郵便のやりとりだけでまだお会いしたことはないが、前田さんは元気な女性である。そのことが、今度の詩集「動詞抄」を読んでよく分かったような気がする。彼女は塵裡に閑を偸んでは、プールに通い、絵を描き、商店街へ出かけ、精力的に美術館を見て回る。この詩集につけられた「動詞抄」という名は、まことに似合わしいタイトルなのである。「あとがき」で前田さんはこう書いている。
“動詞抄”は、まずタイトルだけがパッと浮かんだ。/無意識の日常の行動をすくいとり、思いがけない自分と出会えないかと。(中略)それでも、引き続き身辺瑣事の“動き”の中から、私なりの生きる根源的なものをさぐっていけたらと願っている。
詩集の主要部をなす「動詞抄」は、いずれもほぼ20行前後ほどの短詩といってよい分量の作品群から成っている。これは、一種の饒舌体のような文体によって、「いわゆる詩」とはほど遠い身辺瑣事の現象から詩そのものに直截遭遇しようとする、じつはかなり野心的な試みなのだといえる。自分の存在を張って瑣事にかかわる「文学的」行為にしばしばありがちな、かの意識を意識するという悪循環から免れているのは、文体が速度を持っているためであり、行為のまえに思考が入り込む隙がないせいである。それをある種女性の特質だと申せば前田さんに叱られそうだが、このなかで、確かに「思いがけない自分」、つまり詩をつかんだりまた逃したりする無窮動の動きのかろやかさは、男に真似のできるものではない。かろやかさは湿り気のなさと言い換えてもよいが、ときにユーモアやノイズを交えて繰り出され、コギトの淵に後戻りすることのない言葉の波が、だがしんと静まり返って収斂する瞬間がある。
深いもやの底 長い短い人生のクレバスをひとまたぎ
さかさ遠近法の世界は大きくゆらぐ 「わすれる」
そして白昼 ふい打ちのモノ気配で かすめる記憶のひだに 面妖な分身が横ぎる
「ねむる」
このあやしげな サイミンロードの どこかにかくれて
わたしを待っているにちがいない 変装用マントが
――最期の運命は、夢の島ゆき とうわさで聞いた―― 「さがす」
ふいに現れる時間のクレバスの幻影や白日の分身(ドッペルゲンガー)、バーゲン品の山にまぎれているに違いない魔法のマントは、世界の破れ目からつかのま覗いた異界であり、作者は手の込んだ修辞の編み目を隔てることなく、じかに、直截にそれと出遇っている。考えようによっては危険なものともいいうるこの遭遇は、しかし作者が存在を張ってつかみえた詩にほかならない。それは、たとえば次のような訪れとなって詩人の部屋の扉を叩くのである。
ねむれぬ夜の底は
さまざまの奇妙な音を発する
耳では ききとれない
目ざめていては いけない刻(とき)だ と警告するのだ
ほら、とくべつな異音が満ちてきた
この頃 おなじみになってしまったが
今、一歩の夢の入口で 音の乱気流を かいくぐらなきゃ 「音」全行
作者の行住坐臥、五感のかなたに現れているものはにぎやかな異界だ。おそらく、それと意識して向き合おうとすればかぎりなく逃れてゆくであろう、この「目ざめていては いけない」危険なゾーンは、前田さんにとってある親しさの貌をもって折々に出現するものでもある。それは日常を普通に過ごすうえで危ういゾーンではあるけれど、前田さんは畏れてもいないしそこから逃げてもいない。その訪れを知り、独特の嗅覚を培っているのである。詩の定義のひとつに「元の場所に立ち帰ること」というのを挙げることができるならば、作者にとって詩の訪れでもある異界は、自らがそこからやって来て、やがてそこに帰ってゆくはずの、ある無形の源泉のありかを指し示しているのではないか。詩集後半の主要なモチーフである、今は他界(よそ)にいる懐かしく悲しい肉親たちへの前田さんのまなざしは、そこに重なるような気がする。「或る会話から……」「喫茶店異聞」、それにパートワンの「描く(1)」など、よく考えればどの個人史にもひとつやふたつ思い当たる小さな悲劇は、作者の胸に訪れた親しい異界、ひそかな痛みをともなう源泉とも言い得て、この詩集に無類の表情を与えている。装画はすべて作者の手になるもので、美しい。
2000年3月「鮫」81号に掲載
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