スエヨシさんの就寝は早く、朝は起床のチャイムのまえに 
はや、鏡にむかって髭を剃っている 
デイルームでみんなと一緒に食事をとることはなく、毎日おこなわれる 
内臓への刺青(タトゥー)みたいな点滴のあとは 
小さなラジオからイヤホンを延ばして、午後の競艇の実況に聴き入る 
稼いだ有り金をぶち込む、チョンガーの若いやつが来ないようになってから 
あっちこっちのレース場が寂れてきたんだ、と言って 
兜みたいな顔面の口だけが白い歯を見せる、けれど 
黒目がちな眼は修道僧よりも巨きな沈黙を湛えている 
彼の神は、もう久しく眺めていない、青い水面を軽快に奔るゼッケンか 
それとも、ある日、一切合切をそこに詰め込んで、病棟の扉から出る 
ひとかたまりの影のように大きいカバンなのか 
スエヨシさんの表情からは何も読み取ることができない 
ただ勤行みたいに点滴をつづけ 
夏や秋、鳥や雲、入院者や退院者、それから 
家族とともにしめやかに立ち去る者 
を見送りつづけ 
ある晩、兜を外した静かな人の顔になって、私に言うのだ 
「俺の治療は終わったんだ 
そうだ、百日間の点滴だった。明日 
俺は退院なんだ」 
 
彼はたぶん、私にこう言ったのだ 
「絶壁に立たされたとき、人は恐怖することすらできない 
おおかたの人々は、わめき叫ぶ暇もなく、深淵に呑み込まれて消える 
安全で温かな家に帰って、そして必要な時が与えられてのち初めて 
人は、深く激しく悲泣することができる」と 
 
 
「COAL SACK」48号掲載 
 
 
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