May 26, 2009
片岡球子展
(海「鳴門」・1962年・57歳)
25日天気予報がはずれて快晴となった午後、日本橋高島屋8階ホールにて、昨年1月16日に103歳で逝去された日本画家の「片岡球子」の追悼展覧会「天に捧げる地上の花」を観てきました。「油絵のごとき日本画」という表現もおかしなものだと我ながら思いますが、彼女の絵画にはそのような比喩しか思い浮かばないものでした。鮮烈な色彩、大胆な絵の具の配置は「片岡球子」という画家の満身の力を込めた直球を受けるようでした。それは彼女の生き方そのものなのでしょう。
「片岡球子」は1926年女子美術専門学校日本画科高等科卒業後、横浜市尋常小学校教諭となります。絵画と教諭との両立に多忙な日々ではあっても、彼女は「私が教育を一生懸命やって子どもを教えることが、絵を一枚描くのと同じ・・・」という言葉が心に残りました。初期作品にはその教え子たちが描かれています。
(枇杷・1930年・25歳)
1930年、第17回院展にて「枇杷」が初入選しますが、それはわたくしたちが通常「日本画」と括っているような静謐で緻密な絵画でしたが、そこから彼女の絵画はどんどん溢れ出て、その括りを壊してゆくものとなっていくのでした。
(富士に献花・1990年・85歳)
そこには3つの流れがありました。1つは「富士山」シリーズ、2つ目は「面構」シリーズです。そして最後に78歳から「裸婦」に挑戦していますが、これが「片岡球子」の最後のシリーズと言えるのかもしれません。若き日には、婚約者との結婚も取り消して、一筋に絵画の道を103歳まで生きた一人の女性、危うさと強靭さを併せ持つ、あるいは頑固とも言える人生を、生き抜いた女性だったのだと思います。
《付記》
最近のわたくしは「美術館中毒」にかかってしまったようです。あのちょっと肌寒く、明るすぎない空間で、さまざまな世界を彷徨う自分が好きです。混雑が過度でないこと。観る方々の会話が静かであることは必須条件ですが、でもそれがなかなか難しいのですね。
今回はデパート内の美術館であったこと、人々を引きつけないではおかないであろう女性画家であったこと、などの条件が重なって、ほとんどが数人の徒党を組んだ女性客でしたので、同性ながらちょっと辛いものがありました。「あら、あなたのお召し物は素敵ですね。ご注文服ですか?」・・・・・・こういう会話は観おわった後のティータイムにでもやってほしいものです。それからね。どこぞで聞きかじった知識を信じこんで、ご自分の目ではなく、その知識の視点でのみ絵画を観ることもやめて欲しい。その上それをお友達に解説することも。(←暴言多謝。)
May 24, 2009
ルーブル美術館展・美の宮殿の子どもたち
(ジュシュア・レノルズ マスター・ヘア)
22日、快晴、やや強風。またまた大計画(?)をたてて、まずは乃木坂の「国立新美術館」に上記のタイトルの美術展に行きました。その後で上野の「国立西洋美術館」にて「ルーブル美術館展・17世紀ヨーロッパ絵画」を観るべく上野へ行きましたが、美術館入口は大行列で「40分待ち」ということでしたので、入場はあきらめて「図録」のみ購入してきました。この2つの企画は連携したものですが、何故このように混雑ぶりに差があるのか?不思議でした。しかし、より観たい方を観ましたのでこれでよしといたしませう。
「国立新美術館」に入場してまもなく、赤ちゃんの声を聴きました。一瞬絵画か彫刻から聴こえる幻聴かと我が耳を疑いましたが、若いお母さんが1歳前の赤ちゃんを抱いて「美の宮殿の子どもたち」を観にきていらしたのでした。この企画にふさわしい光景に出会って、思わず微笑んでしまいました。その赤ちゃんはぐずることも、大声で泣いたり、騒いだりすることもなくおかあさんの腕のなかで落ち着いていました。この光景は絵画と同じほどの思いがするのでした。
作品は200点、7章に分かれて展示されていました。
「河から救われるモーセ」、「聖母と幼いキリスト」、「授乳するイシス女性」、「愛の天使・プットー、アモール」、「子供のサテュロス」、「両親と男児」などなど「子供」をテーマとした、古代エジプト、ローマ、ギリシャ、オリエントから、19世紀あたりまでの永い時間を辿る美術の旅でした。絵画、彫刻、素描、版画、工芸品、陶器、玩具、人形、タペストリー、置物、美しい装飾を凝らした子供の棺など大小さまざまなものが展示されていました。
ルーヴル美術館唯一の《少女のミイラと棺》は日本初公開だそうです。このミイラは、19世紀にギメ美術館に入り、次いでルーヴル美術館に移管されたものです。古代から子どもたちは死と背中合わせでした。幼年期を女児の服装で育てられた男児の絵画もありましたが、これはおそらく女児のより強い生命力に願いを託したものだったのではないでしょうか?
(ピエール・パテル父 ナイル川にモーセを遺棄するヨケベト)
さらに個人的に気付いたこと。それは国立新美術館にあった「河から救われるモーセ」のタペストリーと、国立西洋美術館の図録にあった「ナイル川にモーセを遺棄するヨケベト」でした。これは「子供のいのち」という大きなテーマの1つではないでしょうか?最近「出エジプト記」に出会うことの多い日々でしたので、一層心に残るものでした。
《付記》
美術館に行って、歴史のなかで永く保存されてきた美術品を観ていますと、どうしても心をかすめる思いは拭えません。それらの「名品」は、言い換えれば「戦利品」なのですね。侵略と権力に運命を翻弄されたものでもあったということです。
May 23, 2009
手紙 ~親愛なる子供たちへ~
歌:樋口了一
詞:樋口了一・角智織
曲:樋口了一
この元の詞はポルトガル語で書かれており、作者不詳。樋口了一の友人、角智織の元に偶然届いたチェーンメールに詩が記載されていて、この詩に感銘を受けた角が詩を翻訳、樋口に見せたところ樋口も感銘を受けたため、曲の制作・発売に至ったとのことです。(某所から頂いた情報です。)以下はその歌詞です。
年老いた私がある日
今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを
理解して欲しい
私が服の上に食べ物をこぼしても
靴ひもを結び忘れても
あなたにいろんな事を教えたように
見守って欲しい
あなたと話す時同じ話を
何度も 何度も 繰り返しても
その結末をどうかさえぎらずに
うなずいて欲しい
あなたにせがまれて 繰り返し読んだ
絵本のあたたかな結末は
いつも同じでも私の心を
平和にしてくれた
悲しい事ではないんだ
消え去ってゆくように 見える私の心へと
励ましのまなざしを向けて欲しい
楽しいひと時に私が思わず
下着を濡らしてしまったり
お風呂に入るのをいやがる時には
思い出して欲しい
あなたを追い回し 何度も着替えさせたり
様々な理由をつけて
いやがるあなたとお風呂に入った
懐かしい日のことを
悲しいことではないんだ
旅立ちの前の準備をしている私に
祝福の祈りを捧げて欲しい
いずれ歯も弱り 飲み込む事さえ
出来なくなるかも知れない
足も衰えて 立ち上がる事すら
出来なくなったなら
あなたがか弱い足で立ち上がろうと
私に助けを求めたように
よろめく私に どうかあなたの
手を握らせて欲しい
私の姿を見て悲しんだり
自分が無力だと思わないで欲しい
あなたを抱きしめる力がないのを
知るのはつらい事だけど
私を理解して支えて
くれる心だけを持っていて欲しい
きっとそれだけで それだけで
私には勇気がわいてくるのです
あなたの人生の始まりに
私がしっかりと付き添ったように
私の人生の終わりに少しだけ
付き添って欲しい
あなたが生まれてくれたことで
私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変わらぬ愛を持って
笑顔で答えたい
私の子供たちへ
愛する子供たちへ
この詞を初めて知りました。ヒットしている歌なのでしょうか?これは不自然というか、無理に子供時代と老年を重ねようとしているようです。多分これを詞にした方は「老人」でもなく、「子供」でもない。どちらにも属していない(つまり立ち位置がない。)人間の考えた詞であろうと思います。あるいは翻訳の段階で何があったのか?という思いもあります。または「ポルトガル」という国の家族意識との相違があるのでしょうか?
わたくしが老親の介護の最中に思ったことは、そこには老いに逆行する可能性はないということでした。それはわたくしの努力では取り戻せるものではありませんでした。子供を育てることも困難なことは多いのですが、この困難はいつか終わるのです。子供は「育つという希望」があるのですから。しかし老親には長い視点に立って見える希望はないのだと思い知らされました。残酷な言い方をどうぞお許しください。それでも老親にかすかでも希望を抱いてもらうことが、娘としての最後の仕事だったのだと思います。
子供を育てることには、何の代償も求めるものではありません。将来その子供が親の面倒をみるのだとも考えたことなどありませんでした。わたくしがまさに狂気寸前まで老親の看護をしましたが、愛娘は「そんなに苦労しなくても、社会には福祉というものがあるでしょう。」と言いましたが、お粗末な国の福祉に委ねることは、心身ともにぎりぎりまで拒否しました。そして娘に宣言しました。「お母さんが今、あなたの祖父母にしてあげていることと、同じことをお母さんにして欲しいとあなたには望んでいません。のたれ死にで結構です。」と。娘は沈黙していました。それでも娘と息子(その頃は高校生から大学生の時代でした。)の溌剌とした若いいのちがそこに存在してくれることが、老親の看護に疲れたわたくしのひかりある唯一の存在でした。「なにもしてくれなくてもいい。老親の看護に大方の時間を費やして、母親が充分に機能していないもう1つの家庭のなかで、元気で生きていてください。」と密かに祈りましたが、子供たちは自然に生きていたことでしょう。
我が子を育てることはごくあたりまえのことで、その時間のなかで母親も育てられたのです。繰り返し子供のお願いに応えることで、母親はもう一度子供時代を自覚的に過ごすことができたのです。それは大きな収穫でした。その時間のなかで母親が育てられたことの力が、老親の看護に生かされたことだったということです。
子供を育てることと、老親を見守ることとは全く次元の違うことです。いかにもきれいに整えられた詞のように見えますが、これは「嘘」だとしか言いようがありません。
暴言多謝。
May 15, 2009
言葉の共有イメージ
過去の私事でもうしわけありませんが、第一詩集を出す時にその表題を「河辺の家」と決めたのは編集者でした。わたくしは「明けきらぬ朝」を提案したのですが、却下されました。
その理由は「河辺の家」という言葉ならば、読者がそれぞれの「河辺の家」というイメージを明らかな姿で思い描くことができる。しかしながら「明けきらぬ朝」をイメージすることは茫漠たるものです。・・・ということでした。
さらにこの表題となった「河辺の家」は、詩集になる前に一編の詩として、あるささやかな賞をいただきました。その賞の第1回目の受賞作品であったことから、「このタイトルではイメージが悪い。」という理由でこの「河辺の家」となったのです。もとのタイトルは「喪失」だったのでした。多額の賞金に目がくらんで(?)というか、わたくしの師が決めて下さったタイトルで、無事受賞したのでした。
そこから「河辺の家」は、わたくしの手を離れて1人歩きを始めたのでした。「主婦詩人」と言われ、「介護詩人」と言われ、またまた「墓場まで、戦後を引きずっていく詩人」とまで評価され、その周囲の反応には、もうわたくし自身が傍観者でした(^^)。そのさまざまな批評のなかで、今でも胸にあたためている言葉は「水の詩人」と「耳の詩人」の二つです。
May 14, 2009
詩への小路 古井由吉
この著書の初出は「るしおる」の31号(1997年6月)~56号(2005年3月)までに連載されたもので、古井由吉が、ドイツの詩人達の作品を、散歩のように訪ね歩きながら、その詩を邦訳(行を立てぬ半散文の訳←本人のお言葉です。)しながら、迷ったり、短い解説を書いたり、独り事をつぶやいたり、またテーマの似た作品を並べてみたり、そして最後はリルケの「ドゥイノ・エレギー訳文1~10」で締めくくった1冊でした。これはわたくしにとっては「詩への小路」どころではない「詩への大旅行」でありました。にもかかわらず、この大老はこともなげにこのようなことさえつぶやくのです。
『豚に真珠というところか。私などには所詮活かしようにもなかった知識を、若い頃にはあれこれ溜めこんだものだ。あんな無用の事どもを覚える閑があったのなら、今ごろはとうに失われた町の風景でも、つくづくと眺めておけばよかったのに、と後年になり悔やまれることもあったが、さらに年を重ねて、それらの知識もすっかり薄れた頃になり、その影ばかりに残ったものが、何かの機会に頼りない足取りながら、少々の案内をしてくれる。』
上記の抜粋した一文でもわかるように、壮年を過ぎ、晩年に至った著者の積み重ねた日々の豊かな収穫を、わたくしは幸運にもこの手に授かったのだという思いがしてならない。この思いはそのまま下記のヘッペルの詩に繋がってゆきました。ヘッペルは50歳の生涯でしたので、この詩はすでに晩年でしょうか?
――このような秋の日は見たこともない。あたかも人がほとんど息をつかずにいるように、大気は静まり返っている。それなのに、あちこちでざわざわと、木という木から、世にも美しい果実が落ちる。
乱さぬがよい。この自然の祭り日を。これは自然が手づからおこなう獲り入れだ。この日、枝を離れるのはすべて、穏やかな陽ざしの前で落ちるものばかりなのだ。
(ヘッペル「秋の歌」1857年・44歳)
「ドゥイノの悲歌を読みたい。」と言うわたくしに、この本を薦めてくれた夫に感謝しよう。過去にも古井由吉の本を薦めてくれたことがありましたが、この本が1番好きになりそうです。安心して心を委ねることのできる本のなんと豊かな存在よ。
古井由吉が訪ねた詩人は以下の通り。リルケ、ムージル、ブロッホ、マラルメ、ゲオルグ、ヴァレリー、ソホクレース、アイスキャロル、ダンテ、ヘルダーリン、シラー、ボードレール、ヘッペル、マイヤー、メーリケ、シュトルム、ケラー、ドロステ=ヒュルスホフ、etc・・・・・・。
* * *
以前観た映画 「約束の旅路」の最後は、主人公の若者が生き別れた母親に、やっと巡り会った時に、彼は靴をぬいで裸足で母親に歩みよるシーンでした。この映画の下敷きとなっているものが「出エジプト記」であることはどうにか理解していましたが、この最後の靴をぬぐシーンがナゾのまま日が過ぎていました。怠慢ですね。なんと、わたくしは「出エジプト記」の2章までしか読まなかったのでした。3章にあるではありませんか!以下引用です。まずはその詩の抜粋から。。。
見紛うかたもなく あなたはわたしと異なる
わたしが近づくにはモーゼに倣って
靴を脱がなくてはならぬ存在
(アンネッテ・フォン・ドロステ=ヒュルスホフ「鏡像」より)
上記の詩に対する筆者の解説によれば、『靴を脱ぐとは、旧約聖書の出エジプト記の第3章、ホレブの山で棘(しば)の燃えるその中からヤーヴェがモーゼを呼び、そして戒めた、「それより近寄ってはならん。靴を脱げ。お前のいま立っているところは聖なる地なのだ」から来る。』・・・・・・と書かれていました。あの若者の「靴を脱ぐ」行為は母への最上の敬意を表したものだったのですね。無知な自分を嘲笑してもいい。しかし、晩学ながら新しいことを知る歓びを大切にしたいと、この大老の本はしっかりと教えて下さいました。
(2005年初版第1刷・2006年初版第3刷・書肆山田刊)
May 12, 2009
日本の美術館名品展
レオナルド藤田「私の夢」・1947年・新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵
11日、新緑の快晴の午後に、上野の東京都美術館で観てきました。
日本全国の公立美術館100館が参加し、そこに所蔵された膨大なコレクションから220点を選び一堂に公開。これは公立美術館のネットワーク組織「美術館連絡協議会」の創立25周年を記念して開催された展覧会でした。西洋絵画50点、日本近・現代洋画70点、日本画50点、版画・彫刻50点の220点!!が集合していました。
川上澄生「初夏の風」1926年・栃木県立美術館蔵
しかしながらこの展覧会は正直言って疲れました。時代はほぼ第一次世界大戦以前から、第二次世界大戦後までの時代に渡り、西洋美術から日本美術まで広範囲であって、画家の人数も数えきれません。順路に沿って絵画と彫刻を見ながら、繰り返し意識の転換を要求されるようで、溺死状態の鑑賞と相成りましたが、言い替えれば浮遊(あるいは彷徨?)状態とも言えるかも知れませんね(^^)。
マルク・シャガール「オリジュヴァルの夜」1949年・高知県立美術館蔵
・・・・・・というわけで、観終わってから、地方の美術館にはあまり行ったことがなかったなぁーということに気付きました。招待券をプレゼントして下さった方にお礼を申し上げます。
May 06, 2009
ドゥイノの悲歌 ライナー・マリア・リルケ
テキストとなった邦訳書は以下の3冊です。
①ドゥイノの悲歌 手塚富雄訳(岩波文庫・1957年第1刷・1998年第27刷)
②2003年、①は岩波書店および手塚富雄ご家族の承諾のもとに、アトリエHBより再版されています。こちらでは「詳解」の代りに原文(勿論読めませぬ。)を掲載しています。詩の翻訳、解説は書き直されていません。
③詩への小路 古井由吉訳(書肆山田・2006年第1刷)
P171~P250・ドゥイノ・エレギー訳文1~10
「初出・るしおる2002年~2005年あたり?」
* * *
手塚富雄の解説によれば、リルケ(1875年~1926年)の「ドゥイノの悲歌」は1912年から書き始めて、1922年の完成までに10年の歳月が流れていますが、これは順序だてて書かれたものではありません。書き始められた場所は、「ドゥイノの悲歌」のサブタイトルとなっている「マリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス=ホーエンローニの所有より」でわかるように、この公爵夫人の招きにより、北イタリアのトリエステの付近、アドリア海に臨む断崖の上にある「ドゥイノの館」ですが、「マルテの手記」完成後の疲労から、リルケのペンは進まなかったようです。放浪を繰り返した後、「ドゥイノの館」に再び戻り、それから書き始めたようです。
その館は第1次大戦時に崩壊しました。第1次大戦中にはミュンヘンにいて、一時軍召集を受けるが、パトロンである「インゼル書店主のキッペンベルグ婦人」たちの尽力で免除されたものの、戦中戦後は空白の時期でした。戦後のリルケは主にスイスで書き継いで、書きあげてその3年後に51歳で亡くなっています。
手塚富雄の「邦訳」と「詳解・・・これは悲歌を理解するための解説書のようなものです。」「解説・・・悲歌が書き終えるまでの10年間の出来事。」は懇切丁寧でありました。
それに対して古井由吉は難物を邦訳することへの恐れを「試訳」という言葉で表現しています。また6韻律1行と5韻律1行という一対を単位とした原文の詩の組み立ての邦訳の不可能性をはっきりと語ってもいました。「ドゥイノ・エレギー訳文1~10」として、その10章の前後には、10数行の訳者としての困難や独り言を記しています。またリルケの言葉の持つ激しさを、時としてブレーキをかけるようにして配慮しながら、邦訳しているようにも思えました。
「ドゥイノの悲歌」は、「天使」への呼びかけから始まります。この「天使」はどうやら神から派遣された者ではなくて、さまざまな人々への呼びかけとして、その総称としての「天使」ではないだろうかと思います。リルケの「書簡」にはこのような言葉が記されています。「此岸(この世)もなければ彼岸(あの世)もありません。あるのは大きな統一体です。そこに私たちを凌駕する存在、《天使》は住まっているのです。」と・・・。
また、最終行(第10の悲歌)を並列させて書いてみますと、この2人の翻訳者としての個性が浮かびあがるかもしれません。
そしてわれわれは、上昇する幸福を思うわれわれは、おそらく心を揺り動かされ、そのあまり戸惑うばかりになるだろう――幸福な者は下降する、と悟った時には。
(古井由吉訳)
そしてわれわれ、昇る幸福に思いをはせる
ものたちは、ほとんど驚愕にちかい
感動をおぼえるであろう、
降りくだる幸福(さち)のあることを知るときに。
(手塚富雄訳)
古井由吉は邦訳において行変え詩の形になることをせずに、散文としたようですが、手塚富雄は、もしかしたら原文の韻律を行変えすることによって、それに近づけようとしたのではないか?という推測をしてしまいました。この「ドゥイノの悲歌」を邦訳された翻訳者は他にももちろんいらっしゃいます。そのそれぞれの翻訳者は、古井由吉の書かれたように「難物との言葉の闘い」であったのではないでしょうか?
いずれにしましても10年の歳月を費やしたこのリルケの詩集と、これを支えた人々がいた時代だったということは、驚愕するばかりです。「詩人」という呼称が確かにあった時代でした。
《追記》
「マリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス=ホーエンローニの所有より」というところを、わたくしは「サブタイトル」と書きましたが、コメントして下さった方より「献辞」であるというご指摘を頂きました。ありがとうございました。