Jun 30, 2008
再会
6月12日小石を投げてはいけないのは「平穏なあなたの家庭」ではなく
じぶんのこころのなかだと気がつく
あのとき何気ないふりをして
カップについた口紅をぬぐっていたけれど
ほんとうはじぶんのせいではなくて じぶんのためだ
6月14日
それでもわたしたちは「悲しいくらいにオトナ」になったので
わたしは何度でもあなたに手紙を書ける
あなたが待っていてくれる
6月8日
30年もの遥かな歳月が過ぎて
無邪気に過ごしたあの日々を懐かしく思い出しながら
わたしたちは互いの名を呼び合い再び出会った
6月15日
出会ったその日が遠い昔のキャンパスなのか
つい一週間前だったのか
とつぜんにわからなくなる
幻をみたような曖昧さがふたりの距離を確定するかのようだ
(子守唄みたいにセピア色の尾瀬
早足のあなたにおいていかれて
やっと追いついたのにけっきょくはひとりとひとりになって
それぞれの心の中を見つめていたあのとき)
6月22日
小石はとっくに投げられていたのだと気がつく
まなざしが交わされた瞬間の微かな震えは漣
眠れない夜の海に浮かべた揺れる小舟は
あなたのところへ行きたがっているからひき止める
「すべては間に合わない」という意味のない自問が
臆病な半月のように
黒い雲に隠れたりまた顔をだしたりしている
Jun 25, 2008
突然の電話
駅長さんから仕事場に電話があった。ざわついた雰囲気が伝わってきてただならない気配に緊張する。
最初にかけてきたのは次女で、彼女が「お母さん、あのね」と言ったあとですぐに駅員を名乗る男性に電話が渡されたようだった。
次女が電車内で昏倒し、たくさんの乗客に助けられて駅事務室に運ばれたらしい。あっという間に誰かが救急車を呼んだらしく「また連絡します」といったん電話は切られた。
わたしは早退の支度をしながら次の連絡を待った。駅長さんから数分後に電話があり病院の名を教えてくれて「意識は戻っていたし大丈夫だと思います。ええ、イノチに別状はありません」と大きな声で付け足してくれた。「命に別状はありません」・・・・またこの台詞!
タクシーで病院に向かう途中、次女本人から電話があった。「お母さん、ごめん、あたし、だいじょうぶだから」と言う。もう診察が終わったらしい、、、良かった。
病院につくと教科書を詰め込んだカバンを持って次女が半泣きで待っていた。ご飯もシッカリと食べ、不摂生な生活をしている訳でもないのに、何故貧血を起こしたのかはわからない。いずれきちんと検査したほうがいいのかもしれない。
娘の友人が車で来てくれたので、駅に行きお礼を言って帰ってきた。「たくさんのひとたちが親切にしてくれた、お母さんの会社の人たちに迷惑をかけた」と娘はしょんぼりしている。無事だったから良かったよ、ほんとに・・。それにしても、突然の電話!という事態に「今度は何が・・・!?」という思いがチラリとかすめていったのはいうまでもない。
Jun 20, 2008
今日のネコ
「ほっといてくれ」と前足でしっかり顔を隠して眠るネコ。「ねえ、ねえ、駿ちゃん」と声をかけて無理やり起こしたくなる。
夜中におなかがすくとぜったいにわたしを起こす猫。あまりに鳴き声がうるさくて、それがまたあまりにも近いので目をあけると枕の上にいて(つまりわたしの顔の横にすわって)見下ろしているネコの顔がある。
昼間はこうして、そ知らぬふりでおばあちゃんの近くでまるくなっている。
Jun 18, 2008
神さま
長女の部屋。それは、彼女の「聖域」というか、誰も入れない場所だった。大きな手術を終えて自宅療養になったとき、亡くなったばかりの祖父の書斎を大急ぎで片付けて娘の個室にした。(それまでは次女と一緒の部屋だった)そこは娘が「じぶんを取り戻す場所」だったのだと思う。
ものすごく多くのものが、形容しがたい状態で置かれたり積まれたり貼られたりしていた。
彼女が恋人と暮らすことを決めて部屋の整理を始めた夏からもうすぐ一年が経つ。ものすごく多くのものが捨てられたり、運ばれていったりして、部屋は開放されわたしに委託された。
わたしは猫と一緒に部屋に入り、残されたものを少しずつ片付けている。
あんなに運んだのに何故まだこんなに本の山があるのだろう。キラキラひらひらを詰め込んだ洋服の袋、シンデレラのようなハイヒール、、。ヘルメットはいったいいくつあったのだろう。捨てても運んでもまだまだある雑多なものたち。かつて娘が必要として、もう不要となったもの。
廊下の窓を開けるとさっそく猫が飛び乗った。
ふと、部屋の片隅を見ると、祖父、つまりわたしの父の所有物だった本が数冊、そのまま本棚に置かれている。「交読 詩編」という薄い一冊を手にしてみると聖書だった。そこにはキリスト関連の本がまとまって きちんと並べられていた。
父はクリスチャンだったが、わたしはキリストを知らない。もちろん娘にも無縁だった。
「かえってきた」・・・、何となくそう思った。父の思い出がよみがえり、懐かしくて切なかった。娘が大切にしておいてくれた場所。それは神さまがいるところだった。
Jun 17, 2008
アザミ嬢のララバイ
山荘は見事なまでに野草が茂っていた。好きなアザミを見つけたので、写真を撮ろうとしたが、あまりに草が多くスカートに素足のわたしは無防備で近づけない。
野アザミ、すっくと背を伸ばして風に吹かれていた。
Jun 12, 2008
みゆきさん
昨日アップした日記、写真をふたつ載せるつもりはなかったんだけど、いつの間にかこうなってた。訂正の仕方は以前、教えていただいたのに忘れるのは得意なので、このままで・・・・。桜桃忌が近づき、最近の新聞には太宰治関連の記事が目に付く。
今日はみゆきさんだった。古本カフェ・フォスフォレッセンス、店主。 近くを通っているのになかなか行けない。でもあの店があそこにあることは、わたしにはうれしい。
みゆきさんと言えば中島みゆきさんの「夜会」。チケット予約の案内を見たけど約二万円!それでも手に入るかどうかだってわからないし、、と思いつつ、昔の「夜会」のビデオ(オークションで買った)を今日は見ていた。
Jun 11, 2008
今日の雪だるま
今日は古本屋の日。ジーンズに運動靴をはいて自転車で緑の息吹きの中を走って行く。紐で束ねられた古書の検品。ひどい汚れやシミがないか、傷みがないか、線引きや書き込みはないか、、、。
レシートや、ハガキや、古い写真があらわれることもある。
持ち主の手を離れ、再び誰かの指で開かれることを待っていたかのような黄ばんだ書物たち。
これは「指導の手引き」みたいな古い本にあった折込ページ。天気しらべの図表見本だと思う。素朴な雪だるまがあちこちにいる。雨も多く、どこか地方の冬の情景が目に浮かぶ。
もう一度、誰かのところへ、旅立てるといいね。
古い本にかくれている小さな雪だるまたち。
何年か経ち、また何年か過ぎて、人とひとがまた出会うように・・・・。別れてもまたいつか、逢えるように。
Jun 10, 2008
今日の水溜り
この小さな公園を通り抜けて、バス停へと向かう。仕事先や、娘が入院していた病院へ行くときにはこの細道を通り、うまくすればネコにあって、大きなバス通りに出る。ふだん駅に行くときとはまた別の、もうひとつの日常の風景。
ブランコの下の水溜りって、どうして懐かしいんだろう。
子どもたちに蹴られた地面がたっぷりと雨水を貰って、次の日晴れてもキラキラ光って誰も寄せ付けない。
でも、いまふと思い出したけど、うちの長女は病気がわかるまでは活発でこういうブランコにも立ち乗りして、ぐんぐんこいでたっけ。見ているのがこわいくらいに。
六歳下の妹が「乗せてー」と言うと、足の間に座らせて、わたしをハラハラさせた。水溜りにつかないように小さな足を揃えて延ばして、次女はすごく嬉しそうだったな。
ブランコの下の水溜り。。。毎日、少しずつ小さくなっていく。