青空
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青空



六号棟の待合室の椅子席で初めて彼と会った
リニアック室は搬送車とエレベーターを使い
空中回廊から棟を渡って地下に潜って到達する
一回目の照射の、地虫のような響きを胸に受けて部屋を出たら
カコガワさんが妻に、世間話みたいに、コバルト治療の心得を説いていた
ましらみたいな笑いを湛えた目と、どもりがちな口疾さと
剽軽な顎はとても
ひと月まえにここに担ぎ込まれたときの様子を想像させない
(カコガワさんは「一言では言えないひどさだった」
と口を噤んだきりだけれど)
川崎の鋼管通りに家があって、女房と子供と孫がいて
運送会社で定年までつとめあげたその秋のことだとか
待合室で妻はちいさな笑い声さえ、ほのかにあげていた
外出をすすめられた冬の終わりの暖かな日
病棟の玄関で、外套と毛糸の帽子と防菌マスクの見知らぬ完全重装備が
妻と私にむかって大きく手を上げたが
帽子とマスクのあいだには、ましらの目が思いきり皺を深くして笑っていた
許しが出て、街の中華料理屋にレバーを食べに行っていたという
彼の白血球は治療のために
六〇〇を切っていて、レバーは苦手だが、その店は味がいいともう一度笑う
女房がアガリクスや色んなものを持って来るのには閉口すると顔を曇らす
ある曇った早朝その奥さんがなぜだかデイルームに坐っている
どこかで見たような顔という感じしかしない
きっと
彼はいつものようにエレベーターを昇り、階段や空中回廊を抜けて
搬送車や帆掛け舟や鳥船に乗って
もう重装備を解いて
矢のように
家へ帰ったのだ

川崎の鋼管通りは海坂のごと明るくてかの人はかへる



「索」34号掲載予定


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