Feb 27, 2006
月の裏側
月の季節――しばらく月の裏側に居た。そこは、呼吸がかろうじて可能な程度の酸素を含む大気で、湿度はゼロに近く、暗黒。「青い地球」は見えない。しばらく仮死のうめきをあげていると、少しずつ、菫色の光が射しはじめる。意識がはっきりしてきて、自分を分かる。自分の手足や顔の自覚が戻ってくる。老年はこうした光と闇の2元世界で生きさせられるのだという予感は前からあったが、実際に体験したのは、今回が初めて。地球が見える季節に入れば、しばらくは元の状態で過ごすことになるだろう。
Feb 24, 2006
同じ記憶を探して歩く
学生の頃や青春時代を一緒に過ごした人と話していて、あれっと思うことがある。自分の記憶といわば正反対のことが、その人の記憶領域にはインプットされているのだと気がついたとき、背筋に寒気が走る。こうやってひとは過去から崩れていくのか。崩れるのはこのひとか、自分か。ずっと、戦いは未来に向かっていると思っていた。過去だって崩壊するのだ。そのとき即座に悲鳴を上げて、その人の記憶と戦わなければいけない。だが、それができない。さっと、意識が内向してしまって、ああ、この人と話しても無駄だ、という、諦念じみたものに逃げ込んでしまう。あるいは、まあいいや、あとでじっくり、独りになって考えてみようとか。要するに自分の得意分野まで退いてしまうのだ。あるいは、実生活の上で、その人との関係が悪化するのは避けたいという状況判断もある。あとで、自分がいやになることもしばしばである。人の生きていくことは、戦いなんだとつくづく思わせられるこの頃である。
Feb 21, 2006
まりこさんは厳しい
ジャンヌダルクなんかにかかずらわっていないで、R66をもっと真剣にやりなさいよ。まりこさんは俳句をやっているのも怒るだろう。
けっきょく、あれやこれやに浮気して時間つぶして一巻の終わりか。さっと終わればいいが、ぐずぐず、ぐずぐず、目も当てられないことになりそうだ。恐ろしくて、ぞーっとしてくる。
Feb 20, 2006
茨木のり子さんの死
朝刊で知ったが、東伏見のご自宅寝室で亡くなっていらっしゃったのを、親族からの警察への電話で発見されたそうだ。
シチズン時計の田無工場に勤めていた頃、東伏見のアパートで新婚生活をスタートした。いい所だった。昨夏「ジャンヌの涙」をお送りした。新年の賀状をお出ししたが、もう、お加減がよくなかったのだろうか。お会いしたことはなく、ただ、韓国語を習得され、韓国詩を訳されて、偉い方だなあと、尊敬していた。亡くなりかたも、わが事のようで、悼まれる。矢川さんとともに、ひそかに先輩とお呼びしている。
Feb 16, 2006
夢の本棚
株式会社アウラの社長、幾代昌子さんが、少女時代からずっと愛唱してきた詩や歌の数々に、ベルギーの気鋭のイラストレター、ルフェーブル氏に絵をつけてもらって、魅力的な詩画集ができあがった。近々に講談社から発刊される予定。昨秋からチームを組み、幾代さんの片腕となって作業した。メンバーの一人ひとりが、忘れられない詩を提案し、みんなで議論し、採否の最終判断は幾代さんにゆだねられた。小型本で、夢、愛、想いの3冊に分かれている。たとえば、北原白秋の「片恋」や中也の「北の海」など、短くて叙情的な名篇が選ばれた。全員一致で選んでも、版権その他の問題で使えない名作も多々あった。ルフェーブル氏に詩をフランス語で伝えるのが大変だったが、そこは、幾代さんの人脈を活用して何とかクリアできた。描きあがった絵を見ると、ところどころ、誤解もあり、びっくりするイメージが現出していることもあるが、(日本の城郭を知らないなど)、大方は、歴史、文化の違いを飛び越えて、人間の想いの普遍性に驚かされもした。この仕事はまさしくR66だと思います。
Feb 09, 2006
R66
あそびすとのネットプデューサー、まりこさんがとつぜん「R66」を書けば?と言うので、一瞬何のことだろうと思ったが、フリーペーパーR25に引っ掛けてのことと気づいて、大笑い。25歳の若者雑誌が読まれるんなら、66歳のおばさん雑誌もあってもいいんじゃない?ということ。韓流シネマホリックばっかりやっていないでサ。まりこさんはまだホリックに陥るほどの年齢ではないから。いま、ピの主演の映画、MXテレビで毎週見ているけど、面白いわよ、とわたし。一押しは「八月のクリスマス」だったなー。
ところで、「月の季節」というタイトルで作品を書こうと思っている。「宿敵」はしばらくおあずけ。そのこころは? 月のように、暑さ寒さの差が激しい季節に生きているのが、60,70代だ、と思うから。いわゆる「恍惚と不安」です。
Feb 06, 2006
渋沢さん、久保さん
啼鳥忌は今年で8年目だそうだ。新宿のバー「風紋」で今年は2月4日にあった。ここへは、渋沢さんがまだご健在の頃、来たことがある。記憶の中の様子とはまるで変わっていて、衝撃をうけた。一言で言えば、艶が失せたということになるのか。この集まりに誘われたのははじめて。渋沢さんを偲ぶ会があることは聞いていたが、誘われたことはなかった。渋沢夫人と、ほんとに9年ぶりぐらいにお目にかかった。予定されていた全詩集が命日の8日には出来上がる予定で、送りたいフランス人の住所を教えてほしいとのことだった。
渋沢さん、久保さんがまだ亡くなられていなかったら、と思いつつ、日を過ごす。どん底の日々に辛くも浴びた日差し。でも、どちらでも、感じるまなざしには変わりがない。いまでは、振り返る道への入り口のようにもなっている。