「海風 その先」を読んで ──為丸さんへの手紙
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「海風 その先」を読んで ――為丸さんへの手紙



 沖縄の夏は今年も暑かったのでしょうか。お元気でお過ごしのことと思います。石川為丸詩集「海風 その先」を読んで、私信でも触れましたが、あらためてこの「索」誌上で感想などを述べてみたいと考えます。  為丸さんが沖縄生まれであるかどうかは、当詩集作品でのさまざまな暗示にもかかわらず、かならずしも明確ではありませんが、為丸さんがある種の「旅」の途上に在ることは明らかであると思うのは、たとえば次のような詩行を目にするときです。

 かつてあつて今はない邦の、土器の破片が二つ三つ落ちてゐる 往事のかたちを失つた ままに 旅の途上の私も 今はかうしてここに落ちて、こぼれてゐるのだ

 この旅の過誤は私のうちに折り畳んだまま 今はただ行くだけ。赤マルソウ 赤マルソウ通りへ(続く)                        以上「途上」より

 赤マルソウが何であるのか、沖縄のことに疎い私にはよく分かりませんが、ここで注目されるのは、為丸さんが途上に在る旅人ということのみならず、その旅がひとつの「過誤」であるという点です。よしんば為丸さんが琉球人であるとしても、そのプロフィルに故郷喪失者の影を見てしまうのは深読みに過ぎるでしょうか。故郷喪失者はつねに旅を強いられ、どの土地に行ってもそこは帰る場所ではない、それは途上でしかないという意味で、彼にとっての旅は過誤でありつづけます(誰にしても人生はいくぶんか、そのようなものではありますが)。彼が夢見るのは「かつてあつて今はない邦」、いわば「原郷」であり、沖縄という強烈な香りを放つ風物のなかでそれは絶えず反芻されています。為丸さんにとっての過誤としての旅において、原郷は次に見るような苦い認識で吐露される性格を持っているのではないでしょうか。

 安里川
 上流の方を振り返り きみはつぶやいてみた
「かつてわれわれには邦があった とても美しい邦だった」
 下流を見つめながら彼女が笑った
「そんなの元からなかったし これからもないわ」
        「流英」より

 この喪失感は、おそらくは戦闘的であったであろう為丸さんの過去と密接な関係をなしていると考えられます。次の詩行を見てみます。

 そこには多くの言葉が飛び交い 広場には赤旗が林立し 十月は、夢のように大きな旗 が翻った
        「新北風」(みーにし)より
  
 かつての新左翼運動は、私たちのような年代の人間には多かれ少なかれなんらかの影響を不可避的に与えていますが、為丸さんはそこに最も深く関わっておられたように見受けられます。三十年近く経ったいま、その映像はしかし次のような詩行に微妙にオーバーラップして見えて仕方がないのです。

 あの戦火にもたえた、百歳の赤木の古木の一つにてのひらをあて 遠い昔日を偲べば
 首里の丘には神々の旗が翻つているやうだ
        「途上」より

 かつて革命の旗であったものがいまは神々の旗として打ち眺められていますが、これは必ずしも先鋭な左翼から古代や伝統に先祖帰りしたものではなく、沖縄というひとつの突端に立って初めて見霽かすことのできる原郷の、いわば「その先」にあるものが幻視されていると考えます。為丸さんが沖縄にいることの意味は、為丸さんが琉球人であるか否かにかかわりなく、このような(幻の)場所に帰還してきた故郷喪失者という側面を含んでいると私は思うのです。むろん、「住つかぬ旅のこゝろや置火燵」(芭蕉)といった、仮寓の世であることに変わりはありませんが。いずれにしても、次のような詩行に為丸さんが「島」に安んじて、夕暮れ、たとえば島酒で一杯やっているような慰藉を感じるのは私ばかりではないと思います。

 水平線がゆれていて 蝙蝠がひらひら飛んでいる 島は日が暮れても 陽の匂いがする                                「青を踏む」より
    
 この疼痛のようにおとずれてくる慰藉は、集中随一の秀作である詩集表題作品「海風」に最も色濃く滲んでいると感じます。次に引きます。

 失意のうちに過ぎ去つたものらの なつかしい気配にさそわれて 遥かな素生にゆりもどされる ここでは何もかもが久遠にゆるされているやうだ 浦添ようどれ 戦ひも敗亡も ほろほろと海の方へこぼれ落ちていく

 わたしはわたしで眩みながら やがて墨書の彼方の深みにはまつていくやうだ。海風 この先に行つたことのない廃墟があつて 遭つたことのない死者がゐて 聞いたことのない死語が紡がれてゐるのだ 浦添ようどれ わたしのうちに 深くそれらを埋め終へると わたしは静かに ひとつの折り目をつけてゐた。このさきへ
        以上「海風」より

 この作品は為丸さんの詩業のうえに、どうやら「ひとつの折り目」をつけたもののようです。今回の詩集の構成としては、「一九九九年」「反〈復帰〉」「遊糸の章」とに分けられていますが、やはり今年書かれた作品が最も優れていると思います。「海風」のほかにも、特に以前、この「索」誌上に発表された「海蛍」の悲しさ美しさには胸を打つものがありました。
 あとの二つの章もなかなか、人恋しいのか人をはねつけるのか分からない荒っぽさが奇妙な魅力となっていて、一概に読み捨てることはできません。この荒っぽさは為丸さんの「芸」とでも呼べるものかもしれませんね。いずれにせよ、沖縄という、古代の匂いを濃く漂わせながら、極東に残された日本の引き攣れ、火傷痕のような場所に為丸さんが錨を降ろした光景は、ちょっとした見ものではあるようです。

坂井信夫主宰誌「索」第20号(1999年11月30日)発表


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