「増補 矢島輝夫歌集」を校正して
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「増補 矢島輝夫歌集」を校正して



 矢島輝夫氏とは、生前面識がない。私の若いころ、「試行」の書き手のひとりだという認識はあったけれど、その小説集『暗き魚』というタイトルに惹かれた記憶のほかは、彼の読者というわけではなかった。のちに(八〇年代の初めころであったか)、本屋の書棚の片隅に並ぶ官能小説作家のなかに矢島輝夫の名を見たが、世の中には同姓同名の人もいるんだな、という感想を抱いた程度であり、それが『暗き魚』の矢島輝夫から官能小説家・矢切隆之に至る過渡的な姿だとは、縁があってこの歌集ならびに追悼文集の校正を任されるまで、知る由もなかったというのが本当のところだ。
 矢島氏はもちろん専門歌人ではない。九〇年代のある時期から、それまで胸底に押し込めていたと思われる、時代に対するルサンチマンのようなものを、爆発的に吐露したそのかたちが短歌という形式であったのだ。たまたま選ばれた表現の器が歌であったのか、そもそも歌という器が矢島氏にとって必然的な形式であったのか、にわかに判断することは難しい(坂井信夫氏によれば、詩集ほぼ一冊分の詩稿も矢島氏の家のどこかに眠っているはずだという)。しかし、より直接的に分かっていることは、矢島氏の作歌が、元連合赤軍の死刑囚・坂口弘の短歌群への唱和の歌から始まったということだ。増補分の「朝日歌壇」掲載歌を除く、歌集冒頭の「夢の骸」章(「元連合赤軍中央委員坂口弘に寄せて」の前書きがある)の異様に高いテンションは、歌の技量とは関わりなくこちらを押し黙らせるものがあるが、このあたりから歌詠みとしての矢島氏が始まっていることは確かなようである。
 この歌集では、いま挙げた坂口弘のほか、北村透谷、岸上大作、寺山修司、村上一郎、黒田喜夫、井上光晴、埴谷雄高、奥崎謙三、吉本隆明など、六〇年代から七〇年代初めにかけて活躍し、あるいは語り継がれた人物たちの影像が、いうなれば未整理のまま横溢しているが、矢島氏にとって自らの巨きなバックボーンであった彼らの影が、現在では奇怪なまでに痩せたものになっているという私の現実認識は、九〇年代を生き切った矢島氏でも、そう変わらないものを持っていたのではないか。一方、いわば世界観という陶土を手作りで捏ね上げる小説という器が、「官能」の二文字を付されてもなお以前のそれと連続して語られるべきものなのかどうかを私は知らないが、坂口弘や北村透谷の影がその世界に存在しえないのは明らかであって、矢島氏の「述志」、言い換えれば「私」は、やはり彼の「小説以後」に位置する短歌のなかで吐露されざるをえなかったと考える。問題は、氏にとって巨きなものであるそれら影像における「思想」というひとつの神話の、その光背を取り去ってみたときに歌が痩せているかいないか、「私」が痩せたものであるか否かだと思う。以下、作例に即して、「より低い位置から」歌を見てゆきたい。

a. 仮名遣い
 矢島氏の歌に用いられているのは、基調としては歴史的仮名遣いであるが、ざっと見てそれほど厳密なものでないことが分かる。まず歌集冒頭の「朝日歌壇」掲載歌は新聞社の方針もあろうが、その五首すべてが現代仮名遣いである。ただ矢島氏にこだわりがあったのか、最後の「残忍と汝の呼ぶ愛を生きめやもこの狂おしき刻の充つれば」とまったく同じ歌が、「渇愛」の章の最後に歴史的仮名遣いを用いた形で見られる。また、「蛇の屍」の章は偶然にか意識されたものかはただちには判じがたいけれど、「幼きの空襲思はば隅田川流れし屍浮かぶはかなし」以外の二十六首のすべてが現代仮名遣いとなっている。私見ではこの章で、他の章での同じ言葉、「炎ゑたつ」が「炎えたつ」に、「ながらへて」が「ながらえて」に、「恋ふる」が「恋うる」になっているのを鑑みれば、「思はば」とやってしまったのは無意識のことのように思われてならず、どうやらここでの仮名遣いは意識されていたと断じていいようだ。ただし「炎ゑたつ」の「ゑ」は誤用で、歴史的仮名遣いでも「炎えたつ」の形だが、このような誤用はほかにもあって、たとえば顕著な例では「喪ゐし」「笑まゐ」「案づる」「耐ゆる」などがあり、いちいちを挙げる煩に堪えないが、このことは矢島氏自身がある意味で歴史的仮名遣いと現代仮名遣いのあいだで揺らいでいた事実を示しているのではないか。彼が歌を胸底からひっぱりあげて書き留める速度という点から言っても、辞書を引く引かないの問題とは少し別のことのような気がする。

b. 用字用語
 歌集を読んですぐに気づくことであるが、矢島氏の歌には彼独自の用語が散見される。なにぶん文学的な範疇に属することなので、語義的な点をあげつらっても空しい気もするが、因果な私の職業柄、特徴的と感じられるいくつかを挙げてみたい。ここには「文学的」に許容の範囲内にあるもの、辞書的な「使い分け」を超えたもの、難訓、辞書的には理解不可能なものなどが混在する。
 まず「文学的」用字の、もっとも多い例では「孤り」がある。国語辞書の用字では「独り、一人」だが、漢和では孤に当然「ヒトリ」の意があって、もともとはみなし子のこと。初出は「孟子」の「老いて子なきを独といい、幼にして父なきを孤という」で、氏の歌に「東京大空襲から半世紀いま父母も亡く姉もまた亡く」があるのを思い合わせれば、この用字に読む者をして粛然とさせるものがあるけれど、より端的には「見渡せば灯りなき野に孤り立つ心地こそすれ思潮うつりて」に見られる「孤立」の心情に限りなく近いものがあるのではないか。独歩や独立の意に流れやすい「独り」とは、そこに自ずから違った時間の色合いが存在しているのだと思う。この範囲に含められる語としては、ほかに「索める」(モトメル)、佇つ(タツ)、涵つる(ミツル)などがあり、「暁暗」「真夜」などもかろうじてここに入れることができるだろう。
 次に「使い分け」を超えたものというか、いわば無頓着な語に「忍ぶ」があって、それは次のような使い方をされている。「きみの声聞けぬ一日を寺あゆみそのおもかげを忍ぶ時雨に」「妻なくてワインをあおりわが忍ぶ『死霊』の魂何処を彷徨ふ」「冬くれば兄の声あり食事せしいま無き叫びをひそかに忍ぶ」。前二首は明らかに「偲ぶ」であり、残りの一首は、いま耳底に現前している亡き兄の声に堪えている、というふうに解釈すれば忍の字を宛てられなくもないが、これとても忍と偲のあいだで揺れている(ほぼ偲としてかまわない)といっていい。自裁した村上一郎をうたった次の一首、「桜散る季節に自刃し師をしのぶ榊もつ手にエロイカ『葬送』」というようにすれば問題はないのであるが。
 難訓の語としては「扼りし」があるが、私はこれを読めなかった。扼の字は訓読みの例があまり見当たらず、字義は「オサエル、クビキ」とあって、あるいはこれを「クビル」とでも訓むのであろうか。もしそうなら「縊る」が宛てられるべきなのだが、「暁暗に怒りの爆ぜし過去いづこ清しき論理を扼りしは何」という歌の流れからは離れていってしまうだろう。ほかには性愛をうたった「渇愛」「哀歌」の章に「勃る」「勃り」があって、これはどうやら「タギル、タギリ」と訓めそうだ。タギルは辞書どおりに宛てられる場合もあって、「女とはせつなき性よ上の口下の口にも滾りが満ちて」のごときは「弾みたる白き女身がそりかえり勃りが充ちて汝を穿つとき」に対比するように並べられてあり、なるほど、勃と滾は男と女で使い分けられているのだなと納得した。けだし、官能小説家・矢島輝夫の面目躍如といったところであろうか。そのほか、「括られしきみの瞳は艶めきて妖しき絵巻の甘き薫りよ」における「括られし」は「ククラレシ」でよいのか、どうか。瞳の形容に、大和絵の引目鉤鼻のようなイメージを用いて、そこにある種の秘画に見られるエロスを詠み込んでいるものなのか。歌一首が持つ論理とまだ未見の氏の官能小説のことを考え合わすとき、なかなか釈然とできない。原資料が原稿に正確に反映されているかどうかのこともあると思う。
 最後に、浅学にしてどうしても意味の取れなかった語があって、それは次の歌のなかで使われている、「遊び女の墓いらかなり観音のほゝゑみ差してあじ(ぢ)さゐの花」の「いらか」のことである。語尾の「か」に注目するとすれば、これは名詞というよりは形容詞的な語のように見えるから、ひとまず「甍」ではないのではないか。ある状態を形容する言葉として語感が似ているのに「おいらか」があって、(人の)鷹揚、穏やかさを表すこの語はいかにもこの歌に通うものがあるとは思う。けれども、一方で「墓甍」という一語である可能性も捨てきれない。浄閑寺に行ったことはないが、遊女の集合墓に小さな屋根でもしつらえてあったのだろうか。
 小説や詩といった表現形式と違って、たえず音数律に逼られる歌という表現は、音数律自体に込められた時間の分厚さが逆に言葉、いうなれば用字・字義・措辞を選ぶという側面がある。ここで私が、トリヴィアルともいえる用字の穿鑿にこだわったのも、そのためである。それは矢島氏が歌詠みという立場(氏にとって常在するものであるにせよ、ないにせよ)を択びとった瞬間から、象徴的な意味で「約束されていた」ことだともいえる。

c. 「かなし」
 矢島氏の歌で出現する頻度のもっとも高い措辞は「かなし」(悲し、哀し、かなし)だと思う。全首の一割強を占めるそれは、裁ち入れられたり、句切れに使われたり、一首の終止であったりするが、古来からの代表的歌語ともいえる「かなし」が、矢島短歌においてどのような色合いを示しているのか、次に見てゆきたい。まず、矢島短歌における「かなし」の歌を出現順にすべて挙げてみる。

「刑の執行しないでください」死刑囚母堂のふみに誤字ありかなし
社会主義まず崩折(頽)れてわがむすこ学業なかばでつまづくは哀し
人の生なんぞと問はば忍耐と別離孤独のかなしき舟よ
屹立す言葉つむげぬ吾かなし竹は真直ぐに天つらぬくに
渓流はかなしからずや胎内に魚を抱きてたゞ流れゆく
短歌とはいのちを盛るに小さきよ悲しからずやわがいのち盛る
新月の篝火もえて薪能ぬばたまの夜に鬼ぞかなしき
哀しきは怯懦の吾ぞ鬼ならず新月焦がし篝火が燃ゆ
旅おえて新幹線で川わたるこゝを過ぎれば哀しみの都市
汝はかなしふといま気づくあやうさと生の形が吾に似てゐて
電話口できみの泣きゐる声聞きつ胸のうちなるかなしみを耐ふ
まどろみよりふとめざめればきみのてのふれるまぼろしおもへばかなし
幼きの空襲思はば隅田川流れし屍浮かぶはかなし
手術後の腹を示して「ソビエトの国旗」と言ひし汝の顔かなし

 もとより「かなし」は一義的な語ではない。たんなるsadとは異なる複雑な感情をそれ自体のうちにゆたかに蔵する言葉だといっていいが、矢島短歌においては、いわゆるsadの範囲で使われる場合が多くあるのではないかと思う。それには、死刑囚母堂や学業なかば、またかなしき舟や流れし屍、怯懦の吾、「ソビエトの国旗」の歌などがあてはまるといえる。これをもう一歩踏み込んで考えれば、たんなるsadばかりではない、ある悲哀のほうに傾く感情は必ずしも「かなし」という語だけで表されるものではないはずだが、矢島氏の場合、ひとつの感情の高まりが事象や用字の堰を超えたとき、一様に「かなし」の措辞を(思わず)用いてしまう傾向がある。このことは「かなし」に、歌において使用されやすい、ということはすべての歌語に結び付きやすい、ヌエ的な性格があることを意味していて、おおむね歴史のある歌語は不用意に用いると月次に陥りがちである。そしてこの場合、「かなし」はだいたい一義的なsadの意味に引き寄せられやすくなっている。
 では矢島短歌における「かなし」がすべてsadであるかといえば、そうとばかりはいいきれない。はなはだ無味乾燥ではあるが辞書的にいえば、「かなし」には、悲しみばかりではなく、愛おしいの義や、(旅や風景などのなかにあって)感興に堪えないほかの義があり、また日本語に根づいた「悲」には仏教的な憐れみの義などがある。もしsadの意味での「かなし」を即自的な、個人にのみかかわる感情ということができるなら、「愛し」は対他的なものを含んだ感情であり、風景や旅などのなかにあって感興に堪えないという感情や仏教的な「悲」の意味での「かなし」は、個人を超えてさらに普遍的なものに届いた感情ということができる。矢島氏の歌のなかでは恋人をうたった性愛歌のうち、「汝はかなしふといま気づくあやうさと生の形が吾に似てゐて」と「まどろみよりふとめざめればきみのてのふれるまぼろしおもへばかなし」の二首は、明らかに「愛し」の例であろうし、どこまでも「悲し」に近い「電話口できみの泣きゐる声聞きつ胸のうちなるかなしみを耐ふ」もまた、「愛し」という切り口から読むことによって、新たな感情の地平を垣間見ることが可能となる。「かなし」の持つ複雑な多義性に近づいているわけである。次に、いわば普遍的な感情としての「かなし」はどうであろうか。古今取り交ぜて作例を引けば、おおむね次のような「感情」に属するものだ。

うらうらに照れる春日に雲雀あがりこころ悲しもひとりし思へば 大伴家持
いにしへの人にわれあれやささなみのふるき都を見ればかなしき 高市黒人
磯榁(いそむろ)の樹皮(こがは)こぼるる日のさかりおのづから悲しひとり思へば 中村憲吉
このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね 斎藤茂吉
 
 あるいは次のような「叙景」の歌もここに入れてよいのかもしれない。

いづくにか舟泊(ふなはて)すらむ安礼の埼こぎたみゆきし棚なし小舟 高市黒人
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ 源実朝

 これらのいずれも、生活苦や不本意な人生といった直接的な感情を遠く超えたものといってよい。ここでは直接的な感情に価値がないといいたいのではなく、これら古人の心の響みとしての「かなし」が、複雑にして原初的な陰影を持っていることを示したいのである。矢島短歌においてはあまり多くないこの用例では、「渓流はかなしからずや胎内に魚を抱きてたゞ流れゆく」や「旅おえて新幹線で川わたるこゝを過ぎれば哀しみの都市」などが、個人的なものを超越した感情としてこの範囲に含められそうだが、歌として見てはいかがか。前者は、矢島氏がそれを意識していたかどうかは不明だが、同工異曲のものに「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」という河野裕子の作品がすでに存在していて、矢島短歌の渓流に対するに、近江という「時間」への目配りの深さは格段のものがあるし、後者には北原白秋の詩作品「邪宗門」からの露わな影響が見て取れて、この両者は歌の姿からいえばやや浅い。むしろこのあたりのなかでは、人智を超えたものへ投影された感情として(少々類型の趣もなくもないが)、「新月の篝火もえて薪能ぬばたまの夜に鬼ぞかなしき」がすぐれているのではないか。あるいは、「かなし」という言葉こそ使われていないが、より高い感情という意味で「叙景」の歌にみなぎる「悲」の世界は、矢島氏の短い晩年に長崎旅行で詠まれた数少ない叙景歌のなかの数首、とりわけ「南国の空にかゝれる三日月の遙けき光よ旅にしあれば」に確実に存在しているのではないか(無粋な用語上のことをいえば「光遙けし旅にしあれば」としたいところだが)。
 ひるがえって考えれば、矢島氏における「かなし」は、あたかも源氏物語での「あはれ」の用例のごとくおびただしいけれど、用法上一種無防備な使われ方をされていて、その分、読む側に無限の思い入れ、あるいは際限のない解釈の可能性を残しているともいえる。歌はある面、その人の文学表現以前のおもかげをひきずっているものだが、彼でなければついに知り得ないじつに多くの「かなし」を置いたまま、矢島氏は行ってしまわれた。

d. 叙景の歌
 まえの項で叙景について少し触れたが、矢島短歌には叙景の歌が少なく、いわば述志の歌がほとんどを占めている。このことについてちょっと考えておきたい。
 日本の歌で叙景という場合、それは必ずしも客観的描写ということを意味しない。うたわれた時期のはっきりしない始原的なものでは、ヤマトタケルへの挽歌とされる「脳(なづき)の 田の稲幹(いながら )に 稲幹に 這ひもとほろふ ところづら」のような歌謡から、皇子たちに危急を知らせたとされるイスケヨリヒメの歌「狭井川よ 雲たちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす」のようなものまで、一見事物の描写と見える歌でも探ってゆくと必ずそこに呪言や譬えが存在する。先の項で挙げた叙景歌にもいえることであるが、これは、中古や中世、さらに近現代にまで時代が下っても、叙景の歌にはうたわれた対象のすべてにみちゆきわたる主観、対象に溶け込んでゆく主観という側面があって、音数律とも相俟って、うたわれたものが事物や風景そのものであっても主観的な情動につよく訴えかけてくるという、歌というもののある秘密を指し示しているのである。作例では、玉葉集や風雅集における京極為兼の、たとえば「波の上にうつる夕日の影はあれど遠つ小島は色くれにけり」あたりがひとつの極北をなす。
 対するに、矢島短歌において、叙景はどのような姿で表れているのであろうか。なかなかむずかしいが、あえて用字に「私」の部分が少ない歌を挙げてみる。

海猫が啼きつづけゐる砂浜に少年の吐く息白き朝
夕日裂き一羽のかもめ舞い下りて赤き海より魚咥えり
天空であるまじきこと起こるらし群れとぶ鳥が猛き声あぐ
ヒマラヤを見し日のことを思ふなり閃く銀の巨大なる匕首
浜ぞいの人ひとりなき坂道にタイヤの痕の蛇の屍
長崎のオランダ坂を昇りきて片目を病みし猫と戯る
野母崎のオーロラの如き落日の手の届くほどに朝鮮があり

 歌の表面に「私」は顕在していないが、うたわれている対象のうちに「私」がみちゆきわたり、溶け込んでいるわけでもない。かもめが舞い下りるのは夕日を「裂いて」であるし、群れとぶ鳥が声をあげるのは「天空であるまじきこと」が起きているからだという叙述、ヒマラヤを表す「巨大なる匕首」という譬喩や、旅先で戯れる猫は片目を病んでいるといった表現……等々、鬱勃とした自我がいわば対象を食い破って顔を覗かせている。このなかでは野母崎の歌が、完成度はともかくとして、正統的な叙景歌の韻律を踏んでいるのが注目されるけれど、それ以外では、事物をしてうたわしめるというよりは、強烈な「私」の眼の反射がエキセントリックに事物・事象を択び取っているといっていい。叙景としてうたう姿勢のどこかに過剰さがあるのだ。次の歌を見てみる。

久々に家にもどれば去年伐りしキウイの枝葉が梅雨空かくす
梅雨寒の庭を窓より眺むれば百日紅の枝に雛うごめきて
わが眠る窓のそとにて向日葵がぬばたまの闇に黄色滲ませ

 なんということのない叙景歌のようだが、本来の意味で叙景の歌として理解できるのは最初のキウイの歌だけである。『追悼・矢島輝夫』の年譜を見ると、矢島氏は五十歳になった年に長年の結婚生活を解消しているが、独り暮らしになってからも元の家に帰ることもたまにはあったのだろう。そのときの嘱目が「キウイの枝葉が梅雨空かくす」なのだろうが、ここには時間の経過に対する実感と寒々とした曇天が肩肘張ることなく詠まれていて、いわゆる歌になっている。古来の歌の詞書に比しうる背景も存在する。ところがあとの二首は、どのような意図で詠まれたものか、私には理解できなかった。梅雨寒の歌では、それまでうたわれていた時間の流れが、結句の「雛うごめきて」という意図不明の措辞によって断たれていると思う。これをたとえば「雀声あぐ」とでもするなら、巧拙は別として読む側の心にさざなみくらいは立つのではないか。また、わが眠るの歌の、闇に黄色を「滲ませ」る夜の向日葵というものがどんな譬喩、どんな意図を持つのか、私には分からない。「黄色滲ませ」を、無理は承知で「嵩まさりゆく」とでもしたくなるところである。
 結論から先にいえば、矢島氏は、一首のなかにそれまで流れていた叙景に収束されてゆく時間とでもいうべきものを、結句に自我を露出させるような措辞を用いることで断ち切りたかった、断ち切ることによって「私」という過剰を表現したかったのではないか。結果、氏の「私」は事物の側に溶け込むこともなく、また述志の直情に就くこともなく、宙吊りにされたまま、そこにある虚無の色を帯びた(歌ならぬ)奇妙な「陳述」が残されることになったと思われる。これは氏の歌の始めにすでにあった過剰さのゆえだと私は考えている。

e. 性愛の歌
 矢島短歌を俯瞰するうえで、避けて通れないものに性愛の歌とでもいうべき一群の作がある。断片的にはこれまでにもしばしば触れてきたが、全二章、四十首ほどを数えるこれらの歌について、矢島氏が拘泥するほどには、私は語るべき言葉を持たない。いわば矢島短歌に分け入ってゆくうえでのヘボ筋になるというおおよその目測があり、その理由に関しては後述するとして、この項では比較的軽く触れておくにとどめておきたい。
 性愛歌のすべてを挙げることに意味があるとは考えられないので、サンプルとして数首を引いておく。

抱き締めてくちづけしつゝ悶ゆる汝あえかな声の天上の花
桃剥いて指先濡れるまぼろしのその蜜吸ふを耐ゑている至福
美しき股間の花に口そえて熱きほむらに魂とろかせ
汝の肉の熱き扉に舌をよせこよなきいのちを吸うている幸
慕ひたるきみとひとつに繋がりて夢とうつゝの雲の往還

 これらは、さまざまなメタファーで迂回させられているとはいえ、ほとんどそのものずばりのバレ歌だといえる。矢島性愛歌の中核をなすのはおおむねこの種の歌であるが、同様の章に、やや趣の違った、相聞の歌とでも呼ぶべきいくつかの歌が並べられている。

汝よわれにおしえ給へよいくつかの鳥たちの名を花たちの名を
封筒を開ければ四葉のクローバー汝が折りし栞の雅びがうれし
赤あかと炎ゆる護摩壇に掌を合はせ二人の幸を祈るひとゝき
折り鶴を目の前で折るきみを見て吾のこころは少年にもどりつ

 こう並べてみると明瞭だが、矢島性愛歌は、バレでなければきわめて古風でプラトニックなものであるというふうに、排中律のように分裂している。ふつう、私たちが考え得るエロスはこの両端には存在していない。いいかえれば性愛の生理的行為そのものと母親のように相手を慕う行為の両端に、人の幻想の根源にかかわるエロスはたちのぼりようがないのだ。エロスがたちのぼるとすれば、この、生理が幻を、思慕が肉体を帯びはじめる両者の中間地帯をおいてほかにないと思う。矢島性愛歌に深入りすることがヘボ筋なのは、逆説めくが、エロスの意外な貧しさという点にある。むろん矢島氏が豊富なメタファーを駆使する官能小説作家でもあるという側面を、彼の性愛歌から切り離すことは難しい。しかし、バレ歌におけるメタファーの豊富さとは、そのメタファーがある目的のために奉仕させられる性質を持つものである以上、たとえばそれ自体で自立している詩のメタファーとは決定的に異なるという事実を考えてみても、同時に詩でもある歌にとってのゆたかさとは言いにくいと思う。つまるところ、性愛の実行行為にしか行き着かない官能小説の世界は、人間の抱くエロスのほんの一部分にすぎないのだ。
 もしいいうべくんば、矢島氏のエロスはむしろ次のような歌に存在しているのではないか。このなかには、性愛歌の章に含められる歌もむろん、ある。

釣り針で刺したる指が臭ひたちこのなまぐさきをエロスとぞ思ふ
残忍と汝の呼ぶ愛を生きめやもこの狂ほしき刻の充つれば
美しき小鳥の羽根をむしりたるごときやさしききみの裸身よ

 あるいは、

凄惨も至福もひとつの器なり腕おとしたるインドの乞食

 これらには、エロスを巨大な思想的欲求にまで高めた、サドやバタイユと共通する匂いを感じるといったら、笑われるであろうか。矢島氏の資質、嗜好、性向と紙一重のところで、彼のエロスの根源がわずかに面貌をさらしているような気がしてならないのだが。

f. 述志の歌
 さて、ここまで論じてきて、矢島氏にしか詠み得ない歌、生得のものとしかいえないいくつかの作について語るときが来たようだ。いわば、矢島短歌に見られるもろもろの夾雑物を濾過したすえに顕ち現れる、本来的な個性の地に届いた歌群と呼べるもので、これを(最前からたびたび言及している)述志の歌と、おおまかにいっておきたい。このなかには、歌作の契機としては偶然に出来たものも詠まれるべくして詠まれたものもあるが、いずれも、いかにもの矢島氏の人柄を偲ばせる必然性を持っていると考えられる歌だ。以前に引用したものと重複する歌もあるが、以下その一首ずつについて私的な注釈を行ってゆきたい。

見渡せば灯りなき野に孤り立つ心地こそすれ思潮うつりて
 発表年月を見ると、矢島短歌が呱々の声をあげたあの狂おしい「夢の骸」章のすぐあとに詠まれたものだが、歌の姿はやや平静である。八〇年代から九〇年代にかけて、それ以前の熱狂の時代を経験した者なら誰しもが抱いた感慨であろう。ただ、矢島氏に特徴的なのは「孤り」「立つ」という用字にも見られる、個体にひびくような異様なまでの孤立感だ。この孤立感は、彼の述志の歌の通奏低音ともなってゆく。なお、この歌には例の三夕の歌のうち、定家の詠んだ「花も紅葉もなかりけり」を掠めたふしがあるか。

予知もなくめぐりきたるかヒロシマの夏そして妻と別れての夏
 もとより「ヒロシマの夏」と「妻と別れての夏」にどんな因果関係があるのか、歌のなかで語られているわけではない。「ヒロシマの夏」は作者が恃みとする「思想」の側にあり、いっぽう「妻と別れての夏」はあくまで個人の側に訪れている現実であろう。この二つの夏の分裂のいちじるしさが作者を襲う。秋、ならぬ「もう夏か」という感慨。はるかに乖離した二つの夏が、同時にひとつの季節のなかに訪れている、その知覚の錯綜によって「予知もなく」という言葉がまず択びとられたか。これをたとえばもっとこなれのいい「ゆくりなく」とでもしたら、一首のニュアンスは消えてしまうと思う。下の句に工夫が見られて韻律を感じるが、最後の「妻と別れての夏」の嘯きにはやはり重いものがある。

暁暗を蒼ざめし馬かけぬけて腹の底より怒りを歌え
 うたわれている「怒り」が何であるか、作者はそれと指し示してはいないが、私には痛いほど分かる気がする。「蒼ざめし馬」とはむろんヨハネの黙示録のそれであろう。「腹の底より」という表現でも明瞭なように、作者は濁世として見えている今の時代に対し、けっして器用ではないけれど、その分骨太で膂力のある詠み振りによって、歌の持つひとつの側面である荒ぶるこころ、ともいうべきものをまっすぐに吐露することに成功している。この歌に、ある健康さを感じるのは私ばかりであろうか。

政治家も思想家もついに届かざる印画紙の中の透けたる構図
「ハゲワシと少女」の連作の一首。かつて話題になった、スーダンの飢えた少女とそれをうかがうハゲワシの光景を撮った写真家についてのものだが、歌はお世辞にもうまいとはいえない。とくに下の句の抽象的なところが意を尽くしていないと思う。にもかかわらず、この歌に私が打たれたのは、すぐまえの(同じく下の句がキマらない)「スーダンのハゲワシと少女ときみのみに世界の悲劇の凝固する夜」と並んで、作者の「孤立」の心情がまれに見る切実さで共感の高みにまで及んでいるからだ。言葉は足りないが「心あまれる」作だといえる。

挽歌とは胸迫るもの酷きもの膝を抱えてたゞ耐ゆるもの
 失踪した兄をうたう連作のうちの一首。こういう、たたみかけるようなうたい振りは、「夢の骸」章の「正義の死抒情の死浪漫の死革命の死に何おもふやきみ」などにも見られるが、実兄の死の予感におののいているこちらの歌のほうが、作者の相貌を確然と浮かび上がらせているという意味で、格段にすぐれていると思う。だいたい、矢島氏がそれと意識して「思想」についてうたう場合、歌の姿はかぎりなく心情に近く、逆に個人的な感慨や身辺的な詠草をつぶさに読んでみると、しばしば歌は人の普遍の根に触れていることが多いように感じる。まえの歌ではないが、政治家も思想家もついに届かない深淵に、矢島氏は自ら分け入って去ったのではないか。

「汚辱」なるわが近代の歴史なのだたやすく拭ふな愚かな学者よ
 一見、鬱然としたいきどおりにまかせて詠んだような歌だが、じつは矢島短歌のなかでもっとも正統を踏んだ述志の歌だと思う。これを思想的な歌だとは私は別に考えないけれど、日本の近代を「汚辱」と言い切る姿勢に、まるで昔日の文人や武人のような作者の風貌を感じるのだ。見かけは性急で、もっと散文的な異なる判断の余地がありそうだという論議も予想される。しかし、私はこれが一個人の詠を超えた、暗い巨きな淵から投げ出された声のように思えてならない。古来、歌というものの持つ一要素として、だ。

独り身の気楽さそして淋しさよ朝食おえて煙草の後は
 この数章まえに、同工の歌として「食卓に哀れ蚊と吾ともにゐて訪なう者なき秋の夜暮れて」があるが、措辞、韻律、内容ともに私はこちらを採りたい。先に触れたキウイの歌と並べられたこの作は、矢島氏の生活に歌が完全に溶け込んで自然な存在となっていることを示している。彼は別のところで知人への葉書に「白梅を賞でつつ食す蕗の薹この幸せを尊しと思ふ」という、いうなればなんということもない歌を書き添えているが、こういうところにも、往昔、人の生活には欠かせなかった歌、というものを手中にしている矢島氏の、ひとつの境地をうかがうことができるのではないか。晩年ともいえない短い時期、折口信夫の顰みにならえば、これは、矢島氏なりの「歌の円寂する時」であった気がする。

 いままで仮に言ってきた述志とは、文字どおりこころざしを述べることであるが、矢島短歌の場合、それは多く「思想」についてうたうことを意味していたというのは、これまで私がいわば選外としてきた歌の数々からも明らかなようだ。万葉集にいう「正に心緒を述ぶ歌」という観点に立てば、その性愛の歌でさえ、述志のうちに含められるのかもしれない。いったん事象を経由したこころが一木一草にまとわりついて示されるという、叙景や譬喩を好まなかったのは、まさに矢島短歌の直截性を物語るものであって、歌は初学の若者のようにひたむきだが、しかし思慕の対象である「思想」のほうは、何度も反芻される追憶のなかの像のように褪せている。あたりまえのことのようだけれど、歌は、矢島氏が拠るべき「思想」(その性愛の哲学も入れた)から逸れたところに立つ自らを直視した時々にだけ、述志でも恋でも、よくひびく韻律を発するように思える。
 ある歌を理解するということは、簡単にいえばその境涯を理解するということである。どんな境涯のなかでその歌が詠まれたか、それを分からなければ本来、歌は鑑賞の対象とはならないという事情は、神話、長歌、物語、歴史から派生・分離した歌の性格、さらにいえば詞書によって初めて十全な理解が及ぶ日本の伝統詩歌の性格に根ざしている。矢島短歌において、この詞書の部分にあたるものは、寄るべとしてきた「思想」ではなく、その挫折も含めた個人的な物語だと思う。具体的なことはほとんど何も知るすべがないが、矢島氏の歌がきわだっているとき、不即不離に、その人の見えない詞書の部分もまた、まざまざとした存在感を放っているように、私には感じられてならない。
 最後に、私なりのまずい挽歌を捧げることによって、ながながと感想を述べてきたこの一文の責めをふさぎたい。

うたよみの貌はつかなる光(かげ)さして卯月さくらに率然と去る
いひがたき歌百ほどを遺せしを歌百はみな鍾愛のうた
玄界の日没(いりひ)の果てに見しものの深き宥めをとはに語らず
 南国の空にかゝれる三日月の遙けき光よ旅にしあれば
南国の旅にしあればさやに見る残んの月におよぎさる魚
生きがたき八〇年代をゆきゆきてこひより甘く呼ぶ花明かり
                                  2000・6・17

註/「勃る」の訓みについて、坂井信夫氏、また大木重雄氏をはじめ、さまざまな方から疑義をいただいた。あれはタギルではなく、タケルではないかと。決定的だったのは、藍川京氏によって矢島氏ご自身による歌の原稿に「勃(たけ)る」とルビが振ってあることをお知らせいただいたことである。赤面の至りと申し上げるほかない。また、「括(くく)られし」ということが、いわゆる緊縛を意味する言葉であること、これも藍川氏によるご指摘である。あれこれに鑑み、歌の解釈も少しずつ異なってくると思うが、いまだ青書生に類する理解からはなかなか及びもつかない、それなりに深い世界ではある。お教えをいただいた藍川京氏に、矢島氏の思い出を読ませてもらったことも含め、深甚なるお詫びと感謝の意を表したい。                               2000・9・12(坂井信夫主宰誌「索」22号・23号に発表)




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