Mar 27, 2009
忘れられし王妃―イラン革命30年、ふたりの女性の人生の空白
BSハイビジョン特集(3月24日(火) 午後8:00~9:30)
1979年のイラン革命から30年後。革命によって人生の大転換を迫られた、2人の女性の対話を追ったドキュメンタリー番組でした。1人は、イランのパーレビ国王の3番目の妻であり、国王と共に革命によって追放され、さまざまな国を彷徨い、国王を亡くし、今はイギリスに亡命中の「元王妃ファラ・パーレビ」。もう1人はこのドキュメンタリーの監督であり、スウェーデンに亡命中の、イラン人女性の「ナヒード・ペーション」。イギリスにおいてさまざまな場面での二人の対話を追ったものでした。一旦は中断し、これ以上の対話は無理ではないか?と思いつつ観ていましたが、再開され二人の対話は続き、監督はねばり強く「元王妃」と行動を共にする。しかし、二人が会うことの決定権はすべて「元王妃」にあったことを書いておこう。
監督は30年前、共産党員として革命に加わり「王妃」たちを追放した側にいました。だがこの革命の実態はどうだったのか?この革命の指導者「アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー・1902年~1989年」は、イランのシーア派(十二イマーム派)の精神的リーダーであり、1979年にイラン国王を追放したイラン革命の指導者である。イランの現在の政体、イスラム共和制は彼によって打ち立てられた。この宗教色の濃厚なやり方はあまりにも残酷なことであった。だからと言って「王政」が正しかったとも言ってはならないことだろう。
「ぺーション監督」は、学生の頃、共産主義信奉者で、学生運動にも参加していました。彼女の17歳と15歳の弟は、革命後に、捕らえられ、17歳の弟は、身代金を用意している間に処刑され、遺体を引き取りたいのなら、お金を払えと言われた。 「ぺーション監督」は、母親の絨毯織りで生計を立てる貧しい家庭に育った。それに対して「元王妃ファラ・パーレビ」の生活には貧しさは微塵もなかった。「生涯愛した方は国王のみ。」という矜持はたしかに美談だが、貧しさの渦中においてなら人間はどこまで矜持を保ち続けることができただろうか?フランスの著名なデザイナーのショーに招かれる「元王妃」には、専用の送迎の飛行機が用意されるという身分なのですからね。イラン革命30年後の「2人の女性の対話」として、どこか腑に落ちないものがある。「監督」は「元王妃」が革命を本当はどう総括しているかについては迫りきっていない。次第に「元王妃」を老いをみつめる「ひとりの女性」として描き始めるのだった。。。
* * *
ふと、ある友人の言葉を思い出す。「文学者が国会に出て意見を述べなくてはならない政治というものは、まだ未熟な政治ではないのか?」。これはかつてアフリカのノーベル賞作家「ウォレ・ショインカ」が、国会で弁舌したという事実への言及であったのだが。。。
これは、フセインの宗教に結びつけた政治と権力とを前面に出した、無謀で残酷な革命後の政治の大きな誤りにも言えることではないか?異教徒の存在は排除されるという大きな犠牲が生まれるのですから。。。「ウォレ・ショインカ」は、「ヨルバ神話」「ギリシャ神話」からアフリカ文化の根源を見つめながら、キリスト教との宗教共存を望んだ文学者だった。
書き終えて、自らあきれる。手に負えないような大きな問題を無知を承知でよくも書くものですねぇ・・・・・・と。お粗末さまでした(^^)。
Mar 20, 2009
ミロ展
「私は物たちの神秘の生命に固執することに決めました、(…)そして表意文字のような暗号へ到達するために、少しずつ外側の現実を取り除いていきたいのです。」 (ジョアン・ミロ)(女と鳥たち・1968年)
「大丸ミュージアム・東京」で観てまいりました。作品数は約70点ほどで、サイズも小さな作品が多く、静かでこじんまりとした「ジョアン・ミロ」のみの油彩画と彫刻の美術展でした。クスリと笑ってしまうような絵画、色彩の鮮やかさ、お散歩するような楽しい展覧会でした。
以下の2点はちょっと楽しい。この画家は女性の悪口を表現する時が、一番鮮明な絵画になるのではないかしらん(^^)。。。
(ガミガミ女と月・1973年)
(間抜け女・1969年)
「ジョアン・ミロ・1893年~1983年」は20世紀のスペインの画家。カタルーニャ地方のバルセロナ出身。(ガウディ、ダリも同じく。)フランコ体制下の時代にあって、スペインではカスティーリャ語以外の言語は公的には禁止されていたので、「ホアン・ミロ」と表記されることがありましたが、独裁者フランコの死去(1975年)以降、地方語は復権され、現在ではカタルーニャ語の原音を尊重して「ジョアン・ミロ」または「ジュアン・ミロ」と表記されるようになりました。
ミロは1912年、バルセロナの美術学校に入学した。1919年にはパリに出て、ピカソやダダといった芸術家とも知り合い、また、シュルレアリスム運動の主唱者であるアンドレ・ブルトンと出会う。さらにマグリットやダリなどにも出会う。ミロは「シュルレアリスト」のグループに迎え入れられることとなったが、ミロは「画家」という狭い世界を嫌い、パリでは作家の「ヘミングウェイ」や「ヘンリー・ミラー」などとも交流があった。
今回の展示作品は、サイズの小さなものばかりでしたが、大きな作品を晩年にはたくさん手掛けています。たとえば1970年大阪万国博覧会のガス館に展示された陶板壁画『無垢の笑い』など。
Mar 13, 2009
アジアとヨーロッパの肖像・その2
(これらはすべて「ペリー」です。)
この美術展はASEMUS(アジア・ヨーロッパ・ミュージアム・ネットワーク=アジア、ヨーロッパの18カ国の博物館・美術館が共同で作り上げた組織。)の第1回国際巡回展です。さらに、この美術展は「神奈川開港・開国150周年メモリアルイベント」ということで、「神奈川県立近代美術館・葉山」と「神奈川県立歴史博物館」の2箇所で開催されたものです。美術品が語りかけてくるものは「アジア」と「ヨーロッパ」の文化であり、日本の開国以前と以後とのおおきな歴史の変化と流れでした。
アジアとヨーロッパの人々は、自国の人間をどのようにとらえ、他国の人間をお互いにどのように想像し、出会い、受け入れてきたのか?ということを、巨匠たちの作品(多くの肖像画、彫刻、風俗画、写真、屏風、陶磁器、地図、映像、人形)のなかに、あるいは現代美術の作家たちの挑戦のなかに辿っていく展覧会でした。人と人との出会いの記憶と印象、違和感、差別感、誤解などなど、異国の人間同士のさまざまな視点と、その認識のうつりかわりなどを、約200点の作品の流れのなかに見つめてゆく展覧会でした。 展開は以下のように、代表的な作品を。
第1章:それぞれの肖像
・レンブラント・自画像
・東洲斎写楽・三代目佐野川市松の祇園町の白人おなよ(←この白人は江戸時代の私娼の異称)
第2章:接触以前―想像された他者
・寺島良安「和漢三才図会(巻4・外夷人物・部分)
(中国の書物にもとづいて描いた異人像です。)
第3章:接触以降―自己の手法で描く
・伊東マンショ肖像画・作者不詳
第4章:近代の目―他者の手法を取り入れる
・マンドリンを持つ少女・百武兼行(1879年)
第5章:現代における自己と他者(ここは県立近代美術館のみの展示です。)
・コスロウ・ハサンダデ・テロリスト・コスロウ
・ジュリアン・オピー・ファイルを持つヒロフミ
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肌色の違い、髪の色の違い、鼻の高さ、背丈、言葉、風習、宗教、権力者の有り様などなど、海を越えた文化の出会いは、人間の永い歴史のなかで、徐々に侵蝕し、反発し、融合しながら、なお今も世界は決して理解しあえたわけではないでしょう。そんなことを思いながら、海の見える町を彷徨った一日でした。
Mar 12, 2009
アジアとヨーロッパの肖像・その1
この美術展は「神奈川開港・開国150周年メモリアルイベント」ということで、「神奈川県立近代美術館・葉山」と「神奈川県立歴史博物館」の2箇所で開催されたものです。前者は「逗子駅」からさらにバスで20分、後者は桜木町から歩いて10分、こんなに遠いところまで行って、しかも2箇所観るのはしんどい。それに予定していた日がことごとく雨にみまわれて、ほとんどあきらめていたのでした。しかし沼津漁港まで日帰りができた快挙(?)に勇気づけられて、いただいた招待券を無駄にすることなく、晴れた日を選んで、どうやら決行いたしました。この美術展には正直に申し上げますと、大きな期待を抱いてはいませんでしたが、これは浅はかな判断でした。美術品の充実とそれが語りかけてくる「アジア」と「ヨーロッパ」の文化の開国以前と以後とのおおきな歴史の流れが観られました。
それにつきましては次回書くことにいたします。・・・というのは、この「神奈川県立近代美術館・葉山」と「神奈川県立歴史博物館」の周囲の風景、建物の歴史なども大きな収穫だったからでした。すでにご存知の方には新鮮ではないでしょうが、わたくしには予想外の収穫となりました。
(神奈川県立近代美術館・葉山です。建物のうしろは海です。)
(神奈川県立歴史博物館です。)
この建物は大空襲を免れ、大震災にも壊れることのなかった古い建物です。この建物に沿って「馬車道」があります。幕末に幕府は神奈川(横浜)を開港させ、「吉田橋」に関門を設け、それに開港場側から至る道が馬車道となりました。
Mar 08, 2009
パンセ・463 パスカル
この「ふくろう日記」の2月22日に書いた「プロヴァンシアル(田舎の友への手紙)「第16の手紙」・パスカル」と関連づけて、この「パンセ・463」について、もう少しだけ記しておきたいことがあります。みずからの知識の浅いことをしっかりと(^^)自覚しつつ、我が脳髄にふつふつとたまってしまったことを書いてみます。まずは「パンセ・463」を・・・・・・
〔イエス・キリストなしに神を持つ哲学者たちに対して〕
哲学者たち。
彼らは、神だけが、愛され賛美されるに値するということを信じながら、自分たちが人から愛され賛美されることを願った。彼らは自分の堕落を知らない。もし彼らが神を愛しあがめる感情に満ちているとみずから感じ、そこに彼らの主要な喜びを見いだすならば、自分を善だと思うがよい。それは結構なことだ。しかし、もし彼らがそれに嫌悪をおぼえ、人々の尊敬の的になりたいという意向しか持たないとしたら、また十全な理想として彼らのなしうる唯一のことが、人々を強制せずに彼らを愛せしめ、それによって人々を幸福にしようとするのであるならば、わたしはそのような理想を恐るべきものだと言うであろう。なんたることか。彼らは神を知っていて、しかも神を愛することだけを願わず、彼ら自身にとどまってくれることを願ったのだ。彼らは人々の気ままな幸福の対象になることを望んだのだ。
・・・・・・「パスカル・1623~1662」のこの哲学者たちへの呼びかけは、「プロヴァンシアル」に書かれた「イエズス会士」との論争と同じ流れのなかにあるのではないだろうか?また、わたくしの漠然とした小さな気付きですが、人間の永い歴史は、言い換えれば、宗教と権力と富との永い闘いの歴史でもあるのですね。「人間は考える葦である。」というあの名言にあるように、未知の宇宙よりも、人間の小さな愛の業の方が偉大であるはずですが、「物体・精神・愛」という秩序の三段階が整えられた時代はなかったのではないのか?
聖書もろくに読んではいませんが(汗。。。)、おそらくそれは口承から始まり、文字ある時代を迎えて、羊皮紙に書かれ、やがて紙に書かれ、一冊の「聖書」となり、その文脈も時代のなかで、推敲され、訂正され、差別語を隠されて・・・と何度も何度も書き直された結果が今日に至っているわけでして、これについてはわたくしの手に負えるようなものではないでしょうね。 しかし暴言を許されるならば、キリストの予想だにもしなかった、この宗教を媒体として常に権力と富がからみ、原始宗教、民族宗教などよりも世界的宗教となっていった歴史とは一体何だったのでしょうか?
急いで書かなければならなかったので、中途半端ですみませぬ(^^)。
*引用は「中公文庫・パンセ・前田陽一&由木康訳」より。