Oct 28, 2007
ホルトの木の下で 堀文子
これは画家「堀文子」の自伝です。堀文子は一九一八年(大正七年)東京生まれ、現在八九歳になられました。ご両親ともに中央大学で西洋史を教えていらしたという環境のもと、六人兄姉の四番目の子供、待ち焦がれていたすぐ上の兄の誕生の後に生まれた娘ということで、堀文子には期待されずに生まれたという感覚があったようです。
わたくしは三人姉妹の三女、父親を絶望させた娘です。この感覚は生涯ぬぐいきれるものではありませんが「恨み」というものではないのです。それが「家族」というものに対して、生まれついてからずっと客観的であり続けるという感性も同時に育てる、豊かな土壌となるからです。まず思春期に一旦親を捨てる。独立する。自由に生きることを無茶を承知でやる。孤独と向き合う。そんなことを行動に移すエネルギーともなったのですから。
堀文子はわたくしの亡母より五歳年下です。ほぼ同じ時代を生きています。と言うことは「戦争」を見ている。「いのち」というもののはかなさや哀しみは、これを見た者にだけある視点が育てられます。たくましい生き方もからだに覚えさせられる世代でもありました。
さらに、一九四六年、二八歳の時に結婚した病弱な外交官の夫との生活は、一九六〇年の夫の病死で終わる。夫の箕輪三郎は妻の画家としての活動の理解者でありました。と同時に戦争の結末には自責の念が拭えず、学者の道を目指し、生涯最後の仕事は、岩波書店の「平和への訴え・エラスムス著・箕輪三郎訳」でした。この訳書への堀文子の協力も多大なものだったようです。
また堀文子は大切な画友「柴田安子」の夭逝という悲しみにも出会っています。それは結婚の前年のことでした。
堀文子の画家としての生き方は旺盛で、自由で、その足跡を追うだけで、わたくしは緊張いたしました。女子美術専門学校を卒業後、東京帝国大学の農業部作物学教室で、拡大鏡を使っての農作物の記録の仕事を皮切りに、彼女は絵本、挿絵、日本画を旺盛に描き続け、日本に留まらず、世界を歩いたという行動力から生まれたものなのでした。「留まらない。」ということが堀文子の生涯を貫いているのでしょう。
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「ホルトの木」とは一説には「ポルトガルの木」という意味もありますが、ここでは「オリーブ」の別称です。八十歳半ばの堀文子の向かいの屋敷には樹齢五〇〇年の「ホルトの木」がありましたが、この屋敷が売りに出される折にこの巨木が切り倒されることになり、その反対運動にことごとく失敗したあげく、堀文子自身がこの屋敷ごと買うことになったのです。これに大半の彼女の働いた分は費やされ、そこが彼女の最後のアトリエとなっています。
(二〇〇七年九月・幻戯書房刊)
Oct 26, 2007
小さな中国のお針子
監督・原作・脚本 ダイ・シージエ
プロデューサー リズ・ファヨル
「ダイ・シージエ」は一九五四年、中国福建省生まれ。両親は医者。一九七一年から一九七四年まで、「下放政策」により四川省の西康の山岳地帯で再教育を受ける。解放の後、高校に戻る。毛沢東の死後、中国の大学で美術史を学び、一九八四年に中国の給費学生としてフランスに渡り、パリ大学に留学し、美術史を専攻する。その後「パリ映画高等学院」に入学し、数本の短編を中国で撮る。
初の長編作品『中国、わがいたみ』は一九八九年に数々の高い評価を受ける。ほかの長編作品に「タン、11番目の子」と「月を食べる人」などがある。
この映画『小さな中国のお針子』は自ら書いた初小説「バルザックと小さな中国のお針子」の映画化である。自伝的な要素もある小説は、フランスのガリマール社から出版され、約四十万部のベストセラーを記録し、日本では早川書房刊。世界三十ヶ国で翻訳された。中国ではいまだ出版されていない。
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一九七一年、中国の文化大革命の最中、医者を親に持つ十七歳のマーと十八歳のルオは、「下放政策」のため、チベットとの国境沿いにある、手つかずの自然とけわしい山々がそびえる村に送られる。雲に至る石段を上がると、小さな村と湖がひっそりと姿を現わす。村人は読み書きを知らなかった。二人の再教育生活は、屈辱的な仕事や、つらい畑仕事、未開の鉱山の過酷な作業だった。
ある日二人は、老仕立て屋と美しい孫娘のお針子に出会う。ルオはたちまちお針子に恋をする。そして文盲のお針子に物語を語り聞かせる。彼女が一番気にいった作家が「バルザック」だった。
お針子は「バルザック」の小説を通して「自由」という意識に目覚めていく。「バルザック」は彼女に四川省の山々の向こう側には、もっと自由な大地が拓けていると思わせるのだった。
そして二七年後、すでに有名なヴァイオリニストとなったマーは、パリで生活している。ある日、あの村が三峡ダム建設のため、まもなく水に沈むというニュースを知る。思い出の地へ向かうマー。お針子の行方はわからない。次にマーは上海へ行き、現在では名医として知られるルオを訪ねる。青春時代の思い出を語りあう二人。
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この「下放政策」には、イスラエルの「キブツ」も同時に思い出す。また日本のかつての戦時下では、軍人を除いて男子は徴兵された。入隊すればかかつての社会的地位は平等となる。下層階級にあった者が上流階級の人間を部下にできる社会がここで構成される。当然ながら「下放政策」に似た状況があったはずだ。人間はそれほどにおろかしい。そんなことも思う。
人間に貧富の差ができる社会はおそらく間違っている。しかし、精神の貧富の差は一体どのように向き合えばいいのだろうか?そんな思いが心をよぎる。
大分以前に観た映画ですが「芙蓉鎮」があります。この映画も忘れずにいたい。
Oct 22, 2007
フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展
二十一日午後、六本木の国立新美術館で、「『フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展』を観てきました。この美術館は今の日本では一番新しい美術館でしょう。建物の規模も大きく、警戒も厳重なところでした。「国威の建造物?」という説も(^^)。十七世紀オランダの市民や農民の生活を描いた「風俗画」というよりも「日常画」と言った方がふさわしいのではないか?と思われる絵画がまとめてみられる展覧会でした。全体の絵画のサイズが小さいのも特徴でしたね。
これは、オランダという国は庶民には比較的豊かな生活がありましたので、これらの絵画は特権階級ではなく、庶民が買えるほどの絵画だったということもありますね。そんなことを思いながら、それぞれの絵画を観てゆきますと、何故か懐かしい思いがします。「針仕事」「糸繰り」「料理」「授乳」「酒場」などなど、身近な自分のからだが体験した風景のようでした。
フェルメールは「牛乳を注ぐ女」一点だけの展示でしたので、ちょっと淋しい。でもどのような絵の具が使われたのでしょうか?工夫された証明のなかで、画面の金色の粉のような光沢がきれいでした。
これらの絵を観ながら、しきりに思い出していたのは、小田実の「中流の復興」に書いてあった一文でした。ここに再掲しておきます。
『私は世界のいろいろな国に行くたびに、外国人、とくに差別されたり抑圧されたりしている外国人がその国をいかに受け止めているかが、一番大きな指標になると思って、オランダでも、肌の黒い人など、普通ならすぐに差別されたり抑圧されたりする対象となる外国人たちに聞いてみるのです。すると、多くの人が、この国が一番いい国じゃないかと、と言います。(中略)
理由は一つあります。まずオランダの人たちが、私の言う中流の暮らしの土台を形成していることにあります。経済的な問題を解決せずに政治的な問題をせっかちにやると、強制力を伴ってかつての社会主義のようにもなるけれど、普通に人間が中流の暮らしを形成していれば、生活にゆとりができて、その上で政治的な問題が解決できるようになるでしょう。』
Oct 15, 2007
エディット・ピアフ 愛の賛歌
監督 脚本 脚色 オリヴィエ・ダアン
主演 マリオン・コティヤール
大分以前のことですが、古い「エディット・ピアフ」の映画を観た記憶があります。内容も配役もほとんど忘れているのですが、たったワン・シーンだけ鮮烈に覚えています。それはまだ無名の「エディット・ピアフ」が、幼い子供をベンチに置いてから、夜の公園のような場所でたった一人で歌いだすシーンでした。新たに制作されたこの映画を観たあとで、この鮮明な記憶が彼女の生い立ちと生涯を象徴するようなシーンであったのではないかと気付きました。
「エディット・ピアフ」の母親も同じように、歌うことに憑かれた女性で、幼いピアフの世話をしないために父親の実家である娼館に預けられる。そこでは祖母と娼婦たちに愛され、束の間の幸福な時間であったのかもしれない。(そうしてピアフはどうやら生き延びて大人になるのですが、ピアフの少女時代と同じようだった彼女の娘はピアフが路上で歌っている間に病死しています。)
ピアフはその後、また大道芸人の父親に連れ出されます。小さな彼女を愛していた娼婦は泣きながら引き止めますが、とても切ないシーンでした。売れない芸人の父親について歩くなかで、小さな彼女は自分の歌声が父親の大道芸よりも「お金」をいただけることに気付くのでした。ここから「エディット・ピアフ」としての人生はすでに始まっていましたね。
主役を演じた女優「マリオン・コティヤール」は十代後半から、晩年の四七歳までを演じるのですが、その演技力は見事でした。物語は時間の急速な移動と展開の繰り返し、そして「麻薬」「お酒」「恋人の死」などなど、心やすまる間のないシナリオ展開で、ほっとする間がなく、とても疲れました。四七年の人生はたしかに短い。いつも孤独と貧しさとの背中合わせの人生にはおだやかな時間は稀なことだったではありましょうが。。。
晩年の背中のまるくなった「エディット・ピアフ」は海辺でこう語りました。
「愛しなさい。」「愛しなさい。」「愛しなさい。」と。。。
【おまけ】
この映画のなかの「エディット・ピアフ」に、ちょっとわたくしが似ていると言った友人がいます。映画を観たわけではなくオフィシャル・サイトを見ただけのようですが、晩年の「エディット・ピアフ」に似ているのかな???まぁ。どっちでもいいけど、上の写真をアップしておきます(^^)。それにしても久しぶりに映画を観ました。上野で「ムンク」を観る予定だったのですが、普段なら月曜日休館ですが、祝日月曜日の翌日の火曜日は休館だったのでした。つまり「ムンク」にフラレての、怪我の功名というところ。。。
Oct 07, 2007
「悲惨」をどのように表現したらよいのだろう?
まず考えられることは「象徴性」か?「具体性」か?ということの二極性として。。。
九月末に広島にお住まいの詩人Kさんから、詩誌を頂く機会に恵まれました。今号の「あとがきにかえて」を拝読しました時に、わたくし自身の詩作の時、あるいは他者の作品をある必然性から選択しなければならない時に、わたくしをいつでも揺らしている正体不明なものに「言葉」が与えられたような気持がいたしました。それはこのような言葉でした。
『もしこの充分な説明がなかったなら、果たしてこれほどの感銘を受けるだろうかと、余計な事を思っていました。具体的な説明をどう抑えると良いのか、詩を書く時、私には分からないのです。』
これは、広島の被爆者、ベトナム、コソボ、アフガニスタンなどの人々の絶望から立ち上がり、生き抜く姿を撮った、ある写真展を丁寧にご覧になった折のKさんのご感想だったようです。
その後、わたくしは十月四日午後、東京国立近代美術館で開催されている「平山郁夫・祈りの旅路」を観る機会に恵まれました。こうした偶然が、長い間答えを見出せないままに抱きつづけているわたくしの詩歌への読み手として、あるいは書き手としての「内面の揺れ」に答えが出たわけではありません。しかし「揺れつづける。」ままでいいということまでは、どうやら辿りついた気持です。
平山郁夫は被爆者です。その苦しみを「人間としての釈迦」の苦行に重ね、さらに平山は「シルクロードの旅」へと絵画の世界を広げてゆきます。この心の長い道のりから生まれた作品は静謐であり、むしろうつくしいものでした。
ここで最初に書いた「二極性」に戻ります。平山郁夫が唯一「原爆」をテーマとして描いた「広島生変図」と丸木伊里&俊ご夫妻の描いた「原爆の図」との違いです。
あるいは詩人石原吉郎の「葬式列車」と鳴海英吉の「夢」は、それぞれのシベリア抑留体験の詩における表現法の違いなどを考えるだけでも、わたくしは揺れます。本当にわからないのです。でも、おぼろげにわたくしを導く言葉として、これを記しておきます。
『私は告発しない。ただ自分の〈位置〉に立つ。 石原吉郎』