内子駅で妻と降り籠められた 
青や碧の華やかな山峡の肌がさっと小暗くなって 
にぎやかに明滅していた鳥たちの声がふいに途絶えると 
瀑布のような夕立だ 
たちのぼる雨の濃密な匂いのなかで、さっき見た 
浄瑠璃の死の高貴なくらがりを思い出していた 
慕わしい鬼火が飛ぶ冥界の板一枚隔てたこちらがわでは 
雨はいよいよ叩きつけるみたいに激しくなって 
山巓の明るい影のむこうを金色の千のけだものが通過してゆく 
山あいの町の魚鱗に似た瓦屋根が猛烈な水を受けて 
火打ち石のようにかちかちと瞬き 
死に装束へはおった女の打掛に匿われた男は真の闇のなかで 
這いつくばって女を捜し、かちかち打てばそろそろと明け 
合わせ合わせて身をちぢめ、袖と袖とを槙の戸や、虎の尾を踏む 
心地して、二人つづいてつつと出で、顔を見合わせ 
「アゝ嬉し」と、死にに行く身を喜びし、哀れさつらさ 
浅ましさ、あとに火打ちの石の火の 
命の、末こそ短けれ、と* 
一目散に去ってゆく、金の竜みたいな夏の白雨の後ろ姿を 
嘆きの雨だれ越しに眺めている 
墨痕みたいな山峡に煙雨がたなびいて 
ゆうぐれの 
帰りの列車の時刻が近づいてくる 
プラットフォームに上がる素透しの階段の踊り場で 
ふたたび夕日に輝き始めた町の全景へ振り向き 
つと立ち止まって、妻は声をあげる 
「このけしき、前も、ゆうべにも 
夢で見たけしきだわ」 
雨の去った 
内子の駅で 
もっと大きなきらめきのなかに妻と降り籠められていて 
 
*近松門左衛門『曽根崎心中』天満屋の段より。04年8月27日に、愛媛県内子町でおこなわれた内子座文楽公演を見に行った。 
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