May 29, 2006
現代詩手帖6月号、
が送られてきました。今号の特集は「2000年代の詩人たち」。
恥ずかしながら私もそのひとりとして詩を寄稿しています。
タイトルは「春雷」
少々込み入った内容で、
先ごろ出した詩集とは大分違った印象を与えるものだと思います。
作品が載ったのも嬉しいことですが、
巻頭に組まれた座談会において、
詩人の水無田気流さんが拙詩集を取り上げてくださいました。
なんだか恐れ多いぐらいきちんと読んでくださっていて、
いやもうなんともはや、嬉しいことです。
全体としては、賛否両論という感じですね。
しかし総スカンだったり褒めちぎられたりするよりも、
賛否両論のほうがいいような気がします。
否の方の人も、ちゃんと読んでくださっているようで、
書き手としてはそれだけで嬉しいものです。
さらに今号はPSP関連の人が多く登場しています。
竹内敏喜さんは、渡辺めぐみさんの新詩集「光の果て」についての文章を寄せており、
また有働薫さんは、先ごろ亡くなられた吉行理恵さんの追悼文を書かれています。
作品では手塚敦史さん、久谷雉さんを始め、合評会に参加してくれたことのある
大谷良太さん、永澤康太さんが寄稿されています。
手塚さんは第二詩集「数奇な木立」が、シリーズ「新しい詩人」の一環として刊行されます。
裏表紙にはその広告が載っており、
次々と刊行される予定の12人の詩人の写真がずらりとあって壮観です。
手塚さんも男前に写ってますね。
こうみると結構詩人って美男美女が多いのではないでしょうか。
新人特集ということで、これでもかというほどの数の詩が掲載されています。
まさにこれから詩界を牽引して行こうという人たちの作品が目白押し。
連載されているベテランの詩人の作品も載っていますが、
それらに比べても遜色なく見えるのはいいことです。
新しい詩集のシリーズも始まることですし、
思潮社にも若い詩人を売り出す意欲が見えますね。
なにかが変わるのではないでしょうか。
それにしても投稿欄などとあわせると、
一体今号には何篇の詩が掲載されているのでしょうか。
と思い数えてみたらなんと42篇!
いやあ、全部読むだけでも体力を要します。
しかし無闇に作品を載せるのもどうかとは思いますが、
いまや貴重な詩の専門誌なのですから、
クオリティを吟味した上で、これに近い数の詩を毎号載せてみてもいいような気がします。
特に若い人の作品なんか、バンバン載せて反応を見るのもいいんじゃないでしょうか。
やはり大勢の人が見る可能性があるところに作品を置かないと、
いい作品も詩人も、
誰にも知られないまま埋もれていってしまうと思いますし、
そうすると詩の世界自体がますます衰退してしまうのでは・・・。
May 26, 2006
窓を開けて、
ブログを書けるいい季節になりました。昨日は大雨でしたが。
とある科学雑誌を立ち読みしていると、
蛾の口の拡大写真が載っていました。
赤く渦巻きみたいになっていて、
なんだか前衛芸術を思わせる形でした。
幻想的とか別世界とか、
またある意味グロテスクと言っていい形でした。
それを見てて思ったのですが、
現代美術などの20世紀芸術は、
ものを近くで見すぎていたのではないでしょうか。
現代美術もまた、グロテスクと言う形容をよくされると思いますが、
心とか人間性とかそういうものを、人間的な視点よりもっと、
顕微鏡で見るように、不自然なほど近くで見てしまって、
あのような理解し辛い様相になっていったのではないでしょうか。
また、宇宙などの写真を見ると、非常に魅力的な形がたくさんありますが、
そんな世界も、人間の目から見ると顕微鏡で見た世界に似ている気がします。
ミクロの世界もマクロの世界も、非常に興味を惹かれる世界ではありますが、
人間的な視点の位置とは言えない気がします。
いま、私たちが普通に眺めているこの世界は、
恐ろしく複雑に見えています。
周りの景色も、人間関係も、一人の人をじっと見るときでも、
とても言葉では言い尽くせないほど複雑に見えています。
それに対して、顕微鏡や望遠鏡で見た世界は、
見た目、非常に単純に見えます。
絵に描いてみようとすれば、両者の違いは明らかです。
人間の視点とは、
人間の複雑な脳に合わせた位置に置かれているのではないでしょうか。
これだけ複雑なら、研究者も芸術家も、一生掛かってもその全ては征服できません。
などと感じて、ふと詩のことを思うと、
やはり人間的な視点から見た世界を詩にすることが、
一番難しいように思います。
不自然なほど近づいたり遠ざかったりして描くのは、
寧ろ簡単なことなのではないでしょうか。
勿論、近づいたり遠ざかったりというプロセスは、
非常に複雑で時間の掛かる経緯を辿らねばなりませんが、
しかしその結果見えるものは、人間的な視点から見えた世界よりも、
ずっと単純なものであるように思います。
更にその向こうにあるものは、人間のためのものではないでしょうから、
人間には理解できず、理解する意味もないような気がします。
と言いながら、
私も近くに行ったり遠くへ行ったりしたいと思ってしまうのですね。
その向こうにあるものがなんとか見えないものかと、
目を凝らそうとしてしまいます。
普通の世界が一番複雑で美しい、とわかっていても、
芸術家も研究者も、別世界にどうしても惹かれてしまうのでしょう。
一種の逃げなのでしょうが、
これはもう本能であると思います。
すると人間の本能とは、人間ではないものを目指すことなのでしょうか。
私も前衛芸術は好きですが、
しかし前衛芸術は結局何も生み出さなかったと思います。
蛾の口のどアップは凄く面白いけれども、私たちに知ることが出来るのはそこまでで、
その向こうに決して進めないのではないでしょうか。
グロテスクとは、あんたはそこから先に行っちゃいけないよ、
というサインかもしれません。
あるいは、その先に行っても構わないけど、
まともなやつは誰もついてきちゃくれないよ、というサインかも。
May 23, 2006
恒例の合評会報告。
前回は私のこのブログにおける「上品とはいえませんが」発言が一部でえらい物議をかもし出してしまいました。
関係者様、大変ご迷惑をお掛けしました。
それでは、言葉に気をつけていきます。
今回は同人誌「ルピュール3号」の原稿締め切りでもありました。
私は以前PSPに出した「成就」という作品を掲載予定。
7月2日に行われる東京ポエケットに間に合わせるため、
造本をお願いしている水仁舎の北見さんには、
制作を急いでもらうことになってしまいました。
北見さん、何卒よろしく。
と言うわけで、東京ポエケットにはPSPで参加の予定。
みなさま、お誘いあわせの上ご来場を。
私も行きます。
合評の方は、残念ながら欠席の方が多く、少数人数で行われましたが、
久しぶりに岩村美保子さんが参加されたのが嬉しいことでした。
作品は子供から大人に成長する過程で失ってしまったもの、
変わってしまったものの不可思議を感じさせる、温かみのある作品で、
日頃、殺伐とした作品とばかり格闘している私には新鮮でした。
岩村さんは今年の2月に「生きるなんて暇つぶしさ、ってきりぎりすは言った」
というエッセイ本を出されました。
私も頂いて読んでいるのですが、とても読みやすいうえ面白い!
御自身の詩と同様温かみのある文章で、それでいてなかなか鋭いことも書かれていて、
はっとさせられる部分が数多くあります。
宮越妙子さんの作品は、東北の日本海の風景を思わせる情緒的なもので、
三部作の最初の一篇であり、今から何かが起こるという予感に満ちたものでした。
その描写力、表現力は卓越しており、感想をいうよりも、
早く先を読ませてほしいという感じです。
高田さんの作品は、主体が若干わかりにくかったものの、
ほかはいつもながらの秀作です。
夢から夢へとさまよい歩くなかでふと垣間見るような眺めが、
絵本にページをめくるように現われて、なにも考えずに没頭させてくれます。
柿沼さんの作品も素晴らしかった。
狂気をクールにテクニカルに捉えた作品で、
平凡な言葉の中から屹立するようにはっとする言葉が現われ、
唸るしかありません。
今回もっとも物議を醸し出したのは竹内敏喜さんの作品。
ジャクリーヌ・デュプレからジャック・ラカン、そして聖書へ移行して、
一篇の詩に結晶するというもので、その言葉運びの匠さと、
一つ一つの事物の深さには圧倒されるものがありましたが、
いかんせん難しい!
多方面の知識に豊富な人でないと読解することすらままならず、
当然、私は途中で振り切られてしまいました。
しかしそのクオリティは揺るぎないものがあります。
そして今回は作品は提出されませんでしたが、
これまた久々に福士環さんが参加されました。
お家の方でいろいろとあり、私も非常に心配していたのですが、
以前通りの元気なお顔を見られて安心しました。
というわけで、合評会が終われば当然ながら二次会へ突入なわけですが、
残念ながら岩村さんと北見さんが帰られて、更に少ない人数での飲み会。
おまけにいつも飲んでる店が改装だか閉店だかで工事中で、
別の店を余儀なくされましたが、
途中から久谷雉さんが参加されて盛り上がりました。
久谷さんは一番お若いのに、詩の世界では非常に事情通で、
いろいろな話が聞けてとても面白いです。
ところで、前回私のブログに登場したご両人は、
今回も日本酒をくいくい呑りながら大いに語り合っておりました。
て、こんなこというと、また物議を醸し出してしまうかな?
May 19, 2006
久々に「2001年宇宙の旅」なぞ
DVDにて鑑賞。この映画、最初に見たときは、何がなんだかよくわからなかったですね。
長いし、これといったアクションシーンもないし、ラストなんて意味わかんない。
しかし何回も繰り返して見るうち、段々とその凄さがわかってきました。
内容的なことやラストの意味は、小説を読めばちゃんとわかって、
それはそれで感心するんですが、
実は映画的な部分も凄いってことがわかってくると、何度見ても飽きないですね。
この映画、最初の20分ぐらいは、
人類の祖先となる猿人たちのセリフのないシーンが延々続きます。
動物の骨を道具として使うことを学び、それで動物を倒して肉を食うことを学び、
そして他集団との殺し合いまでをも学び、
あとあの有名なモノリスのシーンなんかもあるんですが、
猿人たちの動きがもの凄く計算されて出来ていることに、
何回も見てから漸く気付かされます。
セリフが一切ないのに、ちゃんと彼らの中でなにが進行しているのかがわかる。
特にモノリスのシーンで、最初に板に触れていく猿人の動きは見事です。
ある種のバレエを見ているようですらあります。
最初の頃は本当に退屈なだけのシーンでしたが、
これだけ見ても、やっぱりキューブリックって凄かったんですね。
そして猿人が骨を宙に放り投げて、それが宇宙船になって、
2001年の宇宙のシーンへと繋がるわけですが、
流れてくるのは、J・シュトラウスの「青く美しきドナウ」。
この映画を子供の頃に体験した人は、
みんなこの曲は宇宙船のテーマになっちゃってるんじゃないでしょうか。
私もそうです。
ちなみにこの映画ではカラヤン盤が使われているようですが、
私の愛聴盤はベーム盤。
優雅さがカラヤン盤より一枚上手で、いかにも宇宙に浮遊している気分になれます。
そういえばオープニングで流れる、
R・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」なんて、
この映画のために作られた曲だと思っていた人も多いのではないでしょうか。
私もそうです。
しかし21世紀になって随分経ちますが、世間の眺めはちっとも変わりませんね。
もっと劇的に変わるものだと思っていましたが、
ここは本当に、あの頃の未来なのでしょうか。
鉄腕アトムなんか見てもそうですが、
宇宙旅行とかロボットとかの原型は出始めてはいるものの、
実用になるのはずっと先でしょうし、エアカーなんてのも見当たりません。
ただ携帯電話とかパソコンとかは、
予想していたよりずっと発展しているのではないでしょうか。
まあ、まだ勝手に考えたり喋ったりはしませんけど。
この映画に、21世紀的なものの価値観を植えつけられたような気がします。
コンピューターの声は飽くまで無機質でなくちゃいけないし、
部屋は可能な限り真っ白の方が未来っぽい。
しかしファッションはさすがに古くなりましたね。
スチュワーデスの宇宙服なんて、
寧ろ60年代のファッションに近い気がします。
未来は、いつまで経っても未来なのでしょうか。
ということで、私はこの映画をパソコンで、
秋刀魚の塩焼きと豆腐を肴にして、
日本酒の熱燗を飲みながら一人でぼんやり見たのでした。
淋しい…。
May 16, 2006
サッカーWC日本代表が決まりました!
…そういえば今年だったんですね、ワールドカップ。私はテレビドラマというものを、殆ど見ません。
昔、「101回目のプロポーズ」とか、
木村拓哉さん主演のものとかが凄い視聴率で、
周りの人はみんな見てましたが、
私はひとつも見たことがありません。
まず長い話が駄目なのと、
恋愛ものに興味がないことがその原因です。
あと毎週同じ時間に見なくてはいけない上、
一本見逃すと話がわからなくなるという強制性が耐えられません。
ならばビデオに録ってみればいいのですが、
ビデオに録ると、なんだか安心してほったらかしにしてしまいます。
そのうち何週分も溜まってしまって、
「見なくてはいけないビデオ」を無理に見るのが苦痛となり、
結局別の番組を上から重ね録りして一件落着、
だから最初からドラマは見ません。
なのに最近「富豪刑事デラックス」を見てます。
と言ってもまだ二回ぐらいしか見てませんが、
なんで見るかと言えば、これは筒井康隆の原作なんですね。
中学生の頃に筒井康隆にははまってよく読んでました。
だから原作を知っているもので、愛着を感じて見てしまうのです。
ドラマを見るのは、前シリーズの「富豪刑事」以来ですが、
このシリーズは一話完結ものなので、見逃してもダメージはありませんし、
恋愛の要素も殆どなく、主演の深田恭子もはまり役で面白い。
もの凄い金持ちのお嬢さんという役柄なのですが、
「いいえ、森の中にお家があるのではなく、お家の中に森があるのです」とか
「そんな…たった100億円ぽっちの為に…」
なんてセリフを言ってて、それを喜んで見てます。
中途半端な金持ちじゃないので、むかつくより寧ろ痛快です。
ストーリーとか謎解きとかよりも、
ただ深田恭子のお嬢様キャラが面白くて見ている感じ。
私はなぜかちょっと調子の狂ったお嬢様の言動が好きで、
考えてみると遠い昔「白鳥麗子でございます!」なんていうドラマは見てたような。
そうそうあと下らないドラマなのに、夏八木勲とか出てたりします。
前作の「富豪刑事」のときは筒井康隆本人も出ていたのに、
今回は出ていませんね。
少し残念です。
そのうち出てくるのかな。
May 13, 2006
キースは一応退院したと言うことで、
よかったよかった。先日観劇した遊戯空間の舞台など見ると、
詩を運ぶもののことを考えます。
詩はもちろんそれ単独で存在するものですが、
別のなにかと一緒になって、人まで届く方法もあります。
主であるのは音楽。
それに演劇の中で俳優の声から、
そしてリーディング、
また詩集や絵本、写真集などの形もあります。
先日見た演劇では、音楽が詩を運ぶように、
俳優の声が詩を運んでいました。
演出家の方は、和合さんの詩作品の中から、
ただ出来のいいものを選ぶのではなく、
演劇にして効果のあるものだけを慎重に選び出し、
劇化していました。
俳優の演技と共に送った方が、文字で読むよりも真意が伝わりやすい詩があり、
同じように音楽にのせた方がいい詩があります。
また、もっと他の方法がいい詩もあるはずで、
その方法は詩の数だけあるのかもしれません。
勿論余計な事をせず、紙に印刷したものを読むのが最もいいものもあります。
私は現在、文字で読む詩に集中して書いていますが、
その中でも、一つ一つの詩にふさわしい場所はあるのだと思います。
沢山の人の詩の中に存在した方が良かったり、
詩集の中に存在した方が良かったり、
また詩集の中でも、一番最初に置かれることがふさわしい詩があり、
最後に置かれることがふさわしい詩があり、
それを間違えると、詩はその力を存分に発揮できなくなってしまうと思います。
どこにあってもどんな伝え方でも、いい詩はいいのだ、とも言えるかもしれませんが、
例えばイチロー選手だって、大リーグに行っていなかったら、
また野球ではなく、間違ってサッカーをやっていたら、
あれだけの身体能力の持ち主ですから、それなりに成功はしたかもしれませんが、
しかし今以上ではなかったでしょう。
イチローは、自分が最も輝ける場所を探す天才でもあると思います。
極端な例えでしたが、そういうことです。
そして一緒に送るものがわかったら、
それに対しても充分に気をつかわなければならないと思います。
遊戯空間の公演では、その充分に気をつかったものを見せてもらいました。
演出家さんの手腕、俳優さんたちの研ぎ澄まされた演技力があってこそ、
和合さんの詩はそこに明らかに出現できたのだと思います。
少しでも手を抜いたものであったなら、
難しい試みだっただけに、
見るも無残なものになっていたのではないでしょうか。
私の場合、今までは詩を書くことが自分の欲望の八割方であり、
何処に出るか、どのように見せるかは、それほど気にしていませんでした。
しかしせっかく書いたものですから、ひとつひとつの詩に、
一番際立つ服を選んでやることも必要かなと思い始めています。
さて、詩手帖6月号に掲載される詩のゲラが送られてきました。
ここでは沢山の先鋭詩人の中に挟まれた所に、詩の居場所があります。
一応、それを考えて詩を選んだつもりですが、果たしてどうだったでしょうか。
心配…。
May 10, 2006
ヤシの木から落っこちたキースのことが、
非常に心配です。情報が錯綜していて、軽い脳震盪という情報もあれば、
脳外科手術を受けて静養中という情報もあり、
はっきりしません。
まったく60過ぎて何やってるんだか。
大したことないといいんですが…。
先日、「本城直季写真集/スモールプラネット」という写真集を買いました。
一応は風景写真集ですが、なんか変です。
実際の風景を写しているのに、ミニチュア模型のように見えるのです。
カメラの技術的なことなんでしょうけども、そこら辺にうとい私は、
いったいどうやって撮っているのだかわかりません。
以前に確かリラックスという雑誌でこの人の写真を見て、
「うわ面白れえこれ。どうやって撮ってんだよ」などと興味津々だったので、
写真集を見かけて思わず買ってしまいました。
結構ボリュームもあって、飽きずに眺めています。
桐田さんあたり、お好きなのではないでしょうか。
税込2650円也。
男はミニチュア模型が好きですね。
私も小さい頃はプラモデルをよく作りました。
宇宙戦艦ヤマト、機動戦士ガンダム…
今はもう全然作りませんが、
おもちゃ屋を通りかかって、ジオラマなんかディスプレイされていると、
思わず覗いてみたりします。
そういえば私も、フィギュアという奴をひとつだけ持っています。
何年か前に、ゲゲゲの鬼太郎の妖怪フィギュアがシリーズで出たのですが、
その中で私が思わず買ってしまったのが、原作者の水木しげる自身のフィギュア。
紙とペンが置かれた小机を前にして、
まだ比較的若い頃の水木しげるが胡坐をかいて座り、
顎を手でさすりながら嬉しそうに空想に耽っていて、
それを机の端っこに座り込んだ目玉親父が見上げているというものです。
すごく可愛くて、数百円と言う安さも手伝って買ってしまいました。
今も私の創作の神様として、机の前の本棚の隅で空想に耽っています。
思うんですが、盆栽というやつも、ミニチュア模型と同じですね。
大きな木を、小さい植木で再現しているんですから。
よく品評会と称して、年配の方が難しい顔して唸りながら見ていますが、
あれは実は、ガンダムのプラモデルに群がる子供たちと同じだと思います。
まったく男ってのは死ぬまで子供です。
それでいいんです。
May 07, 2006
近頃あちこちで、
詩集を出すと言う話を聞きます。灰皿町の中では、白井明大さん、久谷雉さんが詩集の刊行を予定していますし、
思潮社では「新しい詩人」というシリーズがスタートして、
手塚敦史さんなど先鋭詩人の詩集が出ます。
他にもたくさん、特に若い人の話をよく聞きます。
今年の下半期は、話題作が揃うのではないでしょうか。
詩を書く人にとって、
自分の作品をまとめるということは、重要なことだと思います。
一篇一篇の作品を書いていたときには意図していなかったことが、
数十篇を集めて眺めてみたとき、忽然と見えてくることがあり、
それは作品集という形でないと表現できないものです。
詩人は詩をかくとき、大概、表したい何かがあって書くわけですが、
その何かとは、その時点では重要に思えても、結果的には実は表面上のことでしかなく、
本来の表現への第一歩に過ぎないと思います。
本来の表現とは、自分でも意識できない内面深くにあるものを、
外の世界へ表出する行為であると私は考えます。
詩は自分の狂気を描くものであるという話がありますが、
それは私もそう思います。
しかし自分の狂気など、描こうと思って描けるものではないですし、
元来狂気とは自分では気付けないものです。
外面的に狂っているように見えるのは、文字通り外面でのことであって、
その原因はもっと深いところにあると思います。
それを表すことこそが、自己の表現だと思います。
意図的にそれを抽出することは大変難しいですが、
何篇も詩を書き重ねるという作業を続けていくと、
滲み出るように、それが作品の節々に表れてきて、
ある程度の数の作品をまとめたとき、はっきりと形となって見えてきます。
狂気でなくても、
自分という存在の行為の原因であったり、無意識の欲望であったり、押し隠した怒りなど、
心の底に流れているものは、作中に通奏低音のように現れてくるものだと思います。
私の拙詩集の場合でも、「世界の認識」や「食われるもの」など、
批評を頂いた中で言及されている幾つかのことは、
少なくとも一つ一つ書いていたときには、意識していなかったことでした。
一篇だけでは見えなかったことが、
ある程度の数をまとめてみたときに、初めて形を成したのだと思います。
それを発見することは、詩集を編む醍醐味のひとつだと思います。
詩を書き続けてきたけど、さて結局のところ自分はなんだったのだろう、と問い、
それを見出すことが、詩集を編むということかもしれません。
May 04, 2006
なんだか画面が、
点滅しています。青っぽくなったり、普通になったり。
あと、下のほうが歪んでいるようにも見えます。
うーん、そろそろこのディスプレイも寿命なのでしょうか。
なにせもう10年くらい使っているのですから、
いつご臨終となっても不思議ではありません。
むしろ凄い生命力です。
でもせっかくここまで使ったんですから、
天寿を全うするまで付き合う所存です。
例によって現代詩手帖5月号を購入。
特集は全詩集が刊行されたこともあって渋沢孝輔。
私は相変わらずの不勉強であって、この大詩人の作品を、
アンソロジーぐらいでしか読んだことがありません。
そんな私のような人のために、親切に代表詩選が載っていますね。
しかしやっぱり難しい。
「ついに水晶狂いだ」なんて凄く格好いいんだけど。
ただ全くのお手上げと言う感じではなく、
確かに言葉に意味が込められているのは感じます。
読んでいくと、言葉が網目に変わっていって、
その向こうになんとも知れないものすごいものが見え隠れしている感じ。
あるいは得体の知れない仙人のような浮浪者が、
杖を振るいながら唸るように言葉を大地に撒いている感じ。
読み手はその目撃者ですね。
しかし決して話しかけられはせず、
遠巻きに眺めるしかありません。
連載詩では入沢康夫さん、田中清光さん、吉田文憲さんが面白かった。
吉田さんは来月から倉田比羽子さんと共に、投稿欄の選者ですね。
どんな傾向になるのでしょうか。
現代詩手帖賞は十代のお二人、下馬評通りといったところでしょう。
受賞作が掲載されていますが、
最果タヒさんは、大きな文字で読んだほうが真価が感じられますね。
改名された望月遊馬さんは、静かな海の上を漂い流れて行くようです。
惜しくも受賞を逃された山田亮太さん、河野聡子さん、広田修さんなども含め、
今回の投稿欄はなかなか充実していたように思います。
来月6月号の特集は2000年代の詩人たち、
手塚敦史さん、キキダダマママキキさん、小笠原鳥類さんを始め、
新世代の詩人たちの最新作が大挙して掲載されます。
特に十代、二十代の、
これからの詩壇を背負っていくであろう詩人たちの今を体感しておくのは、
詩と付き合っていく上で非常に有意義ではないでしょうか。
必読です。
…なんて力を込めて言ってしまったのは、
詩手帖を買った人はお気づきかもしれませんが、
恥ずかしながら私も作品を寄稿する予定です。
ついでに読んであげてください。
May 01, 2006
4月29日は予告どおり、
劇団遊戯空間による舞台、詩×劇「世界が脳になってしまったので少年は左に回らない」
を観劇してきました。
原作には詩人和合亮一さんの最新詩集「地球頭脳詩篇」と、既刊の「AFTER」
「RAINBOW」に収録された詩篇がそのまま使われました。
前回の公演では、和合氏の第三詩集「誕生」の収録作のみを使っていたのに対して、
今回は以前に出された2冊の詩集の収録作も合わせて使われたことにより、
詩集単体の劇化というより、詩人和合亮一の世界自体を劇化したものとなっていました。
役者さんの動きが大きく派手だった前回の公演に比べ、
今回は動きを最小限に抑えて、声の表現による空間の現出に重きが置かれたことにより、
非常にストイックなものとなっていました。
そのぶん、観客は和合さんの独特な言葉に全身耳にして聴き取ることとなり、
客席には否応なしの緊張感が張り詰めていました。
また殆ど脈絡を感じさせず、しかも非常に長い文脚である和合さんの詩の言葉が、
役者さんの口から延々と唱えられ続けるのを見ているうち、突然それが止まってしまって、
劇自体が崩壊してしまうのではないかという不安感も漂っていました。
それも含めた緊張感が、言葉を舞台から客席の観客ひとりひとりの胸の内へと運んでいく、
水の流れのようなものになっていたと思います。
タイトルに、世界が脳になってしまったので、という言葉が使われていますが、
まさに舞台と客席を含んだ空間の全てが、ひとりの詩人の脳内と化していました。
そこでしか通用し得ない言語によって成される詩人の思考と妄想を、
観客は目の当たりにし、共有します。
和合さんの詩の言葉は難解と言われますが、ここではそれがごく普通の言語として流通し、
さらに役者さんの演技と演出家さんの手腕によって、
この特殊な脳は確かに実現されていました。
前回とは違ったアプローチを、失敗を恐れずされていたことは重要でした。
詩を劇化する試みを、遊戯空間はこれから先も続けられていくようです。
公演が行われるたびに、劇の肉体となる詩に様々なポーズをとらせ、
やがてそれが最終的な姿へと昇華していく過程を、今回は見られたと思います。
公演が終わったあとは、和合亮一さんと演出家の篠本賢一さん、
そして遊戯空間文藝部の荒井純さんによるアフタートークが行われました。
ここでは、篠本さんが和合さんの作品を舞台化することになった経緯や、
舞台化に際しての企み、そして荒井さんと和合さんの出会いなどの貴重なお話が、
1時間ほどに渡って大いに語られました。
私が興味を引かれたのは、和合さんの言葉の原点が、
唐十郎の公演を見たことがきっかけであるとのお話でした。
和合さんの地元福島に唐十郎のテント劇団がやってきて、
そこで奔放に繰り広げられる演劇の様を見てショックを受け、
さらに劇の最後に舞台の後ろのセットがバタンと倒れ、
その向こうに現実の福島の町並みが見えたとき、
和合さんは、ああ、俺はこれをやりたかったんだ、と思われたそうです。
そこから、あの特異な言語が生まれてきたと知ったとき、
私はとても納得しました。
上手く説明できませんが、和合さんの言語とは、
非日常が打ち破られた瞬間にだけ垣間見える日常であるのではないでしょうか。
想像力をたくましくすれば、あらゆる言語はそこから生まれてくるのかもしれません。
(すいません、すこしわけわかんなくなりました…)
アフタートークの後は、例によって、
来ていらした詩人の方々と一緒に飲みに行きました。
メンバーは一緒に観劇した竹内敏喜さんと、岡山からいらっしゃった斎藤恵子さん、
森川雅美さん、渡辺めぐみさん、えこし会の林花子さん、
そして福島からいらっしゃった虹色詩人団のみなさんです。
公演の合間を縫って和合さん、演出家の篠本さん、荒井純さんもいらしてくれて、
いろいろとお話を聞くことができました。
遠くからお越しのため、時間に制限がある方が多かったので、
残念ながら全ての方と長くお話をすることは出来ませんでしたが、
その中でも、約2ヶ月ぶりの再会である斎藤恵子さん、
そして今回初めてお目にかかる渡辺めぐみさんとお話が出来たのは嬉しいことでした。
渡辺さんは多くの詩誌で精力的に詩を発表されておられるので、
その作品に接する機会は多かったのですが、お話させていただくのは今回が初めてでした。
その作風から、少々特殊な性格の方かもしれない(失礼!)と思っていたのですが、
お話させていただくと、非常に気さくで話しやすい方でした。
馴れ馴れしくも詩集の交換などまでさせていただきました。感謝。
飲み会中、段々と人が抜けていって、最後まで残っていたのは私と、
虹色詩人団の西口さん、そしてまたもやおなじみ竹内敏喜氏という野郎三人。
この三人で和気あいあいと、
しかしかなり熱く論争を繰り広げて、あっという間に時間は過ぎていきました。
11時前にお開き。
さて、今回の竹内氏の記憶はいかほどでしょうか?
もうひとつ嬉しいニュース。
森川雅美さんが「千年紀文学」(千年紀文学の会発行)という隔月誌に、
私の拙作の書評を書いてくださいました。
著者本人が意識していなかった部分まで鋭く深く読み込んでくださり、
これはもう大変な感激です。