キョウコとは誰か──関富士子詩集『女―友―達』書評
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キョウコとは誰か――関富士子詩集『女―友―達』書評



 関富士子の『ピクニック』につづく今回の詩集『女―友―達』は、群を抜いた力量の持ち主が、そのぶあつい経験と才能を惜しみなく傾注して私たちに突きつけてきた書物である。「突きつけてきた」とは、このごろではもうこんな形容をする者もいなくなったが、さいきんの(すぐれた)詩に、技巧の絢爛やメタファーに舌を巻くこと、あるいは「世界」の背後に神話のように荒れた草むらの暗示を感じることはあっても、まぎれもない「さいきんの詩」である関富士子のおなじそれが、痺れるような甘さと苦さを持ち、技巧とははっきり異質な眩暈をはらむ「明快さ」みたいなものを感じさせるのは、なかなか、ふつうのことではない。誤解を恐れずに言えば、彼女は、メタファーや技巧の海の永い航海のすえに、ついにじぶんをオリエンテートする大地に上陸したのではないか。もしかしたら、「世界」を分割する言葉を手に入れたのではないか。「突きつけ」られた印象は、たぶん、それが私たちに届いたおりの、厳粛さからくる。
 そのことのくわしい説明は後に譲るとして、私たちはまず、冒頭の「定期バスに乗って」の道行きをくぐることにより、作者といっしょになって「時間」の扉をあける仕掛けになっている。次々と、まるで絵巻を展げるみたいに、「渡り舟場」や「蓬莱橋」や「小手神森」などのバスストップの名前とともに、クミコやカズコさんやマコ、ミズエ、マチコたちの逸話が現れるけれど、それらは現実の過去(という言い方もおかしいが)であると同時に、詩人の幻としてまざまざと存在する幸福で痛苦に満ちたワンダーランドともいうべき、『女―友―達』の時空なのである――バスではじまる旅はまたバスで終わる、冒頭と最後の作を読み、この一冊の書物がひとつの円環を形づくっていることに私たちは気づくだろう。
 表題作「女友達」は、じつはそれらの時空からは少し離れた場所に成立している、むしろ当作品集「以後」を睨んだ一群の作品のひとつなのではないか、と私は邪推しているが、こういう形で詩集としてまとまるまで気がつかなかった。映画というものが二十世紀以後の寓話をある意味で代弁しているとしたら、それにまっすぐ通じる匂いを持ったこのタイトルポエムは、たとえばこんな詩行を見せる。

 エビアンは買わない
 ただ 古い友達を思い出した
 彼女たちと同じぐらい太っていて
 しじゅう何かを食べては手を洗っていた
 刺繍入りのきれいな布靴が好きで
 優しい小さな声をしていた
 アパートに泊めてもらったとき
 あたしもうだめかもしれない
 と泣いてからすぐに
 いびきをかいて眠った
 ベッドの上でうずたかい胸が上下していた
 
 事実をそのまま映したフィルムのようなこれらの詩行は、しかしファクトではなく、詩人の眼によって濾過された寓話の光景である。詩人の冷厳な眼というのは当たらない。寓話という、ときに人には危険な夢を映してみせる彼女の眼光に、私は信仰を持った科学者に似た世界への接し方を感じるのだ。この感じは、より端的にはこの詩集以後の、彼女の主宰誌「レイン・トリー」第二十六号に載った「燃やす人」(映画『ギルバート・グレイプ』の世界からの引用がある)における、力強い荒涼ともいうべきものに顕著であり、本詩集では「GEORGEの胸ポケット」や「わたしの三人の妹は」「読書する人」などで望見されていると、私は思う。
 けれどこの書物のタイトルがなぜ表題作(と思しき)『女友達』そのままでなく、『女―友―達』であるのか、私がその秘密をいきぐるしいまでの開示として目の当たりにしたのは散文詩「キョウコ」1〜5の連作においてであった。
 結論ではないけれど、私がこの連作を読んだ始めと読み終わったあと、そしていまでも、手にしている感想は、ものごとは(人間は、世界は、自然は)単純なものではないということだ。いま、私の部屋の外に見えている、夏木立にとまった雀、その背後の梅雨明けの空、というありふれた存在は、気の遠くなるような必然と、同じだけの気の遠くなる偶然が重ねられた、宝石のような一滴の揺らぎなのだ。壊すことの単純さは言うまでもないが、ものを造ることの手だてが科学技術の極度とも言える発達の結果、単純であることが可能になってきた昨今、有機的組織そのものや作業効率そのものでは断じてない「人間」を判断する場合でさえ、「複雑さ」や「手順」を厭うようになってきたのは、考えてみればかなり異様なことだと思う。
 詩人の描く「キョウコ」の世界は、その意味で「単純」ではない(だがしかし、明快ではあるけれど)。一人称で語られる、作者と思われる「ふうちゃん」の現在は、キョウコと同級生の十三歳。彼女は十歳の小学四年生のとき、理科の授業で出てきた電気の「ボルト」という単位のことで、誰が言い出したかわからない、「ふうちゃんのからだには一兆ボルトの電気が流れていて、触ると感電死する」という発言をきっかけに、男の子たちによる長い迫害の時を迎える。いまの言葉でいえば「いじめに遭った」というところだろうが、いまの子供たちがそれにより、(迫害する側も含め)どんなに蝕まれ、存在を脅かされるかは想像するしかないけれど、「私たち」のときにもそれは確実にあったのであり、しかし子供たちが自ら死に至ることのあるいまとほんのちょっと違う点は、迫害される側は「ほんとうに死にたいと願ったが、忌まわしいストーリィのとおりに、無残に生きねばならなかった」(パート4)ことだ。彼女は(私たちは)そこで、「侮蔑や我欲、欺瞞、嫉妬、冷酷」(パート3)という、あらゆる悪徳を、大人になる以前に学ばなくてはならなかったのだ。
 キョウコはそんなふうちゃんの前に救世主のように現れる。それは、連作の冒頭と重なる、パート4の次のようなふうに、である。


 中学生になってキョウコに出会ったとき、少年たちは長い悪夢から覚めた。キョウコは臆することなくわたしをしっかり抱きしめて、感電死しなかった。彼らは魔法を解かれて、ふつうのはにかみがちな少年に戻っていった。

 ゲームを生きのびて、キョウコに導かれた世界は輝かしい。生きていることの喜びにうっとりしながら、わたしは今でも、あの悪夢をキョウコ自身のなかに見てふるえることがある。キョウコのからだには、わたしと同様、けがれた一兆ボルトの電気が流れている。


 生き延び、蘇生したふうちゃんは、キョウコのなかに未来の「輝かしさ」「生きることの喜び」と、過去の「悪夢」「けがれた一兆ボルトの電気」とに引き裂かれた時間を見る。キョウコは白い魔法のようにやってきて、それまでの、けっして解決されないであろうと思われてきた黒い呪縛をじつにあっけなく(ふうちゃんにとっては奇跡みたいに)解いてしまう。こういうことは人の成長のある時期においては「自然」なことで、キョウコはそのきっかけを作った存在にすぎないのだ、という解釈もありえようが、それは、詩の、人間の、真実とはいえないと思う。ふうちゃんは輝かしい世界を得た、その同じ理由(キョウコ)のなかに、倒立した鏡像のように「悪夢」と「けがれ」を見るのであり、人の大多数はこういったおののきのうちに人生へと解纜するのではないか。ふうちゃんにとってキョウコは成長過程の一通過点ではなく、あれから数十年を経た現在もなお、深く真剣に思考される対象なのである。
 ふうちゃん(=「わたし」)のまえでキョウコはほとんど超越的とさえいえる。「わたし」を解放したキョウコ、「わたし」にてのひらで目隠しをするキョウコ(キョウコをころしたい、と「わたし」は思う)、「わたし」が邪悪な少女神のように見たキョウコの夢に対し、「おはよう。わたし、あなたの夢を見たの」と言ったキョウコの「率直で、信頼に満ちて、純粋で、喜びにあふれていた」顔……。圧巻は、キョウコへの愛を「そうと知られずに伝えたい」と決意した「わたし」の手紙である。「わたしは愛という言葉を、森に言い換えてみた。あるいは塩に、犬に、はなむぐりに、紫の冬芽に、荒縄に……」。そしてなお、訂正と推敲が注意深く繰り返され、愛というメッセージが絶対に相手に伝わらないように考え尽くされた、この奇妙な愛の手紙は、ある日キョウコに渡される。それはこんなようなものである。


 ……冠毛を吹いて横っちょにめくります。寒さで濁った篤学のカササギに、子細な注文を盛るんでしょう。まして中背かひびわれたままのハコヤナギで沸きます。もうすぐ☆や♯だけかじって……。
             (パート5)

 この手紙を、ちらっと読んだだけで「わたし」にキョウコは、すぐにこうささやく。

 ――ありがとう。
   わたしもふうちゃんのこと好き。
             (同・最終部)


 たぶん「事実」はこのとおりではないと思う。けれど、詩人が時間の巨大な潮流を泳ぎ抜いたすえに、それまで語る術を持ちえなかった何事かを、かんなぎのような光と影とともに語りはじめた、その場面に私たちは立ち会ったのだという感が深い。心理小説みたいに、キョウコは「わたし」だったのだと言ってもはじまらないが、たしかに、キョウコのなかに絶対的ともいえる悪を見る「わたし」と、絶望的なまでの高貴さを見る「わたし」は、ともに自分のなかにおなじものを感じて戦慄するのである。そのときは、気がついていないけれど。この引き裂かれた自分の、いわば引き裂かれの図を正確にトレースしたのが「キョウコ」における、あやしいまでの開示の意味である。たくましい修辞と論理の主である人格に対し、非礼と知りつつ仮定するのだが、関富士子が詩人でなかったとしたら、つまり世界を分割しうる言葉(ロゴス)を持ちえなかったとしたら、自己の統合に失敗していたのではないか。
「キョウコとは誰か」という問いに、試みに答えてみると、それは詩人の宿命的な「女―友―達」だ、と言うことが可能だと思う。それは詩人の宿命を支配し、けれど詩人はいまそのことについて初めて語りだした。ある齢に達し、もつれた糸がほどけるように、心の奥のひび割れて渇いた核が水を得てゆくように。「詩は青春の文学」という日本の詩のコモンセンス(?)は、どうやら過去のものになりつつあるようだ。

03.7.27


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