May 07, 2006
近頃あちこちで、
詩集を出すと言う話を聞きます。灰皿町の中では、白井明大さん、久谷雉さんが詩集の刊行を予定していますし、
思潮社では「新しい詩人」というシリーズがスタートして、
手塚敦史さんなど先鋭詩人の詩集が出ます。
他にもたくさん、特に若い人の話をよく聞きます。
今年の下半期は、話題作が揃うのではないでしょうか。
詩を書く人にとって、
自分の作品をまとめるということは、重要なことだと思います。
一篇一篇の作品を書いていたときには意図していなかったことが、
数十篇を集めて眺めてみたとき、忽然と見えてくることがあり、
それは作品集という形でないと表現できないものです。
詩人は詩をかくとき、大概、表したい何かがあって書くわけですが、
その何かとは、その時点では重要に思えても、結果的には実は表面上のことでしかなく、
本来の表現への第一歩に過ぎないと思います。
本来の表現とは、自分でも意識できない内面深くにあるものを、
外の世界へ表出する行為であると私は考えます。
詩は自分の狂気を描くものであるという話がありますが、
それは私もそう思います。
しかし自分の狂気など、描こうと思って描けるものではないですし、
元来狂気とは自分では気付けないものです。
外面的に狂っているように見えるのは、文字通り外面でのことであって、
その原因はもっと深いところにあると思います。
それを表すことこそが、自己の表現だと思います。
意図的にそれを抽出することは大変難しいですが、
何篇も詩を書き重ねるという作業を続けていくと、
滲み出るように、それが作品の節々に表れてきて、
ある程度の数の作品をまとめたとき、はっきりと形となって見えてきます。
狂気でなくても、
自分という存在の行為の原因であったり、無意識の欲望であったり、押し隠した怒りなど、
心の底に流れているものは、作中に通奏低音のように現れてくるものだと思います。
私の拙詩集の場合でも、「世界の認識」や「食われるもの」など、
批評を頂いた中で言及されている幾つかのことは、
少なくとも一つ一つ書いていたときには、意識していなかったことでした。
一篇だけでは見えなかったことが、
ある程度の数をまとめてみたときに、初めて形を成したのだと思います。
それを発見することは、詩集を編む醍醐味のひとつだと思います。
詩を書き続けてきたけど、さて結局のところ自分はなんだったのだろう、と問い、
それを見出すことが、詩集を編むということかもしれません。
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