ぎない。鉄斎における俗はまっすぐに祝祭に通ずる色合いを持った生活そのものといえるが、比して魯山人の生活のなかに俗はあったのかと考えると、それはなかったのではないかというのが、案外正解に近いような気もする。俗のない生活というものは猥褻なもので、そんな苦しさで七十数年になんなんとする生をよく全う出来たものだ。ただし彼が指導した美食倶楽部の料理はちょっと試みてみたかった。
 俗といえば鉄斎の晩年(彼が本格的になってきたのはほぼ四十を過ぎてからだが)には、走り描きのようだがいささかもその本領を逸していない扇面画の数々がある。現代人のある種の人々から見れば、下らないといえば下らなかろうが(特にむかしの商家の壁などに張り付けてある道歌のごとき)、私にはたいそう面白く、一枚失敬したいくらいのものだった。猿が書物をひらいて歌を詠んだり、ほんとうに邪鬼が逃げ出すかのような赤く描かれた「鬼」の形象文字の横に書かれた「富久者有智 遠仁者疎道」(「ふくはうち、おにはそと」と「富久しき者は智有り。仁に遠き者は道を疎んず」と両様読める)など、それらが持っている匂いや時間の感覚など、あるいはもっとあからさまに同一の画題(瓢箪鯰や福禄寿)など、これも先日町田の市立博物館で見る機会のあった大津絵の世界に深く通底するものを感じた。今回の鉄斎展には「普陀落伽観世音菩薩図」(大正四年)と「白衣大士図」(大正九年)が見られるが、その懐かしいようなおそろしいような菩薩たちの描線は、大津絵におけるさまざまな仏たちと同じ匂いがあって、それは百五十年ほど前にいちどはっきりと断ち切られたはずの時間をありありと想像させる。そんな鉄斎の生家は京の法衣商だそうで、大津は山科を越えた隣だが、耳の不自由な鉄斎は大切にされた子供の頃から「流年復た記せず。但だ見る 花の開くを春と為し、花の落つるを秋と為す」「終歳、営む所」なき日々の時間にゆるゆると身を浸していたのである。    


   ゆぎょう  十三号        2004・2月


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