朝方に知らせが来てから急に時間の流れが速くなった。きょうだいや親戚に次々と電話が行き、礼服にブラシが掛けられ、猫にその日の餌をやってから、まだ寒い春、大きな町の北に向かった。なんかいも経験しているけれど、何で決まり事みたいに揃いも揃って北の方角なのか。過酷な夏、抜けるような青空の秋、冬から春にかけての梅花や沈丁花の透き通るような、飛天のうすぎぬのような匂いの漂う夕ぐれ、数えきれない人たちにさよならをした。初めての町はあかあかと暮れかけていた。何にも知らないメッセンジャーみたいな、たとえば花束の代わりにそれを抱きかかえているとでもいうふうな「……家」という小さな看板をかかえている若い男に道を聞く。灯のともる会場に着くと、もうみんな来ていた。手馴れたようすで人数分ならべられた、パイプ椅子の一番端に坐る。正面にはあふれるほどの花と、少しはにかんだような大きな写真の笑顔。順番に立ってひとりひとり香木を焼べ、ざわめきが収まると、若い先導者が語り始める。《接触とともに生じるのを感受と名づけよう。感受されたものに飽くことがないのを愛と名づけよう。愛して捨てざることは妄執にほかならない。それらが凝って生じるのが「生きること」である。そして生とは迷いの生存の出現することである。生存が成熟することを老といい、老の壊することを死という》そしてありとある有情のもの・無情のもの、それを取り巻き、かつその中を満たすもののすべては、増えもしないし減りもせず、生ずることもないし滅することもないと言う。たしかなものは無だけなのだと。あちこちで白い閃きとともに起きている歔欷の声は愛欲の広海みたいにやさしい。やがて殷々とした朗詠は終わり、帰る者、留まる者の立ち交じる参加者のなか、幾人かが、輝く繻子に覆われた白い箱に近づく。オフィーリアのように化粧してその人は軽く目をつむっていた。森厳たる意思が働いたのか、この世の汚濁に一日でも長く居させたくないというように、すなわち最も良き人びとから選んで攫う悲の計らいだとでもいうのか。気がつくと一本二本と花が投げられている。さらにまた花が投げられ、さらにまた陸続と花は投げられて匂い立ち、その人を容れた乗り物を覆い尽くし、こちら側に私たちを残したまま花の乗り物は、限りなく限りなく遠くなりまさる。
*引用部は華厳経より。
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