Feb 16, 2006

最近、詩誌などの読み方を少し変えてみました。

それは著者名のところを手で隠して、
誰が書いた詩なのかわからないようにして読むことです。
するとあら不思議、
いままでちょっと読みづらいなあと思っていた詩誌や同人誌が、
結構するすると、満遍なく読めてしまうのです。
有名な人のものでも、そうでない人のものでも、関係なく一律に読んでいくので、
あとでまとめて名前を見たときに、「あ、これはこの人の詩だったのか」とか、
「全然注目してない人のだったけど、結構いいんだなあ」とか、感動が増えます。

私は集中力を著しく欠いた性格です。
周囲がうるさかったり何かが動いていたりすると、
それだけで本など読めなくなってしまいます。
だから電車の中や喫茶店では本を読めませんし、
自室で読むときにも、耳栓をしていなければ作品世界に入っていけません。
ちなみに今も耳栓をして、これを書いています。
そういう繊細な(?)私ですが、
しかし著者名だけでこんなに集中力を奪われていたとは、
ほとほと駄目な性格ですね。

しかし性格のことを外においても、詩作品の周りには出来るだけ、
先入観が生じるようなものはないほうがいいのではないでしょうか。
小説やノンフィクションなど、ある程度の長さを持つものであれば、
読み始めてしばらくすると著者のことなど忘れてしまうからいいのですが、
詩はどうしても作品のすぐ傍に著者名がありますから、
「これは○○という人が書いた詩だ」ということが頭の片隅に残ってしまいます。
その人の別の作品を前に読んでいたり、高名な人であったり、
あるいは聞いたこともない名前だったりすると、先入観がより強くはたらいて、
作品そのものに対峙する気持ちが濁ってしまうのではないでしょうか。
人間が出来ている人なら、そんなことは関係なく読めるのでしょうが、
心の脆弱な私は、出来れば著者名は入れないで、
何処か最後の方のページにまとめて入れておいてくれればいいのになあ、
などと自分勝手なことを考えたりしています。

そういえば詩の読み方についてもうひとつ。
これは上で言ったことに反してしまうかもしれないのですが、
詩という文学は、活字というものがそぐわないのではないかと思います。
その人の手書きの文字で読むのが自然ではないかと。
読むたびにそう思わされるのが宮沢賢治の詩です。
私が持っている白鳳社の「宮沢賢治詩集」の巻頭には、
「永訣の朝」の直筆原稿の写真が載っていますが、
凄く下手だけど味のある字で、この字でこの詩を読むと、本当に心が震えさせられます。
しかし本文の中にある同じ詩を活字で読んでも、同じ感動は得られません。
賢治のああいう詩が出来上がっていった要因のひとつには、
あの字だからこそということもあるのではないでしょうか。
特に賢治の手書きの文字が持っているリズムと、活字の持っているリズムとでは、
かなりズレがあるように思います。
賢治の読みづらい他の詩も、賢治の直筆で書かれていることを想像しながら読むと、
すんなりと心に入ってきます。
行に段をつけたり、括弧をつけたりするのも、自然に受け入れられます。
…宮沢賢治の詩が直筆原稿で読める本ってあるのでしょうか。
あと、吉増剛造さんの詩も、手書きの文字で読めたら格好いいのになあと思います。
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