記憶
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記憶



ヤマちゃんは紹介されて東京のこの病院に
深い盆地とたたなわる山脈を擁する大きな県からやって来た
この方角に富士が見えるなんて、と言って
青く凝る夏富士にむかって腕を組み、首を振る
ヤマちゃんは親切で勤勉だから
めったに訪れない三十男の倅がいる、物忘れがいよいよ非道くなってきた
車椅子のカヤマさんのために朝ごと、判で押したように、地下の売店で
朝刊とお茶のペットボトルとティッシュペーパーのたぐいを
「ついでだから買ってくるけど、家への電話は自分でしてね
七十円の不足分は、このあいだのと合わせて百円玉でもらっておくから
取ったんじゃないんだから。それから髭は自分で剃るんだよ」
訛りはまったくないけれど、車が停滞してるとか、シュミレーションとか
アガリスク、と言ったりする
ワールドカップの日本のあと一勝がかかる試合をずっと見て
動きがぜんぜん違う、とトルコの運動能力の高さを冷厳に認めたヤマちゃんは
敗者を眺める辣腕の博奕打ちみたいだった
そうして同じようにヤマちゃんは、自分だけの時間をそんなふうに
眼で追っているのだ
いろいろな部分をいじらなくてはならない
白い絆創膏に覆われた顔の形は
だんだん記憶に似たものになってゆく、だけれども
彼の表情はどんなだった? と聞かれれば、私には
まぎれようのないヤマちゃんの顔があるが
あれから十八の月が過ぎ、ヤマちゃんはわれわれとは少し異なる方角から
はるかな富嶽を望んでいるのかも知れない
絆創膏を脱ぎ、彼が跡形もなくなっていたとしても
私にはまぎれようのない
ヤマちゃんの顔があるが

*昨年、肺から脳に飛んだ腫瘍の治療のために定位的放射線療法を受けた私は、1か月ほど、脳神経外科病棟に入った人々と起居を共にした。

索33号掲載


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