Mar 08, 2009
パンセ・463 パスカル
この「ふくろう日記」の2月22日に書いた「プロヴァンシアル(田舎の友への手紙)「第16の手紙」・パスカル」と関連づけて、この「パンセ・463」について、もう少しだけ記しておきたいことがあります。みずからの知識の浅いことをしっかりと(^^)自覚しつつ、我が脳髄にふつふつとたまってしまったことを書いてみます。まずは「パンセ・463」を・・・・・・
〔イエス・キリストなしに神を持つ哲学者たちに対して〕
哲学者たち。
彼らは、神だけが、愛され賛美されるに値するということを信じながら、自分たちが人から愛され賛美されることを願った。彼らは自分の堕落を知らない。もし彼らが神を愛しあがめる感情に満ちているとみずから感じ、そこに彼らの主要な喜びを見いだすならば、自分を善だと思うがよい。それは結構なことだ。しかし、もし彼らがそれに嫌悪をおぼえ、人々の尊敬の的になりたいという意向しか持たないとしたら、また十全な理想として彼らのなしうる唯一のことが、人々を強制せずに彼らを愛せしめ、それによって人々を幸福にしようとするのであるならば、わたしはそのような理想を恐るべきものだと言うであろう。なんたることか。彼らは神を知っていて、しかも神を愛することだけを願わず、彼ら自身にとどまってくれることを願ったのだ。彼らは人々の気ままな幸福の対象になることを望んだのだ。
・・・・・・「パスカル・1623~1662」のこの哲学者たちへの呼びかけは、「プロヴァンシアル」に書かれた「イエズス会士」との論争と同じ流れのなかにあるのではないだろうか?また、わたくしの漠然とした小さな気付きですが、人間の永い歴史は、言い換えれば、宗教と権力と富との永い闘いの歴史でもあるのですね。「人間は考える葦である。」というあの名言にあるように、未知の宇宙よりも、人間の小さな愛の業の方が偉大であるはずですが、「物体・精神・愛」という秩序の三段階が整えられた時代はなかったのではないのか?
聖書もろくに読んではいませんが(汗。。。)、おそらくそれは口承から始まり、文字ある時代を迎えて、羊皮紙に書かれ、やがて紙に書かれ、一冊の「聖書」となり、その文脈も時代のなかで、推敲され、訂正され、差別語を隠されて・・・と何度も何度も書き直された結果が今日に至っているわけでして、これについてはわたくしの手に負えるようなものではないでしょうね。 しかし暴言を許されるならば、キリストの予想だにもしなかった、この宗教を媒体として常に権力と富がからみ、原始宗教、民族宗教などよりも世界的宗教となっていった歴史とは一体何だったのでしょうか?
急いで書かなければならなかったので、中途半端ですみませぬ(^^)。
*引用は「中公文庫・パンセ・前田陽一&由木康訳」より。
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