Oct 07, 2007
「悲惨」をどのように表現したらよいのだろう?
まず考えられることは「象徴性」か?「具体性」か?ということの二極性として。。。
九月末に広島にお住まいの詩人Kさんから、詩誌を頂く機会に恵まれました。今号の「あとがきにかえて」を拝読しました時に、わたくし自身の詩作の時、あるいは他者の作品をある必然性から選択しなければならない時に、わたくしをいつでも揺らしている正体不明なものに「言葉」が与えられたような気持がいたしました。それはこのような言葉でした。
『もしこの充分な説明がなかったなら、果たしてこれほどの感銘を受けるだろうかと、余計な事を思っていました。具体的な説明をどう抑えると良いのか、詩を書く時、私には分からないのです。』
これは、広島の被爆者、ベトナム、コソボ、アフガニスタンなどの人々の絶望から立ち上がり、生き抜く姿を撮った、ある写真展を丁寧にご覧になった折のKさんのご感想だったようです。
その後、わたくしは十月四日午後、東京国立近代美術館で開催されている「平山郁夫・祈りの旅路」を観る機会に恵まれました。こうした偶然が、長い間答えを見出せないままに抱きつづけているわたくしの詩歌への読み手として、あるいは書き手としての「内面の揺れ」に答えが出たわけではありません。しかし「揺れつづける。」ままでいいということまでは、どうやら辿りついた気持です。
平山郁夫は被爆者です。その苦しみを「人間としての釈迦」の苦行に重ね、さらに平山は「シルクロードの旅」へと絵画の世界を広げてゆきます。この心の長い道のりから生まれた作品は静謐であり、むしろうつくしいものでした。
ここで最初に書いた「二極性」に戻ります。平山郁夫が唯一「原爆」をテーマとして描いた「広島生変図」と丸木伊里&俊ご夫妻の描いた「原爆の図」との違いです。
あるいは詩人石原吉郎の「葬式列車」と鳴海英吉の「夢」は、それぞれのシベリア抑留体験の詩における表現法の違いなどを考えるだけでも、わたくしは揺れます。本当にわからないのです。でも、おぼろげにわたくしを導く言葉として、これを記しておきます。
『私は告発しない。ただ自分の〈位置〉に立つ。 石原吉郎』
平山郁夫
■高田さんは、ご存知かどうか。あのマザコン安倍晋三直属の「美しい国づくり」企画会議の座長が平山郁夫でした。今は、ひっそり店じまいしていますが。率直に言って、こんなものを引き受ける感受性の芸術家はダメなんじゃないでしょうか。平山さんの絵はあまり見ていませんし、お人柄も存じ上げませんが、この一点だけで、感性を疑いたくなりますね。
勉強になりました
冬月さんの平山評は避けて通らせて頂くので、ご免なさい。
象徴性か具体性かのお話しは、「創作」に携わる方を離れても、つまり私たち平凡な人間の日常に於いても、役に立つお話しでした。「生活態度」という言葉が最も適切かどうかは分りませんが、その指針としても。
ここで、バカを言います。バスを待つ列に、割り込んでくる人が居ても「告発しないで、自分の位置に立」っている、心構えと言うより、心境。(・_・;)
矛盾
冬月さん。
平山郁夫が座長だったということは知りませんでしたし、お人柄も知りません。でも彼の絵はとても好きです。美しいと思います。
「感性を疑う。」という経験は身近に何度もわたくしは経験しています。「文字」の上では優れた才能を持っていらっしゃると思っていた詩人から、信じられないような酷い言葉が「生の声」として出てきて、わたくしは何度辛い思いをしたことか。。。そういう矛盾を人間というものは抱えているのだと思うしかありません。「文字」と「生の声」の落差が大きければ大きいほど、その詩人は苦しいだろうと思うのです。画家にも同じことが言えるのではないかしら?
リベルさん。
「バカ」のふりをしても、バレていますよ(^^)。
「創作」と「生活態度」とは、矛盾を抱えながらも、切り離せないものかもしれませんね。
■高田さん、この問題は難しいですね。ただ、ぼくは、プライベートな領域での矛盾と公的な領域にまで関わってくる矛盾では、社会的な意味合いが違うように思うんですよ。たとえば、ハイデッガーが、そのいい例ですが、ハイデッガーが一時期ナチスに協力した事例は、今でも欧州の論争の火種だそうです。ハイデッガーの哲学にそれほど詳しくないんですけど、ナチスの思想とその哲学はどこか内在的に共鳴するものがったのではないか、と思っています。ナチスの思想も、登場した当時は、多くの知識人に歓迎され、それなりに良きものを持っていたんです。一概に、「ホロコースト」だけではくくれない。平山郁夫の絵画の美しさと「美しい国づくり」も、どこか内在的につながるものがあるんじゃないでしょうか。ぼくは、安倍内閣の「美しい国」のスローガンは、完全な欺瞞だったと思っています。なぜなら、国の美しさは、上から、統治して導くものじゃないからです。
国は、実質的な美しさのための社会的条件・環境を作るべきだったんです。一方で、格差社会を生み、年間3万人以上も自殺者を出し、地方の経済を疲弊させ、大企業にだけ利潤が集まる仕組みを作りながら、「美しい国」というスローガンで国民統合を図ろうとする欺瞞。そして、その美しさは、戦前・戦中の日本社会のありようを肯定する復古的なものでした。その美しさには、どこかファシズムの匂いがあるんです。
平山郁夫は、「美しい国づくり」という表面的な理念に共鳴したのかもしれません。しかし、芸術家ほど、社会や権力に対して鋭敏な感性と洞察力を必要とする職業はないんじゃないでしょうか。
ぼくは、ハイデッガーの哲学やヘルダーリンの解釈は、好きです。平山郁夫の絵画展に行って、絵をつぶさに見れば、いいなと思うかもしれない。けれど、上述した欺瞞を見破れなかった芸術家であるという留保はどこまでもつけるつもりです。
いや
見破れなかったんじゃないですね。その欺瞞に協力した芸術家と言うべきでした。
ごもっとも
……と申し上げるしかないですね。
ただ、ここでわたくしが書きたかったことは、詩の書き手として、あるいは読み手としての自分自身の「揺れ」であって、その「揺れ」を大事に思っていたいと言うことです。「未決」状況を維持するのだということです。
お返事にはなっていませんが、ごめんなさいね。
writeback message: Ready to post a comment.