水牛のいる小径をたどって、丘や沼を越え、旅人は港にやって来た。小舟に乗って広場に着くと、ベンチに坐る旅人のまえに夕ぐれの港の景色が、スクリーンのなかを色々に動いている絵巻みたいにひろがる。ランプ付きのブイ、人がいたりいなくなったりする浮きドック、黄色と黒の虎縞模様の危険区域表示のあいだをぬって、小型タンカーや大型クルーザーが遊弋し、けたたましい音としぶきをあげてタグボートあるいはもっとずっと小さくて粒々みたいな原動機付き小型艇が現象している。霧笛は夕陽とともに時の徴も残さずに茫々と去った。これは寺かと旅人は思う。僧林かと。はげしい松の影や破れる蓮弁の時間が彼のまえにまざまざと現れては白描のように透きとおり、海の匂いのうちに前の千年を、そして次の千年をじつにたやすく仄めかしては一斉に蒸発する。溜息の息の根を止めるもっと大きな風に吹かれつづけて。極彩の砂漠のなかで、あるいは、菅笠をかぶって見晴るかす霖雨の大水田のなかで。枯れた草色の布のようなものを身に纏った二人の男がなにやら言い争っている。吹かれる旗をゆびさして、あれは風が動いているのか、旗が動いているのかと。海面に動くのは、では水か船か。こころが動いているのだとあの人は二人の僧を叱ったが、見えているのはこころのぜんぶか。こころに世界が写るのではなく、世界そのものの峻険なeffectとして、その実体として、恐るべき幻として、こころというものから人は逃れることは出来ないのだ。笛が聞こえるが、あれはモモとスモモの花の咲く、水牛の小径から聞こえてくるのだろうか。旅人がベンチから立ち上がると、港の光景は旗のように翻って匂い、光をあげ、それから彼は一宿の施しを受けた寺院を去るときのしきたりのように、船やブイや桟橋が曳いている粒々のいっさいを掃き棄てて、あとには淡い夕空が残るばかり……。一溌一墨掃破俗塵。*
*与謝蕪村の水墨俳画中の賛より。
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