Feb 28, 2006
トリノオリンピックが
終わったらしいですね…。金メダルを一個取ったそうですね…。
結局、一競技も見なかったのでよくわかりませんが。
最近はテレビというものを、殆ど見なくなってしまいまして、
選手の名前を聞いてもさっぱりです。
随分前にこのブログで、
「楽譜とは詩であり、演奏者は読み手もしくは朗読者だ」
というようなことを書いたことありました。
そしてつい最近、いつも見ているホームページにて、私のよく知っている人が、
「詩とは、楽譜ではなく、指揮者ではないか。楽譜は、読者の胸のうちにあり、
その読者の楽譜を指揮し、音楽をかき鳴らす、という意味において」
というようなことを仰られたと書かれていました。
なるほど面白いなあ、と思いました。
つまり読み手の中にある楽譜を、詩という指揮者が演奏するということだ、
と私は解釈しました。
その発言をされた方(Tさんとします)に私は大変お世話になっているのですが、
詩に対する考え方の違いが「楽譜か指揮者か」ということに、
如実に表れていると思います。
(といっても、喧嘩するとかそういうことじゃありませんよ、念のため)
Tさんは恐らく、詩人と読み手は密接に関わるべきだと考えているのだと思います。
一方私の場合は、詩人と読み手は一切の関係がなくていいと思っています。
誰かが私の書いた詩を読んでくれるとき、そこには詩と読み手だけが存在して、
小川三郎という書き手は存在しなくていいと思っているのです。
これは拙詩集のあとがきに書いたことですが、
「この詩集を読んでくれた人が、(私の思いもしなかった)その人だけにしか出来ない
解釈を生み出してくれたなら、私はとても嬉しい」のです。
ですからそこに、小川三郎なんて詩人はいなくていいのです。
確かに私にも詩によって伝えたいと思うことはありますし、
伝わればいいと強く思ってもいますが、
それを本当に理解してくれる人は、ごく稀であると思います。
理解してくれたなら本当に嬉しいですが、理解してくれなくとも、
そこに何かしらを感じてくれれば、それで充分嬉しいのです。
もちろんそれだけでも、恐ろしく困難なことではありますが。
私が、読み手に詩を渡すときびすを返し、
「あとはよろしく」と言って、とっとと去ってしまうのに対して、
Tさんはそれよりかは、密接に読み手に関わろうとしているようです。
読み手が内に持つ楽譜を指揮して、音楽をかき鳴らそうというのですから。
Tさんは逆に詩を読むときも、詩人に密接に関わろうとします。
ですから私よりずっと詩と詩人を信じているのだと思いますし、
しぜん、読み手に対しての愛も強まるのだと思います。
私には、読み手の心の中にある楽譜を読むことは出来ません。
だから自分なりに一生懸命詩を完成させ、
それによって読んでくれる人それぞれの心の何処かに引っかかればと
願っているのです。
誰かの楽譜を読んでそれを演奏しようとしたら、
それはごく一部の人にしか響かないものになるような気がします。
しかし言い換えればそれは、ごく一部の人には深く響くものなのかもしれません。
するとTさんは一途で、私は八方美人でしょうか。
あ、なんとなくこの嫌な表現は、人間的に見ても当たっているような気が…。
考えてみればTさんは一途な人です。
それに引き換え…
うーん、八方美人って、結局最後は嫌われるんですよねー。
「人か言葉か」の選択があったとき、
私は言葉を取り、Tさんは人を取るのかもしれません。
どちらがいいかはわかりませんし、
そもそも決める必要はないと思います。
それぞれの姿勢で詩を書いていけばいいと思います。
どちらにしても、困難な道であるには違いありません。
Feb 25, 2006
2月16日付のブログで、
「宮沢賢治の詩が直筆原稿で読める本ってあるのでしょうか」と書いたところ、
それを見た桐田真輔さんが、
「イヴへの頌」(詩学者)という大判の本を貸してくださいました。
内容は、堀口大学から長田弘まで総勢75人もの詩人の、
肉筆原稿によるアンソロジーです。
ひとり一篇ずつとは言え、
多くの詩人の肉筆に接することができるとても興味深い、読み応えのある本です。
ここのところ家に帰るたび読み返しているのですが、全く飽きません。
当然のことながら筆跡は十人十色、ミミズののたくったような字もあれば、
デザイン的な字もあり、また読めないぐらい達筆な人がいれば、
小さくて細い繊細な字の人もいて、色々な筆跡を眺めているだけでも、
時間を忘れてしまいます。
私の好きな黒田喜夫や岡本潤の肉筆が読めたのは嬉しかった。
金子光晴の字はあまりの乱雑さにちょっと読めませんね。
やっぱりな、という気はしますが。
草野心平の字はものすごくぶれていて、これは屋外で書いたのでしょうか。
鮎川信夫はちっちゃくて丸っこい女性的な字。
秋谷豊さんは角ばったデザイン的な字で、額に入れて飾ったらきっといい感じです。
磯村英樹さんはペン習字のお手本のような、整然とした字です。
吉増剛造さんは、彫刻刀で彫りつけたような格好いい字。
他のどの詩人も、味のあるいい字を持たれています。
言葉が人間から外へ出るとき、ひとつは口調として現れ、
ひとつは文字として現われます。
口調がその人の性格を強く表しているように、
やはり書き文字も、その人のことを強く表すのでしょう。
そして人は自分の口調を聞きながら思考し、
また書き文字を見ながら思考するのでしょうから、
やはり肉筆には、その人の詩の所以の一部があるのではないでしょうか。
ならば生身の詩人を感じるには、下手な研究書なんかより、
こうして肉筆の文字で詩を読むほうがいいように思います。
こういう本が、もっと手軽に手に入るようになるといいですね。
今回この本の中で気になったのは、磯村英樹さんと鈴木喜緑さん。
二人とも、知らなかった詩人でした。
磯村英樹さんは、オキアンコウのオスとメスが登場する物語的な詩作品で、
ちょっと井伏鱒二の「山椒魚」を思わせる、とても面白い作品でした。
鈴木喜緑さんは、死のうとした母へ向けた詩で、やさしい言葉と文字ながら、
人の残酷さを鋭く突きつけてくる詩です。
今後著作を探してみようかと思います。
それと、ふらんす堂ホームページ「詩のリレー」のバトンが、手塚敦史さんから、
先日の合評会でご一緒した森悠紀さんに手渡されています。
「一語もないまま、あいている(ハコ)」を取ったようですね。
手塚さんの詩にあったしっとりと濡れた空気を受け継ぎながら、
さらに浮遊感の強い作品になっています。
是非、一読を。
Feb 22, 2006
前日に引き続き、
19日の日曜日は、月イチ恒例のPSP合評会。今回はゲストが多数参加で、熱気に溢れた会となりました。
まずは白井明大さんのお友達で、遠く京都から遊びに来たついでに参加してくださった、
高橋正英さん、森悠紀さん、大谷良太さんのお三人方。
なんと全員京都大学!しかもなかなかの男前揃いです。
合コンなんかではさぞかしぶいぶい言わせてるんだろうなあ、なんて邪推。
しかしみんな真面目な方のようでした。
そして久谷雉さんが中心となる同人誌「母衣」の同人で、
前回の現代詩手帖賞受賞者の永澤康太さん。
私は去年クロコダイルで行われた朗読会でお姿を一方的に拝見はしていましたが、
お会いするのは今回が初めてです。
もうひとり、作品は出されませんでしたが、会の途中から詩人のあなたひとみさんが、
参加されました。
それに加え、前回は二次会から参加してくれた小橋みきさんが合評会から参加、
残念ながら福士環さんが欠席されましたが、
他のレギュラーメンバーは勢ぞろいし、
いつもは7,8人である合評会がなんと総勢17名参加となりました。
高橋さん、森さん、大谷さん、永澤さんは、
慣れない場所であろうにもかかわらず、活発に意見を述べてくださり、
合評は熱のこもったものになりました。
いつもは私も、少ないながらも意見を述べさせてもらうのですが、
今回は人数が多い上、一回限りのゲストの方が参加ということで、
聞き役にまわりおとなしくしていました。
ということで、ゲストの方々の作品を中心に感想など。
森悠紀さんの作品は、氷のぶつかりあう音のような言葉が、
風の中を舞う光景の中を歩いていくような印象を持つ、うつくしいものでした。
難解である、冗長であるとの意見が多かったのですが、
ひとつの意味に集約していくことを目的とはしていない作品であるようで、
言葉は、響きによる印象、字面による印象によって、
ある世界を構築する可能性を持っていることを示唆していました。
ただそれを成功させるのには、ただならぬ技量と感性が必要であるようです。
森さんには、難解である、冗長であるという意見を誰にも言わせないぐらいに
この世界を完成させて欲しいです。
高橋正英さんの作品に私は、田中一村の絵を思いました。
人のこない海辺の木々、蟲たちや花々が、一日一年一生を絡み合って、
ひそかな音と共に生まれ消えていく、そんな光景が感じられ、
実際に肌をその世界に浸しているような気持ちのよい作品です。
言葉の運び、行がえから生まれるリズム、ひらがなの用い方からは涼しい風を感じられ、
私は今回の合評会で最も好きな作品でした。
高橋さんの作品は、現代詩フォーラムで読めますので、是非ご覧になってください。
永澤康太さんからは、別々の内容の詩の断片が描かれた小さな色紙が各自に配られました。
全員に違った詩がいきわたっているので、
ひとつの詩としての評は成り立ちませんでしたが、
創作というものの根本的な発生を問うものとして重要でした。
全て手書きで書かれており、脳髄からペン先に流れる瞬間的な思考がそのままに、
字の大きさ、太さ、色に反映されて現出しています。
しかし恐らく永澤さんにとってこのスタイルは通過点に過ぎず、
壮大な作品の完成へまだ踏み出したばかりであり、その初期段階に触れた感じです。
あるいはひとりの詩人が出来上がる過程を見ているのかも。
そこに目を凝らしてみると、詩を書くものとして得るものがありそうです。
もうひとりの大谷良太さんは、作品は出されなかったのですが、
つい最近詩学社から詩集「薄明行」を上梓されています。
2月21日付けの城戸朱理さんのブログにも写真入りで紹介されており、
恐らく今年あちこちで話題になるであろう詩集です。
今回初めて出された小橋みきさんの作品は、
これは私見なのですが、生きている瞬間瞬間に嫌悪を感じて、
生きた瞬間にぱっと捨て去り、すぐ次の瞬間に移行してまた捨て去り、
そうして成り立っていく日常の速度を、言葉の流れで表現した作品だと感じられました。
作品中、他人が読んでいる漫画雑誌や携帯の待ちうけ画面などに、
自分の顔を見つけて驚き逃げていく、という場面があるのですが、
自分と関係のないものを、いちいち自分と繋げてしまって焦燥するという感覚は、
わかるような気がしました。
よくある垂れ流しではないかという意見もありましたが、
私には、音楽で言えば楽譜の枠の中に必要な音が必要なぶんだけ並んでいる、
といった整然に見え、これも好きな作品でした。
レギュラーメンバーの中で特に良かったのは、手塚敦史さんの作品でした。
一行一行読み進めていくごとに、こちらの頭の中にイメージが作られていって、
最終行にそれが完成するような、まるで絵描きの作業を肩越しに眺めているような作品です。
これは私が勝手に見えたもので、作者が意図したものと全然違うかもしれませんが、
春から夏にかけての爽やかな季候の頃に、無人の教室の窓が開いていて、
カーテンが風に揺れている、といった絵が私には浮かんで見えました。
合評会が終わると、いつものように二次会。
ゲストの方々のおかげで平均年齢がぐっと若返り、更に久谷雉さんも加わって、
大盛り上がりとなりました。
特に大谷さんは弾けられて、みんなに幸福を振りまいていました。
森悠紀さんと永澤康太さんは、詩手帖の投稿欄に私と同時期に投稿していたこともあり、
私の名前を知っていてくれたのですが、小川三郎という古風な名前のためか、
「60歳ぐらいの人だと思っていた」といわれてしまいショック…。
そういう人って多いのでしょうか。
やっぱり顔写真出しとくんだったかな。
一応、三十代半ばということで、そんなに若くはないですが、そこんとこよろしく。
Feb 20, 2006
更新が滞りました。
・・・というのも先週の土、日は詩関連の集まりが連続であり、両日とも午前様となっていたのでした。
まず土曜日は、詩人和合亮一さんの主催する「ゼロネンダイプロジェクト」の懇親会。
午後一時半、東京駅にスタッフ16、7名があつまり、それから居酒屋に移動して気勢をあげました。
メンバーは和合さんを始め、主要メンバーである片野晃司さん、いとうさん、
沼谷香澄さん、及川俊哉さん、森川雅美さん、遠く福岡から松本秀文さん、
他にも岸田将幸さん、杉本真維子さん、
現代詩手帖新人投稿欄で活躍されている橘上さん、山田亮太さんなど。
2時から打ち合わせも兼ねつつ飲み始め、
大体8時過ぎまで大盛り上がりで会は続きました。
私はフリーペーパー「カ☆ピバラ」の編集として参加させてもらっています。
といっても編集の経験など全くないので、
当面は同じくカ☆ピバラ編集の竹内俊喜さんに、
おんぶに抱っこでお勉強といった状態です。
しかしその竹内さんですが、日本酒を飲んでいきなり暴走、
あまり大きな迷惑はかけていないとは思いますが、
次の日、本人に聞いたところ、当日のことは殆ど覚えていないようですので、
もしゼロプロの方でこのブログを見られている方が居られましたら、
そこのところよろしく。
会が終わってから、森川雅美さん、劇団遊戯空間文藝部の荒井純さん、
そして松本秀文さんと一緒に新宿に飲みに行きました。
お店は森川さん行きつけの、雑居ビルの中の小さな飲み屋さん。
なんでも往年の詩人の方が多く通っていた店だそうで、
店内には長谷川龍生さんなどの書がかかっていたりして、
いかにもの雰囲気のお店でした。
荒井さんに拙詩集を差し上げると、早速目を通していただいて感激。
森川雅美さんには既にお送りしていたのですが、
恐らく山のように詩集が送られてくるであろうにも関わらず、
私のものにもちゃんと目を通していて下さっていて、
「いい詩集だ」とお褒めの言葉も下さいました。
さらに私の詩を「食われるものの詩だ」という指摘を頂き、
なるほど鋭いなあと恐れ入りました。
松本秀文さんもしきりに「良かった」と言ってくださってまた恐縮。
しかし無知な私に比べて、他のお三人方の知識の広さ深さは膨大で、
新旧様々な詩人の作品や人柄に対しての話を次から次へとなさっていて、
私はほとんど聞いているだけながらも、いろいろ勉強させてもらいました。
十時半ごろにお店を出て、私は帰路の関係上その場でお暇しましたが、
あとの三人はさらにもう一軒行かれたようです。
そして次の日は、月イチ恒例のPSP合評会。
これはまた次回に書きます。
Feb 16, 2006
最近、詩誌などの読み方を少し変えてみました。
それは著者名のところを手で隠して、誰が書いた詩なのかわからないようにして読むことです。
するとあら不思議、
いままでちょっと読みづらいなあと思っていた詩誌や同人誌が、
結構するすると、満遍なく読めてしまうのです。
有名な人のものでも、そうでない人のものでも、関係なく一律に読んでいくので、
あとでまとめて名前を見たときに、「あ、これはこの人の詩だったのか」とか、
「全然注目してない人のだったけど、結構いいんだなあ」とか、感動が増えます。
私は集中力を著しく欠いた性格です。
周囲がうるさかったり何かが動いていたりすると、
それだけで本など読めなくなってしまいます。
だから電車の中や喫茶店では本を読めませんし、
自室で読むときにも、耳栓をしていなければ作品世界に入っていけません。
ちなみに今も耳栓をして、これを書いています。
そういう繊細な(?)私ですが、
しかし著者名だけでこんなに集中力を奪われていたとは、
ほとほと駄目な性格ですね。
しかし性格のことを外においても、詩作品の周りには出来るだけ、
先入観が生じるようなものはないほうがいいのではないでしょうか。
小説やノンフィクションなど、ある程度の長さを持つものであれば、
読み始めてしばらくすると著者のことなど忘れてしまうからいいのですが、
詩はどうしても作品のすぐ傍に著者名がありますから、
「これは○○という人が書いた詩だ」ということが頭の片隅に残ってしまいます。
その人の別の作品を前に読んでいたり、高名な人であったり、
あるいは聞いたこともない名前だったりすると、先入観がより強くはたらいて、
作品そのものに対峙する気持ちが濁ってしまうのではないでしょうか。
人間が出来ている人なら、そんなことは関係なく読めるのでしょうが、
心の脆弱な私は、出来れば著者名は入れないで、
何処か最後の方のページにまとめて入れておいてくれればいいのになあ、
などと自分勝手なことを考えたりしています。
そういえば詩の読み方についてもうひとつ。
これは上で言ったことに反してしまうかもしれないのですが、
詩という文学は、活字というものがそぐわないのではないかと思います。
その人の手書きの文字で読むのが自然ではないかと。
読むたびにそう思わされるのが宮沢賢治の詩です。
私が持っている白鳳社の「宮沢賢治詩集」の巻頭には、
「永訣の朝」の直筆原稿の写真が載っていますが、
凄く下手だけど味のある字で、この字でこの詩を読むと、本当に心が震えさせられます。
しかし本文の中にある同じ詩を活字で読んでも、同じ感動は得られません。
賢治のああいう詩が出来上がっていった要因のひとつには、
あの字だからこそということもあるのではないでしょうか。
特に賢治の手書きの文字が持っているリズムと、活字の持っているリズムとでは、
かなりズレがあるように思います。
賢治の読みづらい他の詩も、賢治の直筆で書かれていることを想像しながら読むと、
すんなりと心に入ってきます。
行に段をつけたり、括弧をつけたりするのも、自然に受け入れられます。
…宮沢賢治の詩が直筆原稿で読める本ってあるのでしょうか。
あと、吉増剛造さんの詩も、手書きの文字で読めたら格好いいのになあと思います。
Feb 13, 2006
今日は一瞬だけ、
雪が降りました。気がつくと、オリンピックなど始まってますね。
一応人並みに文学や絵画、音楽、映画などに接してきて、
そのうちの幾つかには没頭して来ましたが、
私がそれらに求めていたものは、常に抒情だったと思います。
幾ら世間で素晴らしいと称されているものでも、
抒情を感じられないものは好きになれませんでした。
逆に難解だとかハードとか、あるいはゴミと称されるものでも、
私が抒情を感じられたら、好きになり没頭してきました。
例えば音楽で言えば、パンクロックなどにも私は抒情をとても感じます。
あと、いま思いついたところでは、前衛いけばなの中川幸夫さんの作品は、
挑戦的かつ難解であるにも関わらず、抒情を感じられてとても好きです。
よって私が詩を書く上で、ひとつだけ条件をおくとしたら、
それはそこに抒情があるかどうかということです。
最近はぼちぼちと色々なスタイルの詩を試していたりしますが、
やはり私の軸になるものは抒情のようです。
どんなスタイルのものを書くにしろ、
これだけぶれさせなければ、
自分が自分でいられるのだと思います。
しかしもちろん抒情性は出そうと思って出せるものではなく、
自然に滲み出たものでないと偽ものであり、
だからとても難しく時間がかかるのですが。
どうやら目の前に壁が、
あるいは分かれ道があるようです。
Feb 09, 2006
今日はかなり暖かかったですね。
さて、特にネタがないので、また漫画の話を…。大人になってから、漫画を読む機会は激減しましたが、
それでもよく読んでいたのは松本大洋さんの漫画でした。
「ピンポン」や「青い春」は、
人気俳優を主役において映画にもなりましたね。
以前にも書きましたが、私が多感な時期を過ごしたのは神奈川県の藤沢市、
湘南海岸のすぐ近くです。
そして松本大洋さんも恐らく同じであるようで、
この人の漫画には、この近辺の実在の場所が多く登場します。
しかも大体20年ほど前の風景であり、
私も良く遊んだ場所がそのまま出てきます。
それだけで嬉しくなってしまいますね。
「花男」の舞台なんてまさにそのもの!
漫画なのでかなりデフォルメされていますが、
私はあの風景の中で育ちました。
だからどうだということもないですが、
もしも読む機会があったら「へえ」と思ってください。
…これでは漫画ばかり読んでいる人みたいですね。
普通の本も読んでますよ。
ぼちぼちですけど。
最近読んだ本を並べてみましょう。
「物乞う仏陀」石井光太
「葬られた夏」諸永祐司
「響きと怒り」佐野眞一
「吉本隆明「食」を語る」
「ララピポ」奥田英朗
「八つ墓村は実在する」蜂巣敦
…まあ、あんまり難しい本は読んでいないですね。
大体がノンフィクションですが、
これは最近小説に飽きているから。
上記した奥田英朗さんのは面白いですけどね。
エンターテイメント系の小説家さんですけど、
「最悪」「邪魔」は読み応え充分、
「イン・ザ・プール」「空中ブランコ」(直木賞)は、
現在も単発で雑誌に発表されている「ドクター伊良部シリーズ」の続きもので、
かなり笑えます。
あれ、やっぱり漫画に近いかな。
うーん…。
Feb 06, 2006
昨日はこの冬二度目の雪でした。
関東地方ではですけど。前も土曜日でしたね、降ったのは。
なんだか週末になると天気が悪くなるような気がします。
前回は手塚治虫さんについてちょっと書きましたが、
今回もちょっと引きずってみます。
手塚治虫と言えば、やっぱり「鉄腕アトム」でしょうが、
最近、アトムの中の1エピソードである「地上最大のロボット」を、
「YAWARA!」などで有名な浦沢直樹さんが
タイトルを「プルートウ」と改めてリメイクしています。
ビッグコミックオリジナルに連載され、単行本は現在2巻まで出ており、
なんと累計200万部突破だそうな。
大ヒットしてたんですね。
漫画雑誌から遠ざかって久しいので、全然知りませんでした。
私が小学校高学年の頃、
祖父母の家にアトムのこの巻がおいてありました。
孫が遊びに来た時に退屈しないよう漫画の一冊でも置いておこうか、
ぐらいに考えて恐らく祖母が適当に買っておいてくれたのでしょう。
しかし偶然とはいえ、そのたった一冊がこの恐ろしいエピソードの巻とは。
祖母たちはこんな重い話の巻だとは思ってもいなかったのでしょう。
知っていて買ったのだとしたら、ちょっと怖いですが。
とにかく私は遊びに行くたび繰り返し読んだので、
この話はよく覚えているのです。
私が小学生の頃(70年代後半ごろ)には、
アトムはもうすっかり時代遅れな上、
小さい子が読む漫画と思われていましたから、
少なくとも高学年にもなって読んでいたら笑われるような位置のものでした。
私もそう思っていて、だから祖母に漫画を差し出されたときも、
「アトムかよ、餓鬼じゃあるまいし」
などと罰当たりなことを思っていたのですが、
読んでみるとのめり込みました。
怖いし切ないし。
人種差別、死、恨み、傲慢…うーん。
私はアトムというと、よくある笑顔のアトムより、
うつむいたり、泣きながら懇願したりの表情を思い浮かべてしまうのですが、
これが原因でしょう。
この巻を読んだおかげで手塚治虫の作品に対する抵抗がなくなり、
ブラックジャック、ブッダ、火の鳥などの手塚作品を読むようになりました。
だから「地上最大のロボット」は、手塚作品への入り口であり、
私にとってのアトムそのものです。
昔話はこのくらいにして、リメイク版について。
オリジナルは1エピソードに過ぎないのですが、「プルートウ」は長篇にしてあるぶん、
詳細部分はかなり作りこまれていて、じっくりとストーリーを味わうことが出来ます。
「ノース2号の巻」なんて泣けますよ・・・。
面白いのはアトムやウランちゃん、お茶の水博士などのおなじみのキャラクターが、
オリジナルにこだわらず、全く違う外見で登場することです。
アトムの頭には角がないし、お茶の水博士の鼻はそれほど大きくありません。
旧アトム世代には、もうこれだけで幻滅かもしれませんが、
しかしこれが意外と違和感も嫌悪感もなく、
オリジナルを知っていても、新鮮な気持ちで読めるのです。
それぞれのキャラクターが初めて登場する場面など、
にや、としてしまいます。
あとがきを読むと、
これは手塚治虫さんのご子息である手塚眞さんの意向であるそう。
正解ではないでしょうか。
恐らく灰皿町の皆さんにはアトム世代の方も多いのではないかと思います。
いい歳して漫画なんて、などとといわず、
久しぶりに手にとって見てはいかがでしょうか。
Feb 03, 2006
あっというまに、
2006年も一ヶ月が過ぎてしまいました。まだなんにもしてないのに…。
歳をとるごとに時間が立つのが早くなります。
ふらんす堂さんのホームページで、
「詩のリレー」という企画が始まってますね。
7人の詩人さんが次々と詩をアップしていくのですが、
詩の本歌どり、ということで、
前の人の何処か一行を必ず取り入れて詩を作らなければいけないそう。
そして一発目の詩を手塚敦史さんが書いています。
とても流れの気持ちよい詩で、いろいろな語句をちりばめた作品ですから、
次の人は結構とりやすいのでは。
しかし聞いたところによると、前の人の詩が掲載されたあと、
次の人は、二週間で詩をアップしなければいけないということで、
制約があるなかで書くのは大変だと思います。
私は一ヶ月かかって一つ書けるかどうかなので、
いやいや、恐れ入ります。
最近自分の詩にマンネリを感じ始めて、困っています。
ひとつ書いて、そのときはいいのですが、
しばらくしてから読み返すと、
前にも似たようなの書いた気がするなあなんて、
するとつまんなくなって、推敲する気になれません。
スタイルを少し変えてみることも考えるのですが、
無理に変えたスタイルは、他人の仮面をつけているようで、
やっぱりすぐにつまらなくなってしまうのですね。
悶々とした夜を送っております。
書きたいテーマは幾つかあるのですが、
それをどうやって表現すれば一番いいのか、
詩でいいのか、詩だとしたらどんな形でやればいいのか。
昔、漫画家の故手塚治虫さんがテレビのインタビューで、
「ああ、本当に僕は絵が描けない。アイデアは売るほどあるんだ。
でも僕にはそれを漫画にする画力がないんだ。
どうして僕はこんなに絵が描けないんだろうなあ…」
と、顔はいつもの笑顔ながらも、非常に辛そうに語っていたのを思い出します。
あの天才にして、この苦悩…。
私がぽこぽこと躓くのは当然のことなんでしょう。
ま、気長に書いてりゃ、そのうちいいのも書けるでしょ。