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サエキさんのベッドは窓ぎわなので、晴れた日には
彼の後ろ向きの寝姿が、青い空に浮かんで見えることがある
サエキさんは気配りにこまやかな人間だから
声が漏れるのを病室のみんなにはばかって
たいていは、天から降りるうすぎぬに似たカーテンで
恥じ入るみたいに、自分の場所を囲んでしまう
痛いのはしょうがないし、ある意味で
厳密な哲学みたいに本腰を入れるテーマなのだが、病室のみんな
彼に話しかけもしないし、目も合わせないのはちょっとこたえる
(真剣に話しかけられても、それも困るけれど)
ヘルパーさんやナース、それに先生までも
しみとおるようにやさしいのは、もっとこたえる
デイルームに出たことはない
廊下を歩くこともない
ベッドとトイレの間(あわい)が彼にとっての三界であり
苦行僧のような彼の、幽かなうめき声とともに、日々の小さな巡礼が
そこで繰り広げられるのだ
いろいろ、片づけておかなくてはならないことや
処理すべき懸案がさし迫っていて
ある、めずらしくそれほど痛みのないらしい午前
うつむき加減だが晴朗な顔をして、会社の人間に指示を出すサエキさんは
なんだか幽玄な鶴に見えた
彼とほとんど言葉を交わさなかった私が
退院の挨拶に行った朝、サエキさんは突然悲憤するように私の手をつかみ
晴れた空を背に、喉をふりしぼって
「わたしにはもう、あと僅かもないけれど、クラタさん、
クラタさんには、生きて、ぜったいに、
わたしのぶんまで生きていって欲しい」と、
はるかな太虚にむかって一声をあげる

それゆえにシャーリプトラよ。
さとりもなければ、迷いもなく、さとりがなくなることもなければ、迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。……*

*『般若波羅蜜多心経』(中村元・紀野一義訳註、岩波文庫)より。


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